16

文字数 3,058文字

 「〈月〉・・」
 ぼくは、息をのみ、その場に膝をついた。
「ハマは?」
 〈月〉は、指先を空に向けた。
 ぼくたちの頭上には、月があいかわらず重たげにのしかかっていた。しかし、その赤みがだんだんと薄れていくような・・。少しづづ、少しづづ、ではあるが小さくなっているのでは?
 ぼくは、ささやいた。
「何が起きたんです?」
「ハマの力を感じて、わたしは来た。彼をこの世界から離さず、もろともに滅びるつもりだった」
 〈月〉は、深い息を吐き出した。
「だが彼は、わたしと魂をすりかえた」
「魂・・」
「月は、新しい命を得た。魔法使いが不死だとしたら、この世界はもう滅びることはないだろう。どういうわけが、ハマは最後の最後に、この世界を救ってくれた」
 それも、自分の魂をかけて。ぼくは、信じられない思いでもう一度月を見上げた。
 およそ、魔法使いらしくない行為だった。魔法使いは、自分しか愛さないはずではなかったか。〈月〉の願いを、最後まで拒み続けていたくせに。
 たわむれに人間になりすましていたハマは、ナギとして過ごした年月のうちに、人間の心を拭い去ることができなくなってしまったのだろうか。
 ハマ自身、どうしていいかわからず苦しんだのかもしれない。自分で自分を首を絞めた、愚かな魔法使い。
 ハマをこの場に引き寄せたのは、サキだった。結局のところ、ハマはこの世界を、彼が愛したサキを、見捨てることができなかったのだ。
 ハマが選んだのは、月を破壊することなくこの世界を保つ方法。自分が月になりかわることだった、
 〈月〉の呼吸が浅く、静かになってきた。
「生身の身体というのは、重いものだな」
 〈月〉は、つぶやいた。
「動けそうにない」
 ぼくは、何も言えず、〈月〉の手を握りしめた。いましがたまで、ハマのものだった手を。
 出会った時から、〈月〉は、ぼくにとってかけがえのない存在だった。ぼくがこの世界で生きてこれたのは〈月〉がいてくれたからだ。
 だがいま、彼の命は尽きようとしている。
「ぼくに、なにかできることはありますか」
「いや」
 〈月〉は、かすかに微笑んだ。
「こうしているだけでいい。嬉しい結末だ。誰かに看取られるとは思わなかった」
 彼は、穏やかな表情で月を見上げた。
 月は、急速に光を失っていた。元の位置に遠ざかり、空の中に消えてしまうかに見えた。
「心配はいらない」
 最後に、〈月〉は言った。
「ハマの魂が月になじむまで、時間が必要だ。月はまたよみがえる」
 〈月〉は、眠るように目を閉じた。ぼくは、静かに彼の手をその胸元に置いた。三千年引き戻された〈月〉の時間は、いま終わったのだ。

 サキの怪我は大事にいたらなかった、
 ホウの両親は、やがて自力で瓦礫から這い出して来た。少しの間、気を失っていたらしいと言っていたが、ハマの力が何かしら働いたのかもしれない。
 自分の傷の手当てを終えると、ホウの父は息子を助手にしてすぐさま街の怪我人の手当てに走りまわった。
 多くのことがおこりすぎ、それ以上にしなければならない多くのことがあった。誰もがみな、考える間もなく働き出した。
 庭先に横たわっていた見知らぬ男の骸も、他の犠牲者とともに荼毘にされた。彼を見た時、サキは涙を流した。彼女自身、理由のわからない涙だった。
 津波が引いた一瞬のことを、ホウは憶えていなかった。どうやってサキを救け出したのかもわからないと言っていた。
「無我夢中でしたから」
「そうだ。無我夢中だよな、今も」
 ホウは、ぼくにうなずいた。
 月は、光を失ったままだった。
 昼は見えず、夜はようやくその輪郭が見てとれるほど。誰もが、月は死んだのだと思った。
 やがてぼくは、ホウの家族に別れを告げた。
「ずっとここにいても構わないんだ。君さえよければ」
 ホウが、心の底から言ってくれているのがわかった。
「ありがとうございます」
 ぼくは、深く頭を下げた。
「でも、一度帰ろうと思います。ぼくの故郷に」
 ぼくは、 復興に余念のない街や村を通り、西へ、オンの家に向かった。
 アオに、ハマのことを話してやらなければならなかった。彼の主は、二度と帰って来ないということを。
 また春が訪れていた。空間の結び目である桜の老木は、枯れることなく満開の花をつけていた。
 ぼくは、太い幹をゆっくりとまさぐり、その裏にまわり込んだ。
 とたんに、胸が痛くなるほど懐かしい小道が、目の前にあった。木戸へと続く道を、ぼくは歩いた。木戸を開け、家の中に足を踏み入れた。
 暖炉の前で、あいかわらずアオが丸くなっていた。
「よく帰ってきたねえ、坊や」
 アオは、のんびりと言った。
「もう会えないかと思っていたよ」
「ハマをみつけたよ」
「ああ、ハマも言っていた」
「ハマがここに来たの?」
 ぼくは、驚いてアオの前にかがみこんだ。
「そう、すぐに立ち去ったけれど」
 アオは、ぼくの肩に前脚をかけてささやいた。
「上に行ってごらん」
 ぼくは、弾かれたように立ち上がった。階段を駆け上ってぼくの部屋に入ると、横たわっているはずのオンがいない。
ぼくは、書斎の扉に震える手をかけた。
 本棚の掃除する、オンの横顔が見えた。
オンはゆっくりと首をめぐらし、目を見開いた。
「オン」
オンは、何も言わず、大きく両手を広げてくれた。ぼくは力いっぱい抱きついた。胸に顔を押しつけると、
 チッチッチッ・・。あの忘れようのない音が、はっきりと聞こえた。
 ハマは、オンを直してくれたのだ。

 普通の人間より成長の遅いぼくは、あとどのくらい生きることになるのだろう。
 どれくらいでもかまわない。これからずっと、最期の時が来るまでオンのところにいるつもりだ。オンも、それでいいと言ってくれている。
 オンは今でも書斎に立って、窓の外をぼんやりと眺めているときがある。ぼくはもう、腹をたてたりはしない。オンにとって、ハマは忘れようにも忘れられない主人なのだ。
 ある日、ぼくは憶えのある気配を感じた。
何かが、ぼくの心の奥を引っ張っていた。時空が違っても、それはわかった。
「行こう、オン」
ぼくは言った。
「ぼくがいた世界を見せたいんだ」
オンは、ためらった。
「だが、わたしはここから出たことがない」
「出ようとしなかったからさ。それとも、怖い?」
「ああ、少し」
「大丈夫。ぼくがいる」
 ぼくは、オンを連れて桜の老木に手を触れた。
 晴れた夜空に、月がかかっていた。さえざえと白い、三日月だ。
月はよみがえり、光を取り戻している。
 オンは不思議そうに月を見上げた。秋のことで、虫がさかんに鳴いていた。
 そして、その子どもは、いつの間にかぼくたちの側にいた。
黒い髪で裸足。うっすらと身体から光を発している。ぼくを見上げる愛らしい顔は、いくぶん不満そうにしかめられていた。
「きみは・・」
「〈月〉だよ」
 むっつりと子どもは答えた。
オンは静かに子どもを見つめた。やがて手を伸ばして、ふわりと彼を抱き上げた。
 子供はおとなしくされるがままになっていた。ちょっとの間、穏の胸に耳を押しあてて、不思議そうな表情をつくる。
 穏は、子どもの頭をやさしくなでた。
「なにか、話をして」
 子どもは言った。
「退屈なんだ」
「うん」
 ぼくは頷いた。
「だろうね」
 ぼくは、桜の根もとに腰を下ろした。
「ぼくたちのことを話そうか」
 隣に座ったオンの膝の上で、子どもはじっとぼくの語りを待っている。
「その家は」
 ぼくは〈月〉に微笑みかけ、ゆっくりと語り出した。
「森の中に建っていた──」
 









 


 



 

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