文字数 4,062文字

 その家は、森の中に建っていた。木造りの小さな二階家だ。
 木戸のついた門の向こうには、木々の下を縫って細い道が続いている。道はゆるやかに曲がって木陰に消えていた。
 ぼくはまだ、森の外に出たことはなかった。どんなに歩いても道の先は同じ風景。そして振り返ると変わらぬ位置に家はあった。
 ぼくがはじめて他の人間を目にしたのは、確か五つかそこらの時だと思う。春たけなわのころだった。
 森には桜の木が多く、薄紅の花びらは家の中にまで入りこんできた。ぼくは花に誘われるまま、門を出て外の小道をそぞろ歩いた。木戸から二十歩ばかり行った所に、道の上にまで根を突き出したみごとな桜の老木がある。その太い幹の後ろから、ひとりの男がひょいと顔をのぞかせたのだ。ぼくと男の目が、ばったりとあった。
 小柄だったぼくは、歳よりももっと幼く見えたことだと思う。だけどおかっぱ頭の黒い髪、いくぶん色白の肌に茶色の目。普通の子供たちと、何一つ変わったところなどないはずなのだ。
 が、その時の男の仰天ぶりをぼくは忘れることができない。彼はあんぐりと口を開け、両目をありったけ見開いたかと思うと、わけのわからない声を上げた。彼が後ずさるように首を引っ込めたとたん、声はふっつりと聞こえなくなった。
 ぼくはそっと幹の後ろにまわりこんだ。
 男の姿はどこにもなかった。
 ぼくは、ぼんやりと立ちつくした。彼はなぜ消えてしまったのだろう。それに、あの顔・・。
 この森の外の世界をぼくは知らない。でも、外にはいくつもの村や町があって、さまざまな人々が暮らしていることは教えられていた。いつかは外に出て、そんな人たちに会ってみたいと幼い心で思っていた。彼を見たときは驚いたけれど、嬉しくもあったのだ。それなのに・・。
 たまらなく悲しくなって、ぼくは家の中に駆け込んだ。居間の長椅子に座っていたオンに泣きながらぶつかった。
「どうした? カイ」
 ぼくを膝の上に抱き上げたオンは、長身でほっそりとした青年だ。長いまっすぐな黒髪を背中でひとつに束ね、黒っぽい寛衣で身を包んでいる。
 かっきりと鑿で削ったような彫り深い顔は、めったに表情を変えることはなかった。かといって、その整った美しさはけして冷たいものではなく、ぼくを見る彼のまなざしは、いつもこのうえなく優しいものだった。
 オンの胸に顔を押しつけると、寛衣の厚い布を通して規則正しい小刻みな音が聞こえてきた。
 チッチッチッ・・。
 思い出せる限りずっと昔からぼくの耳にこびりついてきた音、聞き慣れたその音はようやくぼくをなだめてくれた。ぼくはすすり泣きながら、いまあったことをオンに話した。
 オンは、ぼくの髪を象牙色の長い指でゆっくりとすいてくれた。
「ときどき、そんなことがおきるよ」
 オンは穏やかな声で言った。
「向こう側の人間が、時空間の結び目に足を踏み入れてしまうんだ。その男はこちらを見ただけで入り込みはしなかったが、さぞかし驚いたことだろう。目の前の世界が急に変わってしまったのだから。魔物に逢ったとでも思ったかな」
「魔物って?」
「人間ではないものさ」
「ぼくは、人間ではないの?」
「いいや、人間だ」
「オンやアオは?」
「アオは」
 オンは暖炉の前で丸くなっている大きな黒猫に目をやった。
「魔物だ。しかし、わたしは・・」
 ぼくは顔を上げてオンを見つめた。オンの静かに澄んだ黒い瞳がぼくを見返した。
「わたしは生きものですらないんだよ」
 ひっそりとオンは言った。それ以上、ぼくは尋ねることができなかった。彼のまなざしは、ひどく哀しげで忘れがたいものだった。
 その日の興奮がたたってか、夜更けごろからぼくは高い熱を出した。三日も寝込んでいたろうか。熱が見せる意味もなく奇妙なきれぎれ夢。うなされて目を開けると、枕元にはいつもオンがいた。
 ぼくはオンの手を取って、熱い頬に押し当てた。すべらかなその手は、額の上の氷嚢よりも心地よくぼくを冷やしてくれた。
 もっと強く顔をすりつける。するとまたかすかに、チッチッチッチッ・・。あの音を耳にして、ぼくはゆっくりと眠りに落ちた。オンさえいれば、もう他の人間の顔など見なくてもいいと思いながら。

 生まれたての赤ん坊のころ、ぼくは親に捨てられたらしい。その場所がたまたまオンの言う時空間の結び目で、こちら側に転がり込むことになったのだ。
 だが、自分の親にさしたる興味は持てなかった。自分を捨てた者たちを想ったところで何になる。これからも、出会うことはまずあるまい。ぼくは、あっさりと認めていた。自分の世界に、最初から彼らは属していないのだ。
 ぼくの世界は、果てもなく広がっている森。それでいて、どんなに歩こうといつの間にかもとの場所に戻ってしまう不思議な森。そこに建つオンの家。
 こじんまりとした住処だった。下は居間と台所。二階はぼくが使っている部屋と、窓際に四角い机が置かれた書斎らしき部屋がひとつ。
 書斎には、壁一面に棚があって本や巻物が詰め込まれていた。オンが毎日、机や本の埃を払って掃除する。オンが本を読む姿は見たことがなかった。彼はただ、ていねいに毎日の掃除を繰り返すだけだ。
 そしてときおり窓辺に立って、長いこと森の向こうを見つめていた。
 ぼくはなるべく書斎には、近づかないことにしていた。まったく気に入らなかった。オンがぼくに背を向ける唯一の場所であったから。
 ぼくが一番気に入っていた所は、居間の大きな暖炉の前だった。中型の犬ほどもある身体を丸めて、ほとんど一日中、そこでアオが眠っている。黒光りするふかふかとした毛皮は、絶好のクッションになる。
 アオにもたれかかって寝そべりながら、オンととりとめのない話をするのが好きだった。オンは口調少なくて、話すのはもっぱらぼくばかりだったけれども。
 オンがいつも座っている、出窓の下の長椅子も好きだった。古くてがっしりとした木の椅子だ。曲線のある背もたれに何か彫り物がほどこされていたらしいが、もう磨り減って見えなくなっていた。真ん中のところがそこだけ窪んでいて、どれだけ長い間使われてきたかわかるような気がした。
 眠ることのないオンは、夜さえもそこに座って静かに時を過ごしていた。
 暖炉の前には、これもまた古びた揺り椅子があった。くすんだ青紫の膝掛けがきちんとたたんでおいてある。オンがそれに座ることはなかった。それは、ぼくに二階の書斎と同様のよそよそしさを感じさせた。書斎もこの椅子もオンのものでないことは確かだろう。
 庭の横にはよく耕された畑があって、季節ごとに野菜がとれた。家畜小屋の牛はなぜか水だけで充分な乳を出してくれた。三羽の鶏は、餌をやらずとも毎朝ひとつづつの卵をうんだ。
 アオは一日一皿の牛乳を飲むだけだったし、オンはまったく食べ物を口にしなかった。畑も鶏も、ぼくのためにだけ世話しているようなものだった。
 オンはなぜ眠りもせず、ぼくのように食べ物を必要としないのだろう。
 ぼくは、ふと考える。
 生きものですらないんだよ。オンはそう言った。それが答えなのだろうか。
 オンは多くを語らない。ぼくにさまざまなことを教えてくれたのは、もっぱら物言う黒猫のアオだった。喉の奥をごろごろ鳴らし、ひたすら寝ているようなアオ。でもたまに頭をもたげ、金色の目を細めて気の向くままに外の世界のことを語り出す。
 居間には簡単な本や図鑑の類も置いてあって、それをめくらせながらあれこれ説明してくれるのもアオだった。
 オンは長椅子に座ったまま、黙ってぼくとアオを見守っている。アオの話に口をはさむことはまずなかった。
「彼以上のことをわたしは何も知らないんだよ」
 一度だけオンはぼくに言ったことがある。
「なにしろわたしは生まれてから一度もここを出たことはないし、アオはわたしよりも二百年は余計に生きている」
「ぼくが人間で、アオが魔物だとしたら、オンは何なの?」
 オンがいないとき、ぼくはそっとアオにたずねた。オンの前で訊くのが、なんとなくはばかられたのだ。
「彼は人形さ」
 いつもののんびりとした口調でアオは答えた。
「人形?」
「百年ばかり前までここに住んでいた魔法使いが造った自動人形だ。われわれ魔物はもともとの生きものを魔法使いがつくりかえたものだが、オンは無から生み出された」
「だけど、オンは・・」
「ああ、彼は本物の人間なみの意志や感情を持っているよ。さすがに魂はないが、よく出来ている」
 耳元に、彼の身体の奥から聞こえるあのチッチッチッという規則正しい音がよみがえってきた。あれは血の通った生きものではないということか。
「その魔法使いは」
 ぼくは声をひそめて言った。
「どこに行ったの?」
「わからない」
 アオは軽く首を振った。
「ある時ここを出て、そのままだ。オンはずっと主人の帰りを持っている」
 書斎の窓辺で、森の向こうにずっと目をはせていたオン。その背中を見て、ぼくは訳のわからない胸のうずきを感じていたものだ。ぼくには入りこむことのできないオンの思い。
 ぼくはかたわらの揺り椅子に目を向けた。この椅子と書斎の主。そればかりか、オンの主でもある魔法使い。彼の魔法は、百年たっても残っているわけなのだ。牛の乳や鶏の卵ばかりか、オンの心の中にまで。
 二階に上がると、オンはやはり書斎の窓辺に立っていた。ぼくがわざと荒っぽい足音をたてたので、彼は振り向いた。
 オンが自動人形だなんて、どうでもいいことだった。なんであろうとぼくにとってオンはオンであり、好きなことに変わりはない。
 魔法使いのことを、オンの口から聞き出そうかと思った。だが、結局やめにした。
 無防備に振り向いた彼は、いま森を眺めていたままの目をしていた。その哀みに近い表情をなおさら曇らせることはできなかったのだ。

 



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み