9
文字数 3,406文字
森の小道を辿ると、古びた木戸がある。木戸を開ければ、懐かしいオンの家だ。
オンは微笑み浮かべ、ぼくを迎えてくれる。暖炉の前で丸くなっていたアオが、ちらとぼくを見上げ、背伸びしながら大あくびする。
そんな夢を何度みたことだろう。目覚める場所は、野宿の空の下や、どこかの宿屋の狭い一室だ。
ハマがいないとわかっても、ぼくは、オンのもとに戻らなかった。
もう少し、気持ちに整理をつけてから帰ろうと思った。オンが二度と動かず、ぼくに声をかけ、やさしく手を差し伸べてくれることは決してないのだと認めることができる日まで。
だが、そんな時が来るのだろうか?
ぼくの旅は、ハマを探すためのものから、生きるためのものに変わっていた。
語りは、すでにぼくの職業だった。アオに教わったものばかりではなく、他の語りから聞き覚えた物語の数も増えた。時と場所によって人々の求めている話を選び出し、語り口を変える術も覚えた。
ぼくはただ、日々を暮らしていくためにだけ、様々な土地をさすらった。
ひとつの場所に留まろうかと思った時もあったのだ。だが、出来なかった。
ぼくには、他の人間と違うところがある。はじめは気がつかなかったが、そのうち嫌でも気づくことになった。
少年期の終わり頃から、ぼくの成長は普通の人間に比べるとかなりゆっくりしたものになっていた。ぼくがオンの家を出てから、十年はたっている。とっくに成人しているはずのぼくは、しかしどうみても十五六の少年だった。背はほとんど伸びず、顔つきも子供子供したままなのだ。これでは同じ場所にいられるのも、一二年が限度ということになる。
「ぼくは、本当に人間なのだろうか」
ある夜、〈月〉に訴えた。
「もしかしたら、魔物の血を引いているのかもしれない。僕のような人間はどこにもいないよ」
そうだ。そもそもなぜあんな場所に、人間の赤ん坊が捨てられなければならなかったのだろう。オンに拾われなかったら、おそらく獣にでも喰い殺されていたような場所に。
「うん」
半月の頃の、少年の姿をとった〈月〉は、考え深げに首をかしげた。
「でも、魔物とはちがう。ハマの力のためじゃないかと思うんだ」
「ハマ」
自然、顔が険しくなった。〈月〉は、ぼくをなだめるように見つめ、
「ハマが作った空間できみは育った。魔法使いの力が満ち満ちている場所で、だよ。それがきみの身体に影響を与えているのかもしれない」
月界王も言っていた。ぼくには魔法使いの気があったと。ぼくには深々と、ハマの爪痕が残っている。
ハマの存在のためにぼくはオンを傷つけて壊し、帰る場所を失った。ハマのいまいましい魔力のために、あたりまえの人間として暮らすこともできなくなっている。
仲間のところに戻った方がいい。そうオンは言った。壊れる前の遺言のようなものだった。だが、こっちの世界にもぼくの仲間などいはしない。人間としても異質のものにぼくはなってしまっている。
ぼくも、あの魔女と同じなわけだ。魔力はないというのに、人間としては長すぎる寿命を持った彼女。氷の城でただひとり生きている魔女。
ただ、彼女より幸運だったのは〈月〉に出会えたことだろう。〈月〉のおかげで、ぼくは恐ろしい孤独を免れている。
完全に成熟しきった時の〈月〉だけをぼくは月界王と呼んでいた。膨大な知識を持ち、孤高で隙もなく身構えた彼。その呼び方は正しくないと若い〈月〉は笑うが、それ以上にふさわしい名は思い浮かばなかった。ぼくに姿を見せてくれたのは一度きり、ハマはこの世界にいないと教えてくれた時だけだった。しかし、満月のたび、彼の存在は感じ取ることができた。月界王が見守っていてくれていることだけで、ぼくは満足することにした。
月界王に会えなくても、幼年期や少年期の〈月〉は、晴れた夜、たびたびぼくの前に現れてくれる。半月のころの〈月〉は、ぼくのなくてはならない友人になった。遊び相手欲しさにやってくる三日月は、やんちゃな弟といったところか。
たえず変化している〈月〉が、同じひとつの人格(と言っていいなら)だと思うには骨がおれた。
「入れ物が違うと考えてごらん」
半月が言ったことがある。
「同じ中身を小さなものに入れようとしても溢れてしまうだろう。満月の頃の力がそれさ。ぼくには使いこなせない。満月は、生まれてからの膨大な記憶を持っているに違いないが、ぼくは思い出せない。知識だって理解できない。それでいいような気がするよ」
半月は、生真面目な顔でぼくを見た。
「始終、満月のままだったら、疲れてしまうだろうからね」
「なるほど」
ぼくは、大きくうなずいたものだ。
その秋の終わり、ぼくは東国の都を目指していた。冬を越すのは、もちろん大きな街の方が楽だったから。語りを求められなくとも、何かしらの仕事がある。
東都へと流れる大河沿いに、ぼくはゆっくりと旅をした。空気の澄んだ、良い天気が続いていた。収穫を終えたばかりの人々は太っ腹になっていて、立ち寄る村々でも語りの報酬を弾んでくれた。
いつものように宿屋に荷物を下ろすと、そこの主人に居酒屋を兼ねた食堂で語りをする許しをもらった。
夕刻、混み始めた店の片隅で、旅の途中で覚えた恋物語など語りはじめる。こういった店の語りは低い声の方がいい。聴きたい者は自然集まってくるし、語りなど好きでもない者の邪魔にもならないわけで。
ひとつ語り終えた時、ぼくからほど近い椅子に座ってこちらを見つめている青年に気づいた。二十歳を越したくらいだろう。赤みを帯びた髪と、よく日焼けした人なつっこい顔をしている。手足はひょろ長く、旅人らしい頭巾つきの外套をまとっていた。
彼は、ぼくににっこりと笑いかけた。ぼくも、つい笑みを返す。
「その歳で、ずいぶん語りなれているんだね。いったい、いつから語りをしているんだい?」
彼は、興味深そうに話しかけてきた。ぼくは、笑ってごまかした。
「語りがお好きのようですね」
「うん、昔から。よかったら、こっちに来ないかい。夕飯はまだだろう?」
語りの報酬に食事をさせてもらえるのは珍しいことではなかった。なかには下心ある者もいたけれど、彼はそんな人間ではなさそうだ。ぼくは、喜んで彼のテーブルに座った。
ぼくたちは、すぐに打ち解けた。彼の名はホウ。やはり東都に向かう途中だった。東都には、彼の家があるという。
「四年ぶりなんだ。懐かしいよ」
「ずっと旅を?」
「そう、あっちこっちをね。きみ、生まれは?」
「西国・・山地帯の方ですよ」
「西国にも行ったよ。どの国にも、山地帯には古い伝説が残っているよね」
「かもしれない。よそ者がめったに来ませんからね」
「その地方独自の話が、そのまま残っているんだ。おもしろいよ」
語りのもともとは、地域の一族の話を語り継ぐ者たちだった。時が過ぎ、人々の暮らしが一族だけのものから町や都市に広がっていくと、語りを生業にして旅する者も現れる。伝説や昔話は、語りに運ばれるにつれ、他の地方の物語と交わったり、より面白く肉づけされて変化していく。
食後のビールを飲みながら、ホウはそうぼくに説明してくれた。
「だから、人里離れたところほど、物語の原型が残っている。昔話や伝説は、何かしらの真実を語っているものなんだ。そういったものを集めていけば、この世界の歴史がわかるんじゃないかと思ってね」
ぼくは、喜んで感心して言った。
「学者なんですね」
ホウは肩をすくめた。
「ただの物好きさ」
ジョッキについた泡を指先で撫でながら、
「四年だけ好きなことをしていいと親に言われてね。約束だから帰ってきた。家業の見習いをしなければならないんだが」
ホウは、にっと笑ってみせた。
「まあいいさ。一年ぐらいおとなしくして、また出て行くとしよう」
ぼくもつられて微笑んだ。ホウは根っからの旅人のようだ。
一晩話しただけで、ぼくはホウが好きになっていた。ホウの話をもう少し聞いてみたかった。
ぼくたちは、東都までいっしょに行くことにした。
自分の部屋に引っ込んで、宿屋の小さな窓をのぞいた。白い満月がこうこうと輝いていた。
むろん、〈月〉は現れなかった。
オンは微笑み浮かべ、ぼくを迎えてくれる。暖炉の前で丸くなっていたアオが、ちらとぼくを見上げ、背伸びしながら大あくびする。
そんな夢を何度みたことだろう。目覚める場所は、野宿の空の下や、どこかの宿屋の狭い一室だ。
ハマがいないとわかっても、ぼくは、オンのもとに戻らなかった。
もう少し、気持ちに整理をつけてから帰ろうと思った。オンが二度と動かず、ぼくに声をかけ、やさしく手を差し伸べてくれることは決してないのだと認めることができる日まで。
だが、そんな時が来るのだろうか?
ぼくの旅は、ハマを探すためのものから、生きるためのものに変わっていた。
語りは、すでにぼくの職業だった。アオに教わったものばかりではなく、他の語りから聞き覚えた物語の数も増えた。時と場所によって人々の求めている話を選び出し、語り口を変える術も覚えた。
ぼくはただ、日々を暮らしていくためにだけ、様々な土地をさすらった。
ひとつの場所に留まろうかと思った時もあったのだ。だが、出来なかった。
ぼくには、他の人間と違うところがある。はじめは気がつかなかったが、そのうち嫌でも気づくことになった。
少年期の終わり頃から、ぼくの成長は普通の人間に比べるとかなりゆっくりしたものになっていた。ぼくがオンの家を出てから、十年はたっている。とっくに成人しているはずのぼくは、しかしどうみても十五六の少年だった。背はほとんど伸びず、顔つきも子供子供したままなのだ。これでは同じ場所にいられるのも、一二年が限度ということになる。
「ぼくは、本当に人間なのだろうか」
ある夜、〈月〉に訴えた。
「もしかしたら、魔物の血を引いているのかもしれない。僕のような人間はどこにもいないよ」
そうだ。そもそもなぜあんな場所に、人間の赤ん坊が捨てられなければならなかったのだろう。オンに拾われなかったら、おそらく獣にでも喰い殺されていたような場所に。
「うん」
半月の頃の、少年の姿をとった〈月〉は、考え深げに首をかしげた。
「でも、魔物とはちがう。ハマの力のためじゃないかと思うんだ」
「ハマ」
自然、顔が険しくなった。〈月〉は、ぼくをなだめるように見つめ、
「ハマが作った空間できみは育った。魔法使いの力が満ち満ちている場所で、だよ。それがきみの身体に影響を与えているのかもしれない」
月界王も言っていた。ぼくには魔法使いの気があったと。ぼくには深々と、ハマの爪痕が残っている。
ハマの存在のためにぼくはオンを傷つけて壊し、帰る場所を失った。ハマのいまいましい魔力のために、あたりまえの人間として暮らすこともできなくなっている。
仲間のところに戻った方がいい。そうオンは言った。壊れる前の遺言のようなものだった。だが、こっちの世界にもぼくの仲間などいはしない。人間としても異質のものにぼくはなってしまっている。
ぼくも、あの魔女と同じなわけだ。魔力はないというのに、人間としては長すぎる寿命を持った彼女。氷の城でただひとり生きている魔女。
ただ、彼女より幸運だったのは〈月〉に出会えたことだろう。〈月〉のおかげで、ぼくは恐ろしい孤独を免れている。
完全に成熟しきった時の〈月〉だけをぼくは月界王と呼んでいた。膨大な知識を持ち、孤高で隙もなく身構えた彼。その呼び方は正しくないと若い〈月〉は笑うが、それ以上にふさわしい名は思い浮かばなかった。ぼくに姿を見せてくれたのは一度きり、ハマはこの世界にいないと教えてくれた時だけだった。しかし、満月のたび、彼の存在は感じ取ることができた。月界王が見守っていてくれていることだけで、ぼくは満足することにした。
月界王に会えなくても、幼年期や少年期の〈月〉は、晴れた夜、たびたびぼくの前に現れてくれる。半月のころの〈月〉は、ぼくのなくてはならない友人になった。遊び相手欲しさにやってくる三日月は、やんちゃな弟といったところか。
たえず変化している〈月〉が、同じひとつの人格(と言っていいなら)だと思うには骨がおれた。
「入れ物が違うと考えてごらん」
半月が言ったことがある。
「同じ中身を小さなものに入れようとしても溢れてしまうだろう。満月の頃の力がそれさ。ぼくには使いこなせない。満月は、生まれてからの膨大な記憶を持っているに違いないが、ぼくは思い出せない。知識だって理解できない。それでいいような気がするよ」
半月は、生真面目な顔でぼくを見た。
「始終、満月のままだったら、疲れてしまうだろうからね」
「なるほど」
ぼくは、大きくうなずいたものだ。
その秋の終わり、ぼくは東国の都を目指していた。冬を越すのは、もちろん大きな街の方が楽だったから。語りを求められなくとも、何かしらの仕事がある。
東都へと流れる大河沿いに、ぼくはゆっくりと旅をした。空気の澄んだ、良い天気が続いていた。収穫を終えたばかりの人々は太っ腹になっていて、立ち寄る村々でも語りの報酬を弾んでくれた。
いつものように宿屋に荷物を下ろすと、そこの主人に居酒屋を兼ねた食堂で語りをする許しをもらった。
夕刻、混み始めた店の片隅で、旅の途中で覚えた恋物語など語りはじめる。こういった店の語りは低い声の方がいい。聴きたい者は自然集まってくるし、語りなど好きでもない者の邪魔にもならないわけで。
ひとつ語り終えた時、ぼくからほど近い椅子に座ってこちらを見つめている青年に気づいた。二十歳を越したくらいだろう。赤みを帯びた髪と、よく日焼けした人なつっこい顔をしている。手足はひょろ長く、旅人らしい頭巾つきの外套をまとっていた。
彼は、ぼくににっこりと笑いかけた。ぼくも、つい笑みを返す。
「その歳で、ずいぶん語りなれているんだね。いったい、いつから語りをしているんだい?」
彼は、興味深そうに話しかけてきた。ぼくは、笑ってごまかした。
「語りがお好きのようですね」
「うん、昔から。よかったら、こっちに来ないかい。夕飯はまだだろう?」
語りの報酬に食事をさせてもらえるのは珍しいことではなかった。なかには下心ある者もいたけれど、彼はそんな人間ではなさそうだ。ぼくは、喜んで彼のテーブルに座った。
ぼくたちは、すぐに打ち解けた。彼の名はホウ。やはり東都に向かう途中だった。東都には、彼の家があるという。
「四年ぶりなんだ。懐かしいよ」
「ずっと旅を?」
「そう、あっちこっちをね。きみ、生まれは?」
「西国・・山地帯の方ですよ」
「西国にも行ったよ。どの国にも、山地帯には古い伝説が残っているよね」
「かもしれない。よそ者がめったに来ませんからね」
「その地方独自の話が、そのまま残っているんだ。おもしろいよ」
語りのもともとは、地域の一族の話を語り継ぐ者たちだった。時が過ぎ、人々の暮らしが一族だけのものから町や都市に広がっていくと、語りを生業にして旅する者も現れる。伝説や昔話は、語りに運ばれるにつれ、他の地方の物語と交わったり、より面白く肉づけされて変化していく。
食後のビールを飲みながら、ホウはそうぼくに説明してくれた。
「だから、人里離れたところほど、物語の原型が残っている。昔話や伝説は、何かしらの真実を語っているものなんだ。そういったものを集めていけば、この世界の歴史がわかるんじゃないかと思ってね」
ぼくは、喜んで感心して言った。
「学者なんですね」
ホウは肩をすくめた。
「ただの物好きさ」
ジョッキについた泡を指先で撫でながら、
「四年だけ好きなことをしていいと親に言われてね。約束だから帰ってきた。家業の見習いをしなければならないんだが」
ホウは、にっと笑ってみせた。
「まあいいさ。一年ぐらいおとなしくして、また出て行くとしよう」
ぼくもつられて微笑んだ。ホウは根っからの旅人のようだ。
一晩話しただけで、ぼくはホウが好きになっていた。ホウの話をもう少し聞いてみたかった。
ぼくたちは、東都までいっしょに行くことにした。
自分の部屋に引っ込んで、宿屋の小さな窓をのぞいた。白い満月がこうこうと輝いていた。
むろん、〈月〉は現れなかった。