14

文字数 3,827文字

 とにかくホウの家を出ようとぼくは、思った。それからのことは、後で考えよう。
 ホウの家族といるのが辛かった。特に、サキと。
 彼らのナギは、消えてしまった。
 ハマがぼくの記憶を消して行かなかったことは、せめてもの幸いだった。最後まで、彼を憎んでいられるから。ぼくの後悔は、なぜあの時ハマと向き合うままになっていたかと言うことだ。思い切りひっぱたいてやればよかった。
 朝食後、ホウがぼくのところにやってきた。意識を取り戻してから四日目。庭のあたりを散歩できるまでに回復していたぼくは、ホウに別れを言うきっかけを探した。
 外でサキの声がした。ホウを呼んでいる。
「どうしたんだい、姉さん」
 ホウは、窓の下を覗きこんだ。庭木に水をやっていたサキは、水差しを手にしたまま空を示した。
「月がおかしいの。ちょっと見て」
 ぼくは、ぎくりとして晴れた空を仰いだ。
 昼間の月は、いつもなら白い雲のひとひらのようにうっすらと霞んでいるだけなのだが、いまは違っていた。半月からだいぶ膨らんだ月が、どんよりとした肌色に揺らいで見えた。ひとまわり、大きくなったような気さえする。
「光線の歪みか何かでそう見えるんだよ、姉さん」
 ホウは、なだめるように言った。
「大騒ぎしなさんな」
「大騒ぎじゃないわよ」
 サキは、頬を膨らませた。
「毎晩月が赤くなった話ばかり聞かされているから、神経質になってしまうんだわ」
 サキは、家の中に引っ込んだ。
「ちょっと脅かしすぎたかな」
 ホウは苦笑し、もう一度月を見上げてつぶやいた。
「でも、嫌な色だ。こんな月、見たことがないよ」
 ぼくは、言葉を失っていた。こんなにも早く?
 月が赤くなりはじめたのだろうか。ハマが言っていたばかりではないか。ぼくは、ハマが魔法使いとして目覚める直前に、彼に追いついたわけなのか。
「心配ないさ」
 ホウは、ぼくの様子に気づき、慌てて言った。
「今にもとに戻るよ」
 だが、夜になると月の赤みはますます際立った。しんと晴れ渡った濃紺の夜空に、月は橙色の濁った光を放っていた。誰が見ても不安をかき立てる色だった。
「信じられないよ、まさか本当に月が赤くなるなんて」
 髪の毛をかきむしりながらホウがつぶやいた。
「こんなことが起きるなんて、思ってもいなかった」
「ええ」
「やはり、天変地異の前触れなんだろうか」
 ぼくは、黙り込んだ。月もろとも世界が消滅するだなんて、ホウに言うことはできなかった。
「わたしは、王宮に行ってくる」
 ホウは、決心したように言った。
「王には、会えないが宰相ぐらいには話が届くはずだ。彼に使えている叔父さがいるんでね」
「そして?」
「大昔、月が赤くなって大洪水が起きた。もし今回もそうなら、早く手を打たなければならない。できる限りのことをして、被害を防ぐんだ」
 家族には心配かけたくないからと、ホウは、ぼくにだけ言い残して家を出た。
 ぼくは、ホウの外套が門の外に消えるのを窓辺でぼんやり見送った。結局、彼に別れを言い出せないままこんなことになってしまった。
 うなだれ、窓を離れようとした時、ふいに近くに人影が立った。ぼくは、はっとして目を向けた。
 〈月〉だ。
 一度だけ会った月界王より若かった。思いつめたような表情は、月界王がけして見せないものだろう。少年期と成年期のはざまの姿。
 ぼくは、声も出せず突っ立っていた。彼は、うなだれた。
「すまない」
「本当なんですね」
 ぼくは、ようやく言った。
「ハマの言っていたことは全部」
「そうだ」
 〈月〉は冷たい怒りをこめて答えた。
「ハマの気配を感じた時、すぐに追いかけようとしだが遅かった。彼はまたしても気配を絶った。この世界にはもういない」
「逃げたんだ」
「頼みがある」
 〈月〉は、ぼくに歩み寄った。
「きみの力が必要だ」
「ぼくの?」
「ハマと話がしたい。知っているだろう、きみとハマの結びつきは思いのほか強いんだ。ハマが立ち去ってから日が浅い。いまならまだ、呼び出せるかもしれない」
 ぼくは、とまどった。ぼくがハマといまいましいほど深く結びついているのは本当だ。だが、時空を越えてまで呼び出すことなど、できるだろうか。
「わたしの力は満ちていない。だが、それを待っては遅すぎる」
 〈月〉は、美しい顔を歪めた。
「もうこれしか方法がない。わたしはこの世界を滅ぼしたくない」
「ハマなら、なんとかできると?」
「ああ」
「でも、三千年前は、三人がかりで」
「わざわざ時間を引き戻したからだ。そうしなくとも地陸を守ることはできる」
 かすかな希望が生まれた。月が、地陸がこのまま消滅するなんて許せるわけがない。ぼくにできることなら、どんなことでもやってやろうと思った。
「どうすれば?」
「ハマのことを、強く念じてくれ。違う時空にいても、きみの意志なら届くはずだ。あとは、わたしが引きずり出す」
 ぼくは、寝台に腰を下ろした。〈月〉が、ぼくの手をしっかり握っていた。
 ぼくは、目を閉じた。オンに似た、しかしオンとはまるで違うハマの顔を思い浮かべた。この世界をもてあそび、オンを悲しませ、ぼくを常人でないものにした憎んでも憎みきれない魔法使いに呼びかけた。
 冷たかった〈月〉の手が、じんわりと暖かくなってきた。
 さらに熱く。手のひらを通してそれはぼくの身体中に押し広がり、皮膚をちりちりさせた。と同時にぼくの魂の一部がはじけ、凄まじい勢いで身体から離れた。
 あまりの衝撃に、ぼくは声を上げ、〈月〉の手をふりほどこうとした。
 〈月〉はぼくを寝台に押さえつけ、耳元でささやいた。
「頼む、耐えてくれ」
 ぼくは、離れていった魂のかけらを呼び戻そうと必死にあがいた。やっとのことで、ぼくは魂をたぐりよせた。
 魂は、ひとつの存在をとらえていた。
ハマ。
「無茶なことを」
 ぼくの唇が、勝手に動いた。
「死期を早めるつもりなのか」
 身体は、しびれたように感覚がなくなっていた。意識も、保っているのが精一杯だった。ぼくの口を使っているのはハマの意思だ。どこか時空を越えた場所に落ち着いたまま、ぼくを小手先で動かしている。
「お前に心配してもらうつもりはない」
 〈月〉は、冷ややかに言った。
「どちらにせよ、あと一年と持たなかった」
「なぜ呼び出した」
「できるなら、お前たち魔法使いをこの世界に引きずり込んで、もろともに滅ぼしたいくらいだ」
 〈月〉は、一言一言かみしめるように言った。
「お前は、わたしとの約束を裏切った」
「はじめから、約束などした憶えはない」
「ああ、そうだろう。懇願し、お前に受け入れられたと思ったわたしが愚かだったわけだ」
 〈月〉とハマは、何の話をしているのだろう。
 朦朧とした意識を、ぼくはなんとか研ぎ澄まそうとした。ハマの心を掴もうとしたが、どこにも掴みどころがなかった。ハマがぼくの唇を動かすだけの、一方通行なのだ。
「おまえ一人でもできたはずだ」
 〈月〉は語っていた。
「他の魔法使いの力を借りてまで、わたしの寿命を引き伸ばす必要はなかった。わたしを壊しさえすれば、世界は生き延びた」
「地軸が狂い、どちらにせよ惨憺たるありさまになっただろう」
「だが、二度とわたしの脅威にさらされることはなかった。どんな状況でも、地陸に棲むものたちは生き抜くことができる。長い時間かかっても、人間は文明を取り戻した。それなのに、わたしはまた、彼らを滅ぼさねばならない」
 ハマは、沈黙した。
「わたしを壊しても、地陸に魔物は放てたはずだ」
「この世界は、月と地上の均衡で成り立っている」
 ややあって、ハマは言った。
「地陸は、月に支えられた美しい箱庭だ。月がなくなれば、その形さえ歪んでしまう。醜い土の塊など、わたしはまったく興味がない」
「おまえには、もう用済みの世界だ」
 辛抱強く〈月〉は言った。
「もうどうなってもいいはずだ。三千年前の約束通り、わたしを破壊しろ」
 静寂が続いた。〈月〉がハマを促した。
「ハマ!」
「断る」
 ようやくハマは言った。
「なぜ」
「いま言ったはずだ。月があるからこそ、この世界の美しさは完璧なものになる。月のない世界は存在する価値もない。壊れてしまった方がましだろう」
 ぼくの声が、こんな傲慢な言葉を発しているなんて許せなかった。できるなら、ハマをとらえて八つ裂きにしてやりたいところだ。だが、今のぼくは、ただのよりましにすぎなかった。横たわったまま、自分の身体すら動かせない。
 〈月〉はうなだれ、ため息をついた。
「魔法使いなど、呪われてしまえ」
「とっくに呪われているさ」
 ハマの最後の言葉は、ぼくの心をかすめた思考の切れ端だった。ふっつりと、ハマの気配は消えた。
「すまない」
 〈月〉は、ぼくを抱え起こして言った。
「ハマを見つけるために、力を使いすぎた。わたしは、世界の終わりを早めてしまったようだ」
 ぼくは、繰り返し首を振った。〈月〉は、何も悪くない。彼は、できる精一杯のことをしてくれた。悪いのは、この世界をもてあそんだ魔法使いなのだ。
 〈月〉を慰めてやりたかった。だが、もう声が出なかった。
 とてつもない疲れをおぼえたぼくは、そのまま深い眠りに落ちた。


 
 


 
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