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文字数 2,852文字
その朝、ぼくはいつものように温めた牛乳をアオのところに持って行った。
秋も深まってきた日のことで、くべたばかりの薪の火が暖炉でぱちぱちと音を立てていた。
身を起こして牛乳に口をつけたアオは、ふいと思い出したようにつぶやいた。
「十と何年目になるかな、今日で」
「十三年目だ」
静かにオンが答える。
「何が?」
きょとんとしてぼくはたずねた。アオは口のまわりをちょっとなめ、
「坊やがあの桜の木の下で泣いていた時からさ」
「そう」
ぼくはオンを見た。
「ぼくを拾って、良かった? オン」
いつもと変わらぬ姿で長椅子に座っていたオンは、ぼくを見つめたまま、しばし無言だった。自分の中で問い直しているように。
「この年月ほど、時の流れを感じたことはなかった。きみの成長はめざましいものだったからね」
「答えになっていないよ」
ぼくは、オンの顔をのぞき込んだ。
「どうなの?」
「いい時間だった」
オンは目を伏せ、ゆっくりと言った。
「だが、そろそろきみも、仲間のもとに戻るべきかもしれない」
「仲間って?」
オンの突然の言葉にぼくは驚いた。
「人間たちのいる元の世界だよ」
「どうして」
ぼくは、うわずった声を上げた。
「どうしてそんなことを言うの」
「一生、わたしたちと暮らしているわけにもいかないだろう」
「暮らしたいよ」
「きみは、われわれとは違うんだ」
「違うったって──」
「仲間に混じって戸惑わないように、アオがきみを教育してくれたばずだ」
ぼくは、立ち上がって叫んだ。
「ぼくは、いやだ。ここを離れない」
オンは目を伏せたままだった。
ぼくは居間を飛び出した。
平気であんなことを言い出すオンがわからなかった。ぼくが思っているほど、オンがぼくを必要としていないことは確からしい。
ぼくはしばらく自分の部屋の寝台に突っ伏していた。すると、階段を登る静かな足音が聞こえてきた。オンが思い直して、わびを言いに来たのだろうか。ぼくは待った。
だが、オンが入ったのは隣の書斎の方だった。ことことと音が聞こえ、オンがいつものように掃除をはじめたのがわかった。
ぼくは、かっとして起き上がった。書斎の扉に手をかけて、オンの後ろ姿を見つめた。
「オンは、ぼくがいらなくなったんだよね」
声の震えをおさえてぼくは言った。
「どうして? あなたの魔法使いが帰って来るとでもいうの?」
オンは振り向いた。立ちつくしたまま、黙ってぼくを見つめた。何かを訴えかけるように。自動人形でなかったら、彼の目からは涙があふれていたかもしれない。自分が、とほうもなくオンを困らせているのがわかった。
ぼくは、たちまち後悔した。
「ごめん、オン」
ぼくは、ささやいた。
オンは、ちょっとうなずいた。その時にはもう、オンの表情は消えていた。人形そのもののように凍りついた顔でぼくに歩みより、小さいころよくしてくれたようにぼくの頭を撫でた。
「オン?」
オンは、ぼくの脇をすり抜けた。ぼくは、もう一度彼を呼び止めようとした。しかしその時、オンはがくりと両膝をつき、前のめりに廊下に倒れた。
「オン!」
ぼくは叫んでオンを抱え起こした。冷たい髪が、ぼくの手にこぼれ落ちた。
ぼくは、オンの胸に耳を押し付けた。チッチッチッ・・あの馴染み深い音が聞こえない。揺すぶっても、呼びかけても、オンは目を閉じたまま動かなかった。
ぼくのただらなぬ声に気づいて、アオが階段の下にのっそり歩み寄って来た。
「どうしたね、坊や」
「オンが」
口をひらくと、涙がこらえきれなくなった。
「オンが動かないんだ」
二階に上って来たアオは、オンの胸に前脚をかけた。オンの顔をのぞき込み、ぼくに首をめぐらした。
「寿命切れには早すぎるが」
何事にも動じない声でアオは言った。
「オンは壊れてしまったらしい」
「なぜ!」
ぼくは叫んだ。
「なぜ、急に」
その時、はっと思い当たった。
「ぼくが、オンを困らせたから・・?」
「さあ、それはわからない」
アオはオンから離れた。
「魔法使いの造ったものは、そうそう壊れはしないのだが」
「どうすればいいの? どうすればオンをもとにもどせる?」
アオは、ゆっくりと首を振った。
「なんとも言えんな。ハマなら直せるかもしれないが」
「ハマ?」
「オンを造った魔法使いだ」
そして、オンを残したままどこかに行ってしまった魔法使い、ぼくがまったく気に入らない魔法使いだ。けれど、オンを直すには、ハマの力を借りるしかないとするならば・・。
「ハマがどこに行ったのか、ぜんぜん見当はつかないの?」
「ああ、まるで」
アオは、その場に大儀そうにうずくまった。
「魔法使いというのは、おそろしく気まぐれで扱いにくい種族だ。さまざまな時空を、自在に行き来できる力を持っている。今われわれがいるこの場所は、ハマがきみのいた世界につくった空間のこぶのようなものだ。きみの世界にしか通じていない。ハマはもう・・」
「ぼくの世界にはいないかもしれないって?」
「そうだ」
「でも、いるかもしれない」
アオの言うことを信じたくはなかった。ぼくはもう、決心していた。
「ぼくは、ハマを探しに行くよ」
アオは、たっぷり五秒間ぼくを見つめた。
「人間の寿命は何年だと思う?」
「わからない」
「せいぜい生きて、百年が限度さ。坊や。一生かかってもできないことはある」
「ハマは無理でも、他の魔法使いに会えるかもしれない。魔法使いだったら、オンを・・」
「頼んでも無理だな。魔法使いは、自分のことにしか興味はない。彼らが協力しあうのは、利害関係が一致した時だけでね。他の魔法使いが造った人形など、見る気もしないだろう」
「じゃあ、どうすればいいのさ!」
ぼくは、かんしゃくをおこした。
「このまま、オンを壊れたままにしておけと言うの? ぼくのせいなんだ。このままじっとしてなんかいられない。なんとかしなくちゃ」
「そうすることで気がおさまるなら」
アオは、ちょっと首をすくめるようにした。
「わたしは何も言うまい。坊やがここを出ることは、オンも考えていたことではあるし」
「ハマはどんな姿をしているの?」
「一言では言えないな。魔法使いは、いつでも自分の好きな姿になれる。老人、子供、時には人間でないものの姿をとることもある」
アオは身を起こした。
「だがひょっとして、きみがハマに会うことが出来れば、きみにはそれがハマだとわかるかもしれないよ。そう・・会うことが出来ればの話だが」
言い残して、アオは階段を降りていった。彼がどんなに低い確率を考えているかは明らかだ。
ぼくは、オンをなんとかぼくの寝台に運び上げた。オンの身体は思いのほか軽くて、まるで彼の中にあったものが、そのまま抜けだしてしまったかのようだった。
ぼくは、冷たく横たわるオンの頬に手を触れた。それから胸に。
この胸に、もう一度あの馴染み深い音を取り戻せるのなら。もう一度オンが目を開き、僕を見つめてくれるなら。
「帰って来るさ」
ぼくは、ささやいた。
「ぼくは、きっと帰って来る。絶対、オンをなおすんだ」
秋も深まってきた日のことで、くべたばかりの薪の火が暖炉でぱちぱちと音を立てていた。
身を起こして牛乳に口をつけたアオは、ふいと思い出したようにつぶやいた。
「十と何年目になるかな、今日で」
「十三年目だ」
静かにオンが答える。
「何が?」
きょとんとしてぼくはたずねた。アオは口のまわりをちょっとなめ、
「坊やがあの桜の木の下で泣いていた時からさ」
「そう」
ぼくはオンを見た。
「ぼくを拾って、良かった? オン」
いつもと変わらぬ姿で長椅子に座っていたオンは、ぼくを見つめたまま、しばし無言だった。自分の中で問い直しているように。
「この年月ほど、時の流れを感じたことはなかった。きみの成長はめざましいものだったからね」
「答えになっていないよ」
ぼくは、オンの顔をのぞき込んだ。
「どうなの?」
「いい時間だった」
オンは目を伏せ、ゆっくりと言った。
「だが、そろそろきみも、仲間のもとに戻るべきかもしれない」
「仲間って?」
オンの突然の言葉にぼくは驚いた。
「人間たちのいる元の世界だよ」
「どうして」
ぼくは、うわずった声を上げた。
「どうしてそんなことを言うの」
「一生、わたしたちと暮らしているわけにもいかないだろう」
「暮らしたいよ」
「きみは、われわれとは違うんだ」
「違うったって──」
「仲間に混じって戸惑わないように、アオがきみを教育してくれたばずだ」
ぼくは、立ち上がって叫んだ。
「ぼくは、いやだ。ここを離れない」
オンは目を伏せたままだった。
ぼくは居間を飛び出した。
平気であんなことを言い出すオンがわからなかった。ぼくが思っているほど、オンがぼくを必要としていないことは確からしい。
ぼくはしばらく自分の部屋の寝台に突っ伏していた。すると、階段を登る静かな足音が聞こえてきた。オンが思い直して、わびを言いに来たのだろうか。ぼくは待った。
だが、オンが入ったのは隣の書斎の方だった。ことことと音が聞こえ、オンがいつものように掃除をはじめたのがわかった。
ぼくは、かっとして起き上がった。書斎の扉に手をかけて、オンの後ろ姿を見つめた。
「オンは、ぼくがいらなくなったんだよね」
声の震えをおさえてぼくは言った。
「どうして? あなたの魔法使いが帰って来るとでもいうの?」
オンは振り向いた。立ちつくしたまま、黙ってぼくを見つめた。何かを訴えかけるように。自動人形でなかったら、彼の目からは涙があふれていたかもしれない。自分が、とほうもなくオンを困らせているのがわかった。
ぼくは、たちまち後悔した。
「ごめん、オン」
ぼくは、ささやいた。
オンは、ちょっとうなずいた。その時にはもう、オンの表情は消えていた。人形そのもののように凍りついた顔でぼくに歩みより、小さいころよくしてくれたようにぼくの頭を撫でた。
「オン?」
オンは、ぼくの脇をすり抜けた。ぼくは、もう一度彼を呼び止めようとした。しかしその時、オンはがくりと両膝をつき、前のめりに廊下に倒れた。
「オン!」
ぼくは叫んでオンを抱え起こした。冷たい髪が、ぼくの手にこぼれ落ちた。
ぼくは、オンの胸に耳を押し付けた。チッチッチッ・・あの馴染み深い音が聞こえない。揺すぶっても、呼びかけても、オンは目を閉じたまま動かなかった。
ぼくのただらなぬ声に気づいて、アオが階段の下にのっそり歩み寄って来た。
「どうしたね、坊や」
「オンが」
口をひらくと、涙がこらえきれなくなった。
「オンが動かないんだ」
二階に上って来たアオは、オンの胸に前脚をかけた。オンの顔をのぞき込み、ぼくに首をめぐらした。
「寿命切れには早すぎるが」
何事にも動じない声でアオは言った。
「オンは壊れてしまったらしい」
「なぜ!」
ぼくは叫んだ。
「なぜ、急に」
その時、はっと思い当たった。
「ぼくが、オンを困らせたから・・?」
「さあ、それはわからない」
アオはオンから離れた。
「魔法使いの造ったものは、そうそう壊れはしないのだが」
「どうすればいいの? どうすればオンをもとにもどせる?」
アオは、ゆっくりと首を振った。
「なんとも言えんな。ハマなら直せるかもしれないが」
「ハマ?」
「オンを造った魔法使いだ」
そして、オンを残したままどこかに行ってしまった魔法使い、ぼくがまったく気に入らない魔法使いだ。けれど、オンを直すには、ハマの力を借りるしかないとするならば・・。
「ハマがどこに行ったのか、ぜんぜん見当はつかないの?」
「ああ、まるで」
アオは、その場に大儀そうにうずくまった。
「魔法使いというのは、おそろしく気まぐれで扱いにくい種族だ。さまざまな時空を、自在に行き来できる力を持っている。今われわれがいるこの場所は、ハマがきみのいた世界につくった空間のこぶのようなものだ。きみの世界にしか通じていない。ハマはもう・・」
「ぼくの世界にはいないかもしれないって?」
「そうだ」
「でも、いるかもしれない」
アオの言うことを信じたくはなかった。ぼくはもう、決心していた。
「ぼくは、ハマを探しに行くよ」
アオは、たっぷり五秒間ぼくを見つめた。
「人間の寿命は何年だと思う?」
「わからない」
「せいぜい生きて、百年が限度さ。坊や。一生かかってもできないことはある」
「ハマは無理でも、他の魔法使いに会えるかもしれない。魔法使いだったら、オンを・・」
「頼んでも無理だな。魔法使いは、自分のことにしか興味はない。彼らが協力しあうのは、利害関係が一致した時だけでね。他の魔法使いが造った人形など、見る気もしないだろう」
「じゃあ、どうすればいいのさ!」
ぼくは、かんしゃくをおこした。
「このまま、オンを壊れたままにしておけと言うの? ぼくのせいなんだ。このままじっとしてなんかいられない。なんとかしなくちゃ」
「そうすることで気がおさまるなら」
アオは、ちょっと首をすくめるようにした。
「わたしは何も言うまい。坊やがここを出ることは、オンも考えていたことではあるし」
「ハマはどんな姿をしているの?」
「一言では言えないな。魔法使いは、いつでも自分の好きな姿になれる。老人、子供、時には人間でないものの姿をとることもある」
アオは身を起こした。
「だがひょっとして、きみがハマに会うことが出来れば、きみにはそれがハマだとわかるかもしれないよ。そう・・会うことが出来ればの話だが」
言い残して、アオは階段を降りていった。彼がどんなに低い確率を考えているかは明らかだ。
ぼくは、オンをなんとかぼくの寝台に運び上げた。オンの身体は思いのほか軽くて、まるで彼の中にあったものが、そのまま抜けだしてしまったかのようだった。
ぼくは、冷たく横たわるオンの頬に手を触れた。それから胸に。
この胸に、もう一度あの馴染み深い音を取り戻せるのなら。もう一度オンが目を開き、僕を見つめてくれるなら。
「帰って来るさ」
ぼくは、ささやいた。
「ぼくは、きっと帰って来る。絶対、オンをなおすんだ」