13

文字数 2,514文字

 ぼくは、よろめきながら立ち上がり、窓のカーテンに手をかけた。
 雨と風とがますます強くなっていた。月が見えるはずもない。
「なにが起こるんです」
 ぼくは、ハマを見た。
「月が、本当に海に沈むとでも言うんですか。ただの言い伝えじゃ・・」
 ハマの表情は、怒鳴りつけたくなるほど変化がなかった。
「この世界の月は、けして不死ではない。成熟し、若返り、たえず再生しているが、それは永遠には続かない不完全なものだ。月の再生サイクルに、わずかな歪みがあったらしい。ある時、月は赤みを帯び、成熟期から欠けることなく老年へと向かっていく。やがて天空にとどまる力も失せて落下するだろう。すさまじい力だ。この世界は消滅する」
 ぼくは、混乱して首を振った。
「ホウさんが伝説を集めていた。月は、以前にも赤くなったことがあるらしい。でも、大洪水だけで、消滅だなんて・・」
「ああ」
 ハマは、ささやいた。
「その時は、くいとめた」
 ぼくは、息をのんだ。
「あなたが?」
 ハマは、肩をすくめた。
「いかにわたしでも、ひとつの世界の終焉を止めることなど不可能だ。たまたま同時期、わたしの他に二人の魔法使いが居合わせていた。この世界を残したいという思いは一致した。われわれは力を合わせ、落下寸前の月の寿命を引き伸ばした。三千年ぼどだ。ほとんどの生きものは死滅したが、この世界は無事だった」
「なにが目的だったんです」
 ぼくは、即座に尋ねた。魔法使いが力を合わせて、ご親切にも世界を救ったとは思えない。理由は必ずあるはずだ。
「この世界は、小さな美しい硝子細工のようだ。壊すには惜しかったし、〈月〉の存在も魅力的だった」
「・・」
「洪水のあと、われわれはさまざまな魔物を放った。彼らがどのような社会を築くのか興味があったのでね」
「あなたがたには、吐き気がする」
 ぼくがどんなに怒りをこめても、ハマは平然としたものだった。
「わかったのは、魔物には大きな社会をつくる力はないと言うことだ。同種の群れ単位がせいぜいだった。やがて生き延びた人間たちが殖え、魔物をおびやかした。魔物の種としての寿命も限度があったようだ。世代を減るにつれて少なくなり、いまではほんの一握りのものたちしか残っていない。人間のしぶとさには、到底のかなわなかったと言うわけだ」
「月界王は、知っているんですね。自分の死が、あなたがたの気まぐれな大実験のせいで引き延ばされたこと」
 そうだ。魔法使いを探している、と月界王は言っていた。ハマに貸しがあると。あまりに巧みにハマが気配を絶っていたために、彼はハマをずっと見つけ出せずにいたのだ。
「〈月〉は、わたしを憎んでいるだろう」
「あたりまえだ」
 ぼくは、叫んだ。
「あなたがたは、月の命をもてあそんだんだ。この世界を」
「あのまま、この世界が滅びてもよかったと?」
「運命だったんだ。三千年前、それで終わるはずの運命だった。だけど、あなたがたはまた新しい運命をつくってしまった。生まれることもなければ、死ぬこともなかったぼくたちは、こうして生きている」
「はじめから存在しないほうがよかったかね」
「いまになってそんなことを言うのは卑怯でしょう。ぼくたちがここにいるのは、どうしようもない真実なんだ」
「そう、真実だ」
「あと二人の魔法使いは、どこにいるんです」
「他の時空に立ち去った。この世界のことなど、とうに忘れているだろう」
「あなたひとりの力で、なんとかできないんですか。この世界を救うことは」
「きみは、われわれが三千年前にしたことを非難したばかりではないかね」
「ああ、だけど・・」
 ぼくは、髪の毛をかきむしった。魔法使いを罵りながら、その力に懇願してしまう自分が悔しかった。
 身勝手さは重々承知だ。でも、月を死なせたくなかった。この世界を終わらせたくなかった。
 その時、軽い足音が聞こえ、部屋の扉が開いた。
 サキだった。
 彼女は、不思議そうにぼくとハマを見比べた。
「どうしたの、カイ。なぜここに?」
 サキは、はっとして口をつぐんだ。ハマの変化が、はっきりとわかったのだろう。
 サキを見返したハマの顔が、一瞬、苦しげに歪んだような気がした。魔法使いが、はじめて乱した表情だった。
 サキが両手で口を押さえ、小さな叫びを上げた。ぼくは、思わずサキに駆け寄った。
 彼女の手をとったとたん、意識を失った。

 気がついたのは寝台の上だった。ぼくを覗き込み、サキがほほえんでいた。
「熱が下がったみたいね、よかった」
 ぼくは、身をおこした。開いたカーテンから、灰色の空が見えた。朝だ。雨はやんでいた。
「ナギは?」
 サキは、きょとんと首をかしげた。
「誰のこと?」
 まもなくホウとその父親がやってきた。老いた医師は、ぼくを診察してあと三日は安静にしているようにいい、なるべく栄養をつけることだと付け足した。すぐさまサキは、台所に行った。温かいスープの匂いが漂ってくる中で、ホウは何くれとなくぼくの世話をやいてくれた。
 誰も、ナギのこと憶えていなかった。
 ハマは、立ち去ったのだ。彼の記憶をきれいに消して。
 サキは一度も結婚せず、敷地内の別棟は、いずれは家庭を持つだろうホウのために使われず、閉ざされたままだった。ホウの家族に、はじめからナギなど存在しなかった。
 ハマが最後にサキを見た時の辛そうな表情が、妙に心に残っていた。自分の痕跡を完全に消し去ってしまうことへの悲しみか?。ナギになりすましていた時間の分、人間の感情の残り滓がよぎったのかもしれない。
 自業自得だと思ってみる。気まぐれの報いだと。
 ハマは、どこに行ったのだろう。別の世界に旅立ったのだろうか。それとも、オンのところへ?
 いずれ戻るつもりだと言っていた。しかしそれは今日か、一年後か、百年後か。魔法使いには、時間などあってないようなものだ。オンが蘇る日は来るのだろうか。
 もう確かめるすべはないのかもしれない。ぼくは、身震いした。
 月はじきに、赤くなる。
 
 
 








 




 

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