10
文字数 2,818文字
東都までは、ホウと出会った村から半月ほどの道のりだ。
交易船を浮かべてゆったりと流れる川は、澄んだ秋の日差しを受けてきらめいていた。川を見下ろす街道を歩きながら、ぼくたちはそれぞれの旅で見聞きした珍しいことなどを教えあったりした。
ホウが一番興味を持っているのは、月の伝説だった。
「そもそも、わたしが各地の伝説を調べたいと思ったのも、月の物語が始まりでね」
ホウは説明してくれた。
「子供の時に聞いた語りの話が忘れられなかったんだ」
「どんな?」
「世界のはじめ、まず最初に生まれたのが月界王だ。月界王は、混沌とした大地から月を引き上げ、虚空に居場所を定めた。月があった場所は大海となり、今の世界が形づくられた。月が大海に還る時、その時が世界の終焉である・・。というのが、わたしが平地で聞き慣れてきた話しだ。ところが、その語りの話は違っていた。月界王は、やはり死の時を迎え、月は大海に沈む。世界は大洪水になったが、〈世界の縁〉にいた男の子と女の子が生き残った。やがて月界王はよみがえり、月は再び空へと昇った。子供たちの子孫は、新しい世界を作り上げた」
「はじめて聞くな」
「だろ。語りを生業としている者が知らないんじゃ、すこぶる貴重な話だよ」
少しの皮肉もなく、ホウは言った。
「この話をしてくれた語りは、山岳地帯出身だった。平地では、まず聞かれない話だ。わたしは、これが語りの故郷だけに伝わる話なのか、それとも〈世界の縁〉に近い山岳地帯には、東西南北どこにでも同じような話が残っているのかどうか知りたかった」
「だから、旅を?」
「うん。たった四年じゃ、全部を調べることなんて出来なかったけどね。でも、おもしろいことがわかった。山岳地帯の辺境は、どこでも大洪水の話を語り継いでいる。細部は少しづつ違ってはいるが。たとえば、大洪水の後に生き残ったのは一つの家族だったり、大木にしがみついて助かった人々だったり」
ホウは言葉をくぎり、ぼくの顔をのぞき込んだ。
「それぞれが遠く離れた辺境で、語りの交流があったなんて考えられるかい?」
「つまり、その昔、辺境の人々はみな同じ体験をしたということですか」
「その通り」
ホウは、嬉しそうににっと笑った。
「昔、この世界は大洪水にみまわれたんだ。山岳地帯の人々だけが辛くも生き残った。凄まじい体験は、伝説としてその地に残り続けた」
ぼくは、半信半疑で首をかしげた。
「でも、月が海に沈むなんて、ありえることでしょうか」
「わからない。そこが伝説だからね。だが、洪水に月が関わっているのは確かだと思うんだ。この伝説にあわせて、南の辺境では一つの言い伝えがあった。月が赤くなったら、〈縁〉に向かえ、ってね」
月が赤くなったとき、大洪水が起きたというわけか。
「月が赤くなった話なら、聞いたことがありますよ」
魔女のことを教えてくれた語りの話を思い出した。
「傲慢な人間に怒った月が、地上にのしかかってきたんです。地上は大嵐にみまわれた」
「おもしろい。それも変形した洪水譚じゃないのかな」
月が落ちて世界は終焉を迎えるだって。そんなことは、ただのおとぎ話に違いなかった。月は常にそこにある。成熟と若返りを繰り返して。衰えも死も寄せつけず、たえず変化することで月は永遠を手にしているのだ。
月界王が一度死んでいるなんて、信じられるわけがなかった。とはいえ、月に何か異常なことが起きたのは確からしい。大洪水が本当にあった出来事ならば。
「洪水が起きたのは、どれくらい昔のことなんでしょうね」
ぼくは、言った。
「わからない。わたしもそれを知りたいのさ。何千年も前のことだろうけど」
ホウは、目を輝かせた。
「一度滅んだ世界から、人間は這い上がった。そしてまた、文明を築き上げた。偉いものだと思うよ。今の歴史書には、大洪水のことは書かれていない。それぞれの王室の系図や正当性を語るばかりでさ。必要なのは、普通の人々の歴史だよ。わたしたちがここにいるのは、過去の人々が生活を積み重ねてきたおかげなんだ」
ホウの口調はだんだん熱を帯びてきた。
「今度はもっと多くの所をまわるつもりさ。古い物語をどんどん集めて、比べて、分類して、大系立てれば、歴史の片鱗なりとも見えるはずだ」
うらやましいほどの夢と好奇心だ。ぼくは、ますますホウが好きになり、くすりと笑いかけた。
「家に帰る前から、次の旅のことを考えているわけですか」
「まったくだ」
声を上げてホウは笑った。
「どうしようもないな、こればかりは」
夜中、頬にひやりと冷たいものが触れて目がさめた。小さな子供の手だった。
子供は、ぼく顔をふくれっ面でのぞき込んでいた。三日月だ。
ぼくは、寝台から身体を起こした、隣の寝台では、ホウが軽い寝息をたてていた。
「この人が一緒だとつまらない。ぼくのこと、忘れているんだもの」
「忘れたわけじゃないよ」
ぼくはホウを起こさないようにささやいて、三日月を膝の上に抱き上げた。ホウと旅するようになってからは一人でいる夜がなかったから、〈月〉に会うことも出来なかったわけだ。三日月の小さな子供になった彼は、とうとう堪えきれずにやってきたらしい。
「ホウとだってそんなに長くはいられないさ。ぼくの友だちは、きみだけだよ」
ぼくは、三日月の柔らかい髪の毛をゆっくりなでてやった。くすんと三日月は鼻をならした。
「ホウは面白いことを調べているんだよ。昔の大洪水のこと」
「知ってる」
三日月は、こくりとうなずいた。
「憶えているよ、なんとなく」
「洪水のこと?」
「水浸しの地陸はきれいだったよ。どこもかしこも青くて、きらきらしてて」
「そう」
ホウの推測は、あっさり証明されたわけだ。
「なぜ、そんなことが起きたんだろう」
「ぼくには、わからない」
三日月は、悲しげに首を振った。
「でも、とっても悪いことが起きたのだと思う。考えると、すごく嫌な感じがするもの」
「無理して思い出さなくてもいいよ」
「満月のときには、きっと何もかも知っているんだろうけど」
ぼくは、うなずいた。月界王に尋ねてみたいとは思う。ホウでなくとも、月と地陸の関わりはつきとめてみたい大きな謎だ。
「でも、大きくなったら話したくなくなっちゃう気がするよ、そんなこと」
「うん」
ホウのように、地道に調べていくしかないわけだ。
「つまらないよ。何かお話して」
三日月がせがんだ。ぼくは、我に返った。
「そうだね、どんな話がいい?」
「おもしろい話」
三日月は、ぼくを見上げて微笑んだ。
「さびしいんだ、このごろとても。カイがかまってくれないせいだよ」
ホウが、ちょっとうなって寝返りを打った。ぼくたちは同時に人差し指を口の前にたてて、そっと部屋の隅に移動した。
交易船を浮かべてゆったりと流れる川は、澄んだ秋の日差しを受けてきらめいていた。川を見下ろす街道を歩きながら、ぼくたちはそれぞれの旅で見聞きした珍しいことなどを教えあったりした。
ホウが一番興味を持っているのは、月の伝説だった。
「そもそも、わたしが各地の伝説を調べたいと思ったのも、月の物語が始まりでね」
ホウは説明してくれた。
「子供の時に聞いた語りの話が忘れられなかったんだ」
「どんな?」
「世界のはじめ、まず最初に生まれたのが月界王だ。月界王は、混沌とした大地から月を引き上げ、虚空に居場所を定めた。月があった場所は大海となり、今の世界が形づくられた。月が大海に還る時、その時が世界の終焉である・・。というのが、わたしが平地で聞き慣れてきた話しだ。ところが、その語りの話は違っていた。月界王は、やはり死の時を迎え、月は大海に沈む。世界は大洪水になったが、〈世界の縁〉にいた男の子と女の子が生き残った。やがて月界王はよみがえり、月は再び空へと昇った。子供たちの子孫は、新しい世界を作り上げた」
「はじめて聞くな」
「だろ。語りを生業としている者が知らないんじゃ、すこぶる貴重な話だよ」
少しの皮肉もなく、ホウは言った。
「この話をしてくれた語りは、山岳地帯出身だった。平地では、まず聞かれない話だ。わたしは、これが語りの故郷だけに伝わる話なのか、それとも〈世界の縁〉に近い山岳地帯には、東西南北どこにでも同じような話が残っているのかどうか知りたかった」
「だから、旅を?」
「うん。たった四年じゃ、全部を調べることなんて出来なかったけどね。でも、おもしろいことがわかった。山岳地帯の辺境は、どこでも大洪水の話を語り継いでいる。細部は少しづつ違ってはいるが。たとえば、大洪水の後に生き残ったのは一つの家族だったり、大木にしがみついて助かった人々だったり」
ホウは言葉をくぎり、ぼくの顔をのぞき込んだ。
「それぞれが遠く離れた辺境で、語りの交流があったなんて考えられるかい?」
「つまり、その昔、辺境の人々はみな同じ体験をしたということですか」
「その通り」
ホウは、嬉しそうににっと笑った。
「昔、この世界は大洪水にみまわれたんだ。山岳地帯の人々だけが辛くも生き残った。凄まじい体験は、伝説としてその地に残り続けた」
ぼくは、半信半疑で首をかしげた。
「でも、月が海に沈むなんて、ありえることでしょうか」
「わからない。そこが伝説だからね。だが、洪水に月が関わっているのは確かだと思うんだ。この伝説にあわせて、南の辺境では一つの言い伝えがあった。月が赤くなったら、〈縁〉に向かえ、ってね」
月が赤くなったとき、大洪水が起きたというわけか。
「月が赤くなった話なら、聞いたことがありますよ」
魔女のことを教えてくれた語りの話を思い出した。
「傲慢な人間に怒った月が、地上にのしかかってきたんです。地上は大嵐にみまわれた」
「おもしろい。それも変形した洪水譚じゃないのかな」
月が落ちて世界は終焉を迎えるだって。そんなことは、ただのおとぎ話に違いなかった。月は常にそこにある。成熟と若返りを繰り返して。衰えも死も寄せつけず、たえず変化することで月は永遠を手にしているのだ。
月界王が一度死んでいるなんて、信じられるわけがなかった。とはいえ、月に何か異常なことが起きたのは確からしい。大洪水が本当にあった出来事ならば。
「洪水が起きたのは、どれくらい昔のことなんでしょうね」
ぼくは、言った。
「わからない。わたしもそれを知りたいのさ。何千年も前のことだろうけど」
ホウは、目を輝かせた。
「一度滅んだ世界から、人間は這い上がった。そしてまた、文明を築き上げた。偉いものだと思うよ。今の歴史書には、大洪水のことは書かれていない。それぞれの王室の系図や正当性を語るばかりでさ。必要なのは、普通の人々の歴史だよ。わたしたちがここにいるのは、過去の人々が生活を積み重ねてきたおかげなんだ」
ホウの口調はだんだん熱を帯びてきた。
「今度はもっと多くの所をまわるつもりさ。古い物語をどんどん集めて、比べて、分類して、大系立てれば、歴史の片鱗なりとも見えるはずだ」
うらやましいほどの夢と好奇心だ。ぼくは、ますますホウが好きになり、くすりと笑いかけた。
「家に帰る前から、次の旅のことを考えているわけですか」
「まったくだ」
声を上げてホウは笑った。
「どうしようもないな、こればかりは」
夜中、頬にひやりと冷たいものが触れて目がさめた。小さな子供の手だった。
子供は、ぼく顔をふくれっ面でのぞき込んでいた。三日月だ。
ぼくは、寝台から身体を起こした、隣の寝台では、ホウが軽い寝息をたてていた。
「この人が一緒だとつまらない。ぼくのこと、忘れているんだもの」
「忘れたわけじゃないよ」
ぼくはホウを起こさないようにささやいて、三日月を膝の上に抱き上げた。ホウと旅するようになってからは一人でいる夜がなかったから、〈月〉に会うことも出来なかったわけだ。三日月の小さな子供になった彼は、とうとう堪えきれずにやってきたらしい。
「ホウとだってそんなに長くはいられないさ。ぼくの友だちは、きみだけだよ」
ぼくは、三日月の柔らかい髪の毛をゆっくりなでてやった。くすんと三日月は鼻をならした。
「ホウは面白いことを調べているんだよ。昔の大洪水のこと」
「知ってる」
三日月は、こくりとうなずいた。
「憶えているよ、なんとなく」
「洪水のこと?」
「水浸しの地陸はきれいだったよ。どこもかしこも青くて、きらきらしてて」
「そう」
ホウの推測は、あっさり証明されたわけだ。
「なぜ、そんなことが起きたんだろう」
「ぼくには、わからない」
三日月は、悲しげに首を振った。
「でも、とっても悪いことが起きたのだと思う。考えると、すごく嫌な感じがするもの」
「無理して思い出さなくてもいいよ」
「満月のときには、きっと何もかも知っているんだろうけど」
ぼくは、うなずいた。月界王に尋ねてみたいとは思う。ホウでなくとも、月と地陸の関わりはつきとめてみたい大きな謎だ。
「でも、大きくなったら話したくなくなっちゃう気がするよ、そんなこと」
「うん」
ホウのように、地道に調べていくしかないわけだ。
「つまらないよ。何かお話して」
三日月がせがんだ。ぼくは、我に返った。
「そうだね、どんな話がいい?」
「おもしろい話」
三日月は、ぼくを見上げて微笑んだ。
「さびしいんだ、このごろとても。カイがかまってくれないせいだよ」
ホウが、ちょっとうなって寝返りを打った。ぼくたちは同時に人差し指を口の前にたてて、そっと部屋の隅に移動した。