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文字数 2,535文字

 東都の王宮は、河口の細長い中州の上にあった。
 尖塔や飾り屋根の多い建物群は、中州自体が一つのみごとな冠のようだ。重厚な門付きの石橋が、左右の岸に架けられている。
 左岸は貴族階級の広い邸宅街だ。港は右岸。倉庫や加工場などの大きな建物が並び、その上のなだらかな丘陵いっぱいに市街地が広がっている。よく手入れされた植込と、白い壁を持った家々が多い。
 ホウは、この冬を彼の家で過ごすように勧めてくれた。申し出はありがたかったが、三日月にさびしい思いはさせたくなかったし、ぼく自身、ホウとこれ以上深く関わるのが辛かった。別れれば、二度と会えない存在なのだ。
「遠慮することはないのにな」
 ホウは気を悪くした様子もなく言ってくれた。
「でも、二三日ぐらいならいいだろう。仕事やいい下宿を探すのも、時間が必要だよ」
 ぼくは礼を言い、その好意は受けることにした。
 ホウの家は、海を見下ろす丘の途中にあった。ゆるい坂道をしばらく上がって行くと、石垣を巡らした門がある。ホウはぼくを連れ、足早に門をくぐった。植え込みの中に石畳の道があって、玄関に向かっていた。
 玄関近くに、エプロン姿の女性が立っていた。植木ばさみを手に、葉を落とした庭木の手入れをしている。彼女はぼくたちの足音に気づき、はっと頭を上げた。
「姉さん」
 ホウは両手を広げ、嬉しそうに彼女を抱きしめた。
「ホウ。まあ、この子ったら」
 彼女は鋏の持っていない方の手で弟を抱き返し、明るい声を上げた。
「手紙は受け取ったわ。そろそろ帰ってくるころだと思ってたのよ。元気そうね。また背が伸びたんじゃない」
 姉さん、とホウが呼ばなければ、彼の若い母親と思い込んでしまうところだった。ホウより十年は年上だろう。癖のある赤っぽい髪、黒々とした目に陽気そうな口元。彼女は、ホウによく似ていた。
「姉のサキだよ」
 ホウは、ぼくたちを引き合わせた。
「語りのカイだ。友だちなんだ」
「ようこそ」
 サキは、にこりと笑ってぼくに手を差し伸べた。
「さあ、家に入って」
 外の様子を聞きつけたホウの母親も、玄関の前に現れていた。ふっくらとした赤毛の老婦人だ。彼女を抱きしめる時だけ、ホウも涙ぐんだように見えた。居間で待ちかまえていた大柄な老人・・ホウの父親は、愛情こめてホウの髪の毛をくしゃりとつかんだ。
 ホウは、照れくさそうにあたりを見まわした。
「ナギがいないな」
「往診なの。夕方までには帰ってくるわ」
 サキは、てきぱきと指図しはじめた。
「荷物を置いて、旅の垢を落としてもらわなくちゃね。あなたもよ、お友だちさん」

 サキは二階にぼくの部屋を用意してくれた。ホウの部屋の隣で、昔はサキが使っていたものだという。彼女はいま、同じ敷地に建てた別棟で夫のナギと暮らしていた。ホウの父は町医者で、ナギもその手伝いをしている。
 風呂に入ってこざっぱりとした部屋着を貸してもらい、ぼくは、寝台に腰を下ろした。暖かみのある、居心地のいい部屋だった。部屋だけでなく、ホウの家全部がたっぷりとした家族の愛情に守られていた。
 こんなに安らいだのは、オンの家を出て以来はじめてだ。オンのもとに帰りたかった。動かないオンではなく、優しく微笑んでくれるオンのもとへ。
 明日、ホウに別れを言おうとぼくは思った。今さらながら、自分にはけして手に入らないものを思い知らされた気分だったのだ。
 ノックの音がして、サキが顔をのぞかせた。
「もうすぐホウがお風呂から上がるから、下に降りていらっしゃい。お茶にしましょう」
「ありがとうございます。すっかりお世話になってしまって」
「かまわないのよ。ホウのお友だちは我が家のお友だち」
 サキは、くすりと笑った。
「あなたぐらいの子の、世話をしてみたい気持ちも少しあるかな。わたしには、子供がいないでしょう。ホウは、あんなに大きくなってしまったし。だから気にしないで。迷惑だったら止めるけど」
「そんなこと」
 ぼくは、首を振った。サキは微笑んだまま、
「でも、あなたは見かけよりずいぶん大人っぽいのね。ホウより年上みたい」
 ぼくは、苦笑した。実際、そうだったから。
 サキといっしょに居間に行き、暖炉の前でお茶を飲んだ。風呂から上がったホウも、ぼくたちに加わった。
 ぼくは、一家の会話に耳を傾けた。もっぱらホウとサキがしゃべり、母親が合間に口をはさみ、父親は少し離れた場所に座って、時おり誰にともなくうなずいた。
 玄関の方で音がした。サキがにっこり笑って立ち上がった。
「ナギが帰ったようだわ」
 サキは玄関に向かい、ホウもあとに続いた。
「ホウ」
 喜びのこもった、穏やかな声が聞こえた。
「おかえり。元気そうで何よりだ」
「あなたも変わりないようだね、兄さん」
 ナギの声を聞いて、ぼくは、ぞくりとした。そして、居間に入ってきた彼を見て、危うく茶碗を取り落としそうになった。
 彼は笑みを浮かべ、妻とホウとを見くらべていた。だけど、その顔。
 その顔は、あまりにオンそっくりだったのだ。
 ぼくは、震える手で茶碗をテーブルに置いた。
 ホウがぼくを彼に紹介してくれ、彼はぼくに手を差し出した。
 オンであるはずがない、とぼくは、自分に言い聞かせた。ぼくの目の前にいるナギは、まぎれもなく生身の身体だ。オンの肌は陶器のように白かったが、ナギは健康そうな小麦色だった。目尻や口元には、年相応の皺が刻まれていた。黒い瞳は、静まり返った夜の湖を思わせるオンのものとは違って、生き生きとよく輝いた。
 何より、ぼくがおそるおそる握った彼の手は、暖かく血がかよっていた。
 だが、それでもナギはオンに似すぎていた。オンが本当は人間で、あと十年も年をとらせたら見分けがつかないと思えるほど。
「どうかしたかな?」
 ナギは、気遣わしげに言った。オンそっくりの声で。
「いえ、なんでも」
 そう答えながら、ぼくは軽いめまいを覚えていた。
 やがて始まった夕食も、ホウとの会話も上の空だった。気がつくと、ぼくの目はナギを追っていた。柔らかな物腰、妻やその家族への思いやりあふれた態度。
 彼は完璧な人間だった。ぼく以上に人間らしかった。
 部屋に戻ると、ひどい寒気がした。嫌な夢を見そうだと思いながら、寝台にもぐりこんだ。

 

 






 

 
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