12
文字数 3,674文字
その夜から、ぼくは高い熱にうなされることになった。
混沌とした意識の中で、夢の断片だけが鮮やかに浮き沈みした。真っ赤に膨れ上がって砕け散る月。おびただしい骨のかけらの中に埋まって、笑い声をたてている魔女。月の子供がどこかの暗がりに淋しそうにうずくまっていた。オンは書斎に立って窓の外を見つめ、かと思えばアオを抱き上げた顔のない魔法使いが揺り椅子に座っている。
「まったく」
アオが言った。
「子供のころと同じだな、坊や。驚くとすぐ熱を出す」
現実の方がぼんやりとしていた。うつらうつらして目を醒ますと、ホウやサキやナギ、誰かが側にいてくれたのは憶えている。まる三日、ぼくはそうして寝込んでいた。はっきりと意識が戻ったのは、四日目の朝だ。
枕元にサキがいた。ぼくと目が合うと、彼女は安心したようににっこりと笑った。
「熱が下がったみたいね。よかった」
「すみません」
ぼくは、ようやく言った。口の中がかさかさに乾いていた。
「ご迷惑かけて」
「気にしないで」
サキは水差しの水をぼくに渡してくれた。
「ずいぶん汗をかいたわね。寝間着を着替えましょう。持ってくるわ」
ぼくは、水を一口飲んでつぶやいた。
「ナギさんにも、すっかりお世話をかけてしまいました」
「病人を治すのが仕事ですもの。かまわないのよ」
サキはぼくの顔をのぞきこみ、首をかしげた。
「オンって誰?」
サキは微笑んでいた。
「うわごとで何度も繰り返していたのよ。ナギの手を握ったまま、離そうとしなかった」
「ああ・・」
ぼくは、目を閉じた。
「ぼくを育ててくれた人です」
「そう」
サキは、ぼくの髪の毛を優しく撫でてくれた。ぼくは、彼女の顔をまっすぐに見ることができなかった。
その時、ホウがやってきた。
「目がさめたのか。大丈夫かい?」
ホウは、心配そうに言った。
「無理することないよ。少し、ここでゆっくり休んで行けばいい」
ぼくは、曖昧にうなずいて枕に顔を押しつけた。これ以上、サキやホウの顔を見るのがつらかったのだ。
夜、ぼくはそっと起き上がった。身体はまだだるかったが、歩けないことはない。
ホウたちは、ぼくが眠ったと思っている。家族そろって居間にいる声が聞こえていた。ナギの声だけがしない。
窓越しに見える隣の棟の、二階の一室にだけ明かりがもれていた。ナギだけ自宅に残っているのだろう。
ぼくは、足音を忍ばせて階段を降り、ホウとサキの楽しげな笑い声を耳にしたまま玄関の外に出た。
夜空には、厚い雲が垂れ込めていた。雨まじりの風が吹いてくる。
ぼくは、庭続きのサキの家に入り込んだ。ナギは、書斎の机に向かい、なにやら書き物をしていた。
ぼくがドアを開けると、驚いたように振り返った。
「どうしたね、起きて大丈夫なのかい?」
「とうとう見つけた」
ぼくは、やっとのことで声に出した。
「ハマ」
立ち上がりかけたハマは動きを止めた。ゆっくりと額に手をあてがってぼくを見た。
その時、ナギの仮面は無残にもはぎとられていた。ナギのものだった穏やかな優しさはどこにもない。
ハマはかすかに唇を引き上げて、一種ふてぶてしい笑みを浮かべた。どこかさめた、けだるげな表情。その方がぼくには楽だった。ナギでいたときよりも、オンとかけ離れて見えたから。
「すぐにわかったかね?」
ハマは言った。
ぼくを見据えるハマの目は、底知れない闇の色だった。それがどれほどの年月と、どれほどの世界を映してきたのか、想像すらできなかった。はかりしれない時をかけて樹液が石に変わるように、彼の感情も瞳の奥でこごっている。
「自分を納得させるには、苦労した」
ぼくは、言った。
「ぼくだって信じられなかった。だけど、魔法使いはどんな姿にもなれるとアオは言っていた。自分の気に入りの形にオンを創ったあなたは、自分が人間に化ける時も、同じ姿をとったんだ」
ぼくを見つめるハマの表情は、小揺るぎもしなかった。
「そして、はっきりとわかった。ぼくがあなたに会えたのは偶然ではなかったということ。ぼくは、あなたが生み出した世界で育った。あなたの気のおかげで普通の人間のようには成長できないし、たぶんぼくが思っている以上にあなたの影響を受けているんだ。だから、あなたの存在に導かれてここまで辿り着いた。ホウさんとも、出会うべくして会った」
「そういうことだろう」
ハマは、あっさりと認めた。
「もう少し、放っておいて欲しかったのだが」
ぼくは、怒りを飲み込んでささやいた。
「ぼくが、どんなにあなたを憎んでいるか、わかりますか?」
「大体は」
「大体だって!」
ぼくは、声をふりしぼった。
「魔法使いのあなたに、人間の心がわかるわけがない。ホウさんや家族・・なによりサキさんはあなたをナギだと信じ込んでいるんですよ。ナギと信じて、愛してきたのに、あなたはみんなをだましていた。裏切ったんだ」
「記憶を消せば、彼らはわたしのことなど忘れてしまう」
ハマは言った。
「一瞬で、何事もなかったような日がはじまるだろう」
「それですむとでも?」
「馬鹿なことをしたものだ」
ハマは乾いた笑い声をたてた。
「ちょっとした遊び心だった。時空間の放浪にも飽きてしまってね、わたしの気に入りのこの世界に戻り、ほんの数十年、魔法使いであることを忘れるのも悪くないと思った。自分の記憶を封じて、代わりに人間の記憶を植え付けてみた。ナギとしてこの街を訪れ、サキと出会った。わたし自身、自分がよき家庭人のナギだと信じて疑わなかったのだよ。きみが、わたしの名を口にするまで」
ハマの言っていることは本当らしかった。かつてぼくが月界王にハマの居場所を尋ねた時、月界王は首を振った。この世界には、魔女とぼくしか魔法の気配を感じられないと。ハマは、自分自身をもあざむいて、人間になりきっていたのだ。
それでも、ぼくはここに引き寄せられた。ぼくは、ぞっとした。ぼくは、ハマといまいましいほど結びついている。
足元がふらついたので、ぼくは壁にもたれて座り込んだ。
「魔法使いは、退屈をまぎらわすためなら、どんなことでもやるものなんだ」
ハマを見上げ、ありったけの皮肉を込めて言ってやった。
「今は、楽しいゲームが終わった後の、ちょっとした虚しさを感じているわけですか」
ハマは、ぼくの言葉をまったく無視していた。
「いったい、魔法使いとは何者なんだ」
ぼくは、思わず声を荒らげた。
「なぜあなたがたのようないまいましいものが存在するのか、ぼくにはわからない。魔物も人間も、魔法使いの玩具じゃないんだ。それなのに、用がなくなったらどんどん捨てて忘れてしまう。オンだって」
ハマは、無言だった。
「あの魔女は、あなたの子供なんですか」
「まさか」
ハマは、かすかに肩をすくめた。
「この世界には、わたしの他に何人か魔法使いが訪れている。わたしではないよ」
「魔法使いは、みんな同類だ」
「オンを忘れていたわけではない」
ハマは、淡々と言った。
「彼は捨てがたい作品だ。いずれ戻るつもりだった。ナギになりきる前に、捨て子で死にかけている人間の赤ん坊を見つけた。わたしが帰るまで、彼の寂しさが幾分紛れるのではないかと思って置いてきた」
「それが、ぼくですか」
「らしいな」
「命の恩人なんて思うつもりはない」
ぼくは、きっぱりと言ってやった。
「あなたはぼくを犬ころ同然に拾ってきてオンに与えた。ぼくのためにオンは壊れた。あなたはオンをなおす義務があるんだ」
「わたしの過ちだったことは認めよう」
ハマは、言った。
過ちだらけの魔法使いども。
ぼくは、抱えた膝に顔をうずめた。
「わたしがオンに求めたのは従順さだ。わたし以外の何かを愛するようには出来ていない。オンの機能は、きみへの愛情に対応しきれなかったらしい」
「オンは、ぼくに出ていけと言ったんだ。人間の世界に戻れって」
「オンの時は動かない。きみが成長し、大人になり、死んでいくのが彼にはたえられなかった」
ハマに泣くところなど見せたくなかった。ぼくは、自分の腕に目を押しつけてようやく涙をこらえた。
ぼくにとってオンがすべてだったように、オンもぼくを愛してくれていたのだ。彼自身を壊してしまうほどに。
「ぼくが来なかったら、あなたはどうするつもりだったんです」
今のぼくにできるのは、ハマを責めることぐらいだ。」
「ずっとナギとして生きる訳にはいかないにに」
「暗示をかけていた」
「暗示?」
「その時が来たら目醒めるように。きみが来なくとも、まもなく目醒めるはずだった」
「それはそれは」
「じきに、月は赤くなる」
ぼくは、はっとして頭を上げた。
「月が赤くなったら?」
「その時には魔法使いに戻らねばならなかった」
ハマは、言った。
「この世界は、じきに滅びるだろうから」
混沌とした意識の中で、夢の断片だけが鮮やかに浮き沈みした。真っ赤に膨れ上がって砕け散る月。おびただしい骨のかけらの中に埋まって、笑い声をたてている魔女。月の子供がどこかの暗がりに淋しそうにうずくまっていた。オンは書斎に立って窓の外を見つめ、かと思えばアオを抱き上げた顔のない魔法使いが揺り椅子に座っている。
「まったく」
アオが言った。
「子供のころと同じだな、坊や。驚くとすぐ熱を出す」
現実の方がぼんやりとしていた。うつらうつらして目を醒ますと、ホウやサキやナギ、誰かが側にいてくれたのは憶えている。まる三日、ぼくはそうして寝込んでいた。はっきりと意識が戻ったのは、四日目の朝だ。
枕元にサキがいた。ぼくと目が合うと、彼女は安心したようににっこりと笑った。
「熱が下がったみたいね。よかった」
「すみません」
ぼくは、ようやく言った。口の中がかさかさに乾いていた。
「ご迷惑かけて」
「気にしないで」
サキは水差しの水をぼくに渡してくれた。
「ずいぶん汗をかいたわね。寝間着を着替えましょう。持ってくるわ」
ぼくは、水を一口飲んでつぶやいた。
「ナギさんにも、すっかりお世話をかけてしまいました」
「病人を治すのが仕事ですもの。かまわないのよ」
サキはぼくの顔をのぞきこみ、首をかしげた。
「オンって誰?」
サキは微笑んでいた。
「うわごとで何度も繰り返していたのよ。ナギの手を握ったまま、離そうとしなかった」
「ああ・・」
ぼくは、目を閉じた。
「ぼくを育ててくれた人です」
「そう」
サキは、ぼくの髪の毛を優しく撫でてくれた。ぼくは、彼女の顔をまっすぐに見ることができなかった。
その時、ホウがやってきた。
「目がさめたのか。大丈夫かい?」
ホウは、心配そうに言った。
「無理することないよ。少し、ここでゆっくり休んで行けばいい」
ぼくは、曖昧にうなずいて枕に顔を押しつけた。これ以上、サキやホウの顔を見るのがつらかったのだ。
夜、ぼくはそっと起き上がった。身体はまだだるかったが、歩けないことはない。
ホウたちは、ぼくが眠ったと思っている。家族そろって居間にいる声が聞こえていた。ナギの声だけがしない。
窓越しに見える隣の棟の、二階の一室にだけ明かりがもれていた。ナギだけ自宅に残っているのだろう。
ぼくは、足音を忍ばせて階段を降り、ホウとサキの楽しげな笑い声を耳にしたまま玄関の外に出た。
夜空には、厚い雲が垂れ込めていた。雨まじりの風が吹いてくる。
ぼくは、庭続きのサキの家に入り込んだ。ナギは、書斎の机に向かい、なにやら書き物をしていた。
ぼくがドアを開けると、驚いたように振り返った。
「どうしたね、起きて大丈夫なのかい?」
「とうとう見つけた」
ぼくは、やっとのことで声に出した。
「ハマ」
立ち上がりかけたハマは動きを止めた。ゆっくりと額に手をあてがってぼくを見た。
その時、ナギの仮面は無残にもはぎとられていた。ナギのものだった穏やかな優しさはどこにもない。
ハマはかすかに唇を引き上げて、一種ふてぶてしい笑みを浮かべた。どこかさめた、けだるげな表情。その方がぼくには楽だった。ナギでいたときよりも、オンとかけ離れて見えたから。
「すぐにわかったかね?」
ハマは言った。
ぼくを見据えるハマの目は、底知れない闇の色だった。それがどれほどの年月と、どれほどの世界を映してきたのか、想像すらできなかった。はかりしれない時をかけて樹液が石に変わるように、彼の感情も瞳の奥でこごっている。
「自分を納得させるには、苦労した」
ぼくは、言った。
「ぼくだって信じられなかった。だけど、魔法使いはどんな姿にもなれるとアオは言っていた。自分の気に入りの形にオンを創ったあなたは、自分が人間に化ける時も、同じ姿をとったんだ」
ぼくを見つめるハマの表情は、小揺るぎもしなかった。
「そして、はっきりとわかった。ぼくがあなたに会えたのは偶然ではなかったということ。ぼくは、あなたが生み出した世界で育った。あなたの気のおかげで普通の人間のようには成長できないし、たぶんぼくが思っている以上にあなたの影響を受けているんだ。だから、あなたの存在に導かれてここまで辿り着いた。ホウさんとも、出会うべくして会った」
「そういうことだろう」
ハマは、あっさりと認めた。
「もう少し、放っておいて欲しかったのだが」
ぼくは、怒りを飲み込んでささやいた。
「ぼくが、どんなにあなたを憎んでいるか、わかりますか?」
「大体は」
「大体だって!」
ぼくは、声をふりしぼった。
「魔法使いのあなたに、人間の心がわかるわけがない。ホウさんや家族・・なによりサキさんはあなたをナギだと信じ込んでいるんですよ。ナギと信じて、愛してきたのに、あなたはみんなをだましていた。裏切ったんだ」
「記憶を消せば、彼らはわたしのことなど忘れてしまう」
ハマは言った。
「一瞬で、何事もなかったような日がはじまるだろう」
「それですむとでも?」
「馬鹿なことをしたものだ」
ハマは乾いた笑い声をたてた。
「ちょっとした遊び心だった。時空間の放浪にも飽きてしまってね、わたしの気に入りのこの世界に戻り、ほんの数十年、魔法使いであることを忘れるのも悪くないと思った。自分の記憶を封じて、代わりに人間の記憶を植え付けてみた。ナギとしてこの街を訪れ、サキと出会った。わたし自身、自分がよき家庭人のナギだと信じて疑わなかったのだよ。きみが、わたしの名を口にするまで」
ハマの言っていることは本当らしかった。かつてぼくが月界王にハマの居場所を尋ねた時、月界王は首を振った。この世界には、魔女とぼくしか魔法の気配を感じられないと。ハマは、自分自身をもあざむいて、人間になりきっていたのだ。
それでも、ぼくはここに引き寄せられた。ぼくは、ぞっとした。ぼくは、ハマといまいましいほど結びついている。
足元がふらついたので、ぼくは壁にもたれて座り込んだ。
「魔法使いは、退屈をまぎらわすためなら、どんなことでもやるものなんだ」
ハマを見上げ、ありったけの皮肉を込めて言ってやった。
「今は、楽しいゲームが終わった後の、ちょっとした虚しさを感じているわけですか」
ハマは、ぼくの言葉をまったく無視していた。
「いったい、魔法使いとは何者なんだ」
ぼくは、思わず声を荒らげた。
「なぜあなたがたのようないまいましいものが存在するのか、ぼくにはわからない。魔物も人間も、魔法使いの玩具じゃないんだ。それなのに、用がなくなったらどんどん捨てて忘れてしまう。オンだって」
ハマは、無言だった。
「あの魔女は、あなたの子供なんですか」
「まさか」
ハマは、かすかに肩をすくめた。
「この世界には、わたしの他に何人か魔法使いが訪れている。わたしではないよ」
「魔法使いは、みんな同類だ」
「オンを忘れていたわけではない」
ハマは、淡々と言った。
「彼は捨てがたい作品だ。いずれ戻るつもりだった。ナギになりきる前に、捨て子で死にかけている人間の赤ん坊を見つけた。わたしが帰るまで、彼の寂しさが幾分紛れるのではないかと思って置いてきた」
「それが、ぼくですか」
「らしいな」
「命の恩人なんて思うつもりはない」
ぼくは、きっぱりと言ってやった。
「あなたはぼくを犬ころ同然に拾ってきてオンに与えた。ぼくのためにオンは壊れた。あなたはオンをなおす義務があるんだ」
「わたしの過ちだったことは認めよう」
ハマは、言った。
過ちだらけの魔法使いども。
ぼくは、抱えた膝に顔をうずめた。
「わたしがオンに求めたのは従順さだ。わたし以外の何かを愛するようには出来ていない。オンの機能は、きみへの愛情に対応しきれなかったらしい」
「オンは、ぼくに出ていけと言ったんだ。人間の世界に戻れって」
「オンの時は動かない。きみが成長し、大人になり、死んでいくのが彼にはたえられなかった」
ハマに泣くところなど見せたくなかった。ぼくは、自分の腕に目を押しつけてようやく涙をこらえた。
ぼくにとってオンがすべてだったように、オンもぼくを愛してくれていたのだ。彼自身を壊してしまうほどに。
「ぼくが来なかったら、あなたはどうするつもりだったんです」
今のぼくにできるのは、ハマを責めることぐらいだ。」
「ずっとナギとして生きる訳にはいかないにに」
「暗示をかけていた」
「暗示?」
「その時が来たら目醒めるように。きみが来なくとも、まもなく目醒めるはずだった」
「それはそれは」
「じきに、月は赤くなる」
ぼくは、はっとして頭を上げた。
「月が赤くなったら?」
「その時には魔法使いに戻らねばならなかった」
ハマは、言った。
「この世界は、じきに滅びるだろうから」