15

文字数 3,183文字

 けだるい身体を起こしたとき、夜は明けていた。
 〈月〉は、いなかった。
 ぼくは、急いで窓を開いた。まだ薄暗い空に、月は昨日の倍ほども膨れ上がっていた。どろりとした赤い光を放っている。
 世界の終わりを早めてしまったと〈月〉は言っていた。〈月〉は、急速に老いつつある。
 いてもたってもいられなくなって、ぼくは部屋を出た。階段の下でサキに会った。
「ホウを知らない?」
 青ざめた顔で彼女は言った。
「夕べから姿が見えないのよ」
 隠してもしょうがない。ぼくは、ホウが王宮に行ったことをサキに話した。
「ああ、でもあの月」
 サキは、身を震わせた。
「なぜ、こんなに急に満ちてきたの。大きくなったの。ホウに言われなくても、あれを見れば誰だって、ただならないことが起きると思うでしょうよ」
 ぼくは、頷いた。月の異変は恐怖をかきたてるに充分だ。
「外の様子を見てきます。ホウさんにも会えるかもしれない」
「身体は大丈夫?」
「ええ」
 サキは、ぼくの腕を取って引き寄せた。
「無理はしないでね」
「はい」
 ぼくは、ホウの家を飛び出した。
 朝だというのに、あたりは黄昏色にかすんでいた。月は、巨大な夕日のようだ。風が、いやに生暖かい。大気が変化しているためだろうか。
 おびただしい数の鴎が海から離れ、街の上空を旋回していた。あちこちで、飼い犬が悲しげな遠吠えを上げている。
 市街地に行くにつれ、あたりはますます騒然としてきた。道路の真ん中に立って呆然と空を見上げている老人。甲高い声で月界王に祈りをささげている女性や、商店の奥から聞こえる訳の分からない罵り声。みな、とほうにくれている。
 港の通りに入った時、船着き場の方を見てはっとした。停泊している船が異様にせり上がっていた。満ち潮の時間でもないのに、海面が上がって来ているのだ。
 寄せる波が桟橋をなめ、黒い跡をつけていた。それはだんだん広がって行くようだ。
 船乗りたちが、三々五々集まって言い争いをしていた。
「月は、海に落ちるんだぜ」
 誰かが怒鳴った。
「船なんかに、乗ってられっか」
「だから、川を遡るんだよ。もう出港する船もあるじゃねえか」
「ふん、川も海の続きだあな」
 ぼくは、赤い月を仰ぎ見た。どこに行っても、助かる場所などないと言うのに。
「カイ!」
 ぼくを呼ぶ声に、ふりかえった。
「ホウさん」
「どうしたんだ、こんなところまで来て」
「あなたこそ。サキさんが心配していましたよ」
「すぐ帰ろう」
 ホウは、海をちらと見た。
「どこにいたんです?」
「宰相のところに軟禁されててね」
 ホウは、苦笑いした。
「天変地異だの何だのと、流言で人を惑わすつもりかと言われたよ。昨日までは、わたしの話など誰もい信じていなかった。だが、今朝のこの月・・。いやでも終わりの時が来たと考えるよ。恐ろしい混乱が起きる。伝説よりは、わたしの話のほうがましだと彼らは判断したんだ」
 ホウは、ぼくの手を取って足早に歩き出した。
「けして終わりじゃないと、みなに知らせなければいけない。月は、以前にも赤くなったが、終焉は来なかった。大洪水はおきたが、地陸は、また蘇った。間もなく、全民避難の王令が出るはずだ。とにかく、高みへ、〈世界の縁〉に向かって逃げるんだ」
「あなたは」
 やっとのことでぼくは言った。
「本当のところ、どう思っているんですか。世界は、本当に滅びることはないと?」
「わからない」
 ホウは、きっぱりと首を降った。
「だけど、最後の最後まであきらめたくはない。少しでも希望があるなら、それにすがっていくべきだ」
 ぼくは、うなずくことしかできなかった。
 市街地を抜けて、ホウの家に向かう坂道を上りかけた時だった。突然、突き上げてくるような振動があって、地面が揺らいだ。
 ぼくたちは思わず声をあげ、互いに支え合った。立っていられないほどの暴力的な揺れが、三呼吸ほど続いた。あちこちで悲鳴や物の壊れる音が響く。
 道の片側の石垣が横倒しになった。飛び散った破片がぼくの頬にぶつかっだが、あまりの衝撃にぼくは痛みも感じなかった。
 地軸が狂い始めているのだ。
 揺れがおさまると、ぼくたちは恐る恐る立ち上がった。
 あたりは一変していた。大半の家は倒壊し、土埃を上げていた。坂の下に目をやると、市街地のところどころに赤いものが見えた。火の手が上がっているのだ。
 そして月は、さらに大きくなっていた。赤銅色に燃え立ちながら、頭上に覆い被さって来るかのようだ。
自らを支えきれないほど、月は衰えている。
「カイ」
 ホウの震える声に、はっとした。
「家に急ぐよ」
 ホウは、駆け出していた。ぼくも彼の後を追った。
 月は、太陽の光を完全に遮っていた。地上は、月の色に赤く染まっている。いたるところですすり泣きや、肉親の名を呼ぶ狂おしい声が聞こえた。
 ホウの家の石垣もまた、崩れていた。植え込みから見えるはずの二階屋根は、本宅も別棟も、形がなくなっていた。
 ホウは、玄関のあった場所にたどりつき、歯を食いしばった。飛び散った瓦礫をかきわけながら、ホウは、両親と姉の名を呼んだ。
「ホウ・・」
 台所のあった場所から、かすかに声が聞こえた。ぼくたちは、急いでそっちに駆け寄った。
 崩れた壁板と柱の間に、サキが倒れていた。額から、血が流れていたが、意識ははっきりしている。
「姉さん!」
 ホウは、叫ぶように言った。
「母さんと父さんは?」
「わからない。呼んでも返事がないの」
 ホウは小さなうめき声を上げ、顔を覆った。
「母さんたちをさがして」
「わかった。その前に姉さんを」
 ぼくたちは、サキの上の瓦礫を必死で取り除いた。しかし、彼女の下半身は厚い壁に挟まれていて、救け出すには時間がかかりそうだった。
 サキがだんだんと力なく、青ざめていくのがわかった。
 と、またしても地面が振動した。海の方から低い、地鳴りのような音が聞こえる。
 ぼくは、そちらに首をめぐらした。家々が崩れ、何も遮るものがなくなった視界に、海が盛り上がって来た。
「津波だ」
 ホウが、呆然とつぶやいた。
「逃げて、ホウ」
 サキがささやいた。
「ここはもういい。あなたたちだけでも」
「だめだ!」
 ホウは、首を振った。
「できないよ、そんなこと」
「早く! ホウ」
 力つきたように、サキは目を閉じた。その唇が、ひとつの名をつぶやいた。
「ナギ・・」
 意識の途切れる瞬間に、彼女の記憶が蘇ったのだろうか。ぼくは、やり場のない怒りを込めて拳を振り上げた。
 冷たい、塩気を含んだ風が吹きつけてきた。高々と盛り上がった波は、怖ろしい速さで市街地を飲み込み、渦を巻き、坂の上まで押し寄せていた。臓腑を揺るがすような地鳴りと轟音。
 突然、すべての音が消えた。
 波は、ぼくたちの手前で静止した。気がつくと、サキはホウの腕の中に倒れ込んでいた。
 なじみある者の気配。ぼくは、そちらに目を向けた。
 〈月〉の銀色の髪が見えた。彼は、誰かを組み敷いていた。黒い髪の魔法使いだ。
 ハマが一度、確かめるようにサキの方を見たのは憶えている。
 ハマはもがくことをやめ、〈月〉の背中に両手をまわした。〈月〉は、驚いたようにハマを見つめた。
 ハマは、そのまま〈月〉を引き寄せた。彼らの姿が、重なり合ったように見えた瞬間、
 〈月〉は、消えていた。
 ハマだけが、その場にぐったりと倒れていた。
 音がもどった。波は引いていた。
 なにが起きたのかわからないまま、ぼくはハマに歩み寄った。
「ハマ・・」
「ちがう」
 彼は、薄く目を開けて首を振った。
「わたしは、〈月〉だ」
 








 

 


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