8
文字数 1,743文字
ぼくは、ひとり山を降りた。魔女が追いかけてくる気配はなかった。〈月〉も、あれ以来、来てはくれなかった。幾日も前から、空は厚い雲におおわれていたのだ。
しかし、山の天気は気まぐれだ。夜の青黒い雲が突然裂け、光が雪原を満たし始める。磨き抜かれた銀盤が姿を現した。手を伸ばせば届きそうなほど大きく。もう、満月のころだった。
ぼくは、野宿の寝床から這い出して、思わず手をさしのべた。今の〈月〉ならば、ハマの手がかりを何が知っているかもしれない。ありったけの思いを込めて〈月〉に呼びかけた。
満月は、冷たい光を返すばかり。
きみの気持ちがとどけばいいけど。そう半月は言ってくれた。だが、成熟した〈月〉は、その光のように冷淡だった。物語の月界王は、地上の人間を常に慈愛をもって見守っているはずなのに。
物語は物語にすぎないのか。満月は、地上との接触を避け、ほくの呼びかけに背を向ける。
雲が流れ、再び月を包み隠した。雲の奥のかすかなにじむような光りを、ぼくは、いつまでも眺めつづけた。
翌朝は、明け方から風が強かった。歩いているうちに、湿っぽい雪が降り始めた。雪は外套にくっついて凍りつき、薄い氷の膜となる。たびたび立ち止まっては、ぱりぱりしたそれを払い落としたが、しだいにそんな暇もなくなった。
雪は、吹雪に変わっていた。視界は、まったく失われた。雪に足を取られ、そのまま倒れ込んでしまいそうだった。
吹雪を凌ぐ場所を探さなければ。しかし、まわりはどよもす風と、痛いような雪ばかり。顔を覆って立ち止まると、それ以上進めなくなった。頭の芯まで凍りつくようだ。
ぼくは、とうとう両膝をついた。動くことも出来なかった。雪は、容赦なくぼくの身体に降り積もる。
結局のところ・・。
薄れていく意識の中でぼくは考えた。これでおしまいなのだ。ハマを探すこともできず、二度とオンにあえないまま雪山で命を落としてしまうのだ。
もはや、寒さも感じなかった。
ぼくは、眠ったようだ。目が醒めると、吹雪はやんでいた。
ぼくのそばに、誰かがかがみ込んでいた。白い衣に銀色の髪。
「あなたは・・」
ぼくは、息をのんで彼を見つめた。
彼は、人間として最も充実した青年の姿をとっていた。その表情は凛としてゆるぎなく、その瞳には近寄りがたい威厳と奥深さがあった。
ここにいるのは、人間たちが畏怖と憧れをもって呼びならわしてきた者。月界王だ。
「来て、くれたんですね」
ぼくは、身を起こしてささやいた。
「さすがに、放ってはおけなかった」
月界王は、静かに口を開いた。その声には、いくぶん自嘲の響きがあった。
ぼくは、彼の前にひざまづいた。
「ぼくが、何を求めているのか、ご存知でしょう」
「問われたところで、わたしは答えられない」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「この世界には、いま、どんな魔法の気配も感じられない。きみと、あの魔女をのぞいては」
「ぼく?」
「この長い年月、わたしもわたしなりに魔法使いを探していたのだよ。きみがこの世界に現れた時、ついに見つけたとおもった。あまりに魔法の匂いが強かったから」
「・・」
「きみの話でようやく納得できた。ハマの作った空間で育ったきみは、魔法使いの気を少なからず受けている」
いまいましいハマの。ぼくは、唇をかみしめた。
「魔法使いは、この世界に、もうひとりもいないと言うことですか」
「おそらく。他の時空に去ったとなれば、もうわたしの力は及ばない」
月界王は、苦々しげにつぶやいた。
「きみがいた空間ですら、わたしは知らなかった。わずか百年前まで、彼がそこに住んでいたとは」
ため息が、すすり泣きに変わってしまった。ぼくは、両腕に顔を押しつけて嗚咽した。オンが倒れてから、声を出して泣くのははじめてだ。だが、ハマがいなければ、オンは蘇らない。
「この世界に、きみが求めているものは何もない」
月界王は、ぼくを支えてくれながら言った。
「戻った方がいい。はやいうちに」
二度と動くことのない、オンのもとへ?
ぼくは、繰り返し首を振った。月界王に抱かれたまま、泣き続けた。
オンは、永久に失われたのだ。
しかし、山の天気は気まぐれだ。夜の青黒い雲が突然裂け、光が雪原を満たし始める。磨き抜かれた銀盤が姿を現した。手を伸ばせば届きそうなほど大きく。もう、満月のころだった。
ぼくは、野宿の寝床から這い出して、思わず手をさしのべた。今の〈月〉ならば、ハマの手がかりを何が知っているかもしれない。ありったけの思いを込めて〈月〉に呼びかけた。
満月は、冷たい光を返すばかり。
きみの気持ちがとどけばいいけど。そう半月は言ってくれた。だが、成熟した〈月〉は、その光のように冷淡だった。物語の月界王は、地上の人間を常に慈愛をもって見守っているはずなのに。
物語は物語にすぎないのか。満月は、地上との接触を避け、ほくの呼びかけに背を向ける。
雲が流れ、再び月を包み隠した。雲の奥のかすかなにじむような光りを、ぼくは、いつまでも眺めつづけた。
翌朝は、明け方から風が強かった。歩いているうちに、湿っぽい雪が降り始めた。雪は外套にくっついて凍りつき、薄い氷の膜となる。たびたび立ち止まっては、ぱりぱりしたそれを払い落としたが、しだいにそんな暇もなくなった。
雪は、吹雪に変わっていた。視界は、まったく失われた。雪に足を取られ、そのまま倒れ込んでしまいそうだった。
吹雪を凌ぐ場所を探さなければ。しかし、まわりはどよもす風と、痛いような雪ばかり。顔を覆って立ち止まると、それ以上進めなくなった。頭の芯まで凍りつくようだ。
ぼくは、とうとう両膝をついた。動くことも出来なかった。雪は、容赦なくぼくの身体に降り積もる。
結局のところ・・。
薄れていく意識の中でぼくは考えた。これでおしまいなのだ。ハマを探すこともできず、二度とオンにあえないまま雪山で命を落としてしまうのだ。
もはや、寒さも感じなかった。
ぼくは、眠ったようだ。目が醒めると、吹雪はやんでいた。
ぼくのそばに、誰かがかがみ込んでいた。白い衣に銀色の髪。
「あなたは・・」
ぼくは、息をのんで彼を見つめた。
彼は、人間として最も充実した青年の姿をとっていた。その表情は凛としてゆるぎなく、その瞳には近寄りがたい威厳と奥深さがあった。
ここにいるのは、人間たちが畏怖と憧れをもって呼びならわしてきた者。月界王だ。
「来て、くれたんですね」
ぼくは、身を起こしてささやいた。
「さすがに、放ってはおけなかった」
月界王は、静かに口を開いた。その声には、いくぶん自嘲の響きがあった。
ぼくは、彼の前にひざまづいた。
「ぼくが、何を求めているのか、ご存知でしょう」
「問われたところで、わたしは答えられない」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「この世界には、いま、どんな魔法の気配も感じられない。きみと、あの魔女をのぞいては」
「ぼく?」
「この長い年月、わたしもわたしなりに魔法使いを探していたのだよ。きみがこの世界に現れた時、ついに見つけたとおもった。あまりに魔法の匂いが強かったから」
「・・」
「きみの話でようやく納得できた。ハマの作った空間で育ったきみは、魔法使いの気を少なからず受けている」
いまいましいハマの。ぼくは、唇をかみしめた。
「魔法使いは、この世界に、もうひとりもいないと言うことですか」
「おそらく。他の時空に去ったとなれば、もうわたしの力は及ばない」
月界王は、苦々しげにつぶやいた。
「きみがいた空間ですら、わたしは知らなかった。わずか百年前まで、彼がそこに住んでいたとは」
ため息が、すすり泣きに変わってしまった。ぼくは、両腕に顔を押しつけて嗚咽した。オンが倒れてから、声を出して泣くのははじめてだ。だが、ハマがいなければ、オンは蘇らない。
「この世界に、きみが求めているものは何もない」
月界王は、ぼくを支えてくれながら言った。
「戻った方がいい。はやいうちに」
二度と動くことのない、オンのもとへ?
ぼくは、繰り返し首を振った。月界王に抱かれたまま、泣き続けた。
オンは、永久に失われたのだ。