第8話 余裕の笑み

文字数 807文字

「ボール! フォア!!」
 コールされた瞬間、だれもが微妙な判定だと思った。
 左バッターに対し、頭上から内角を鋭く抉るカーブに南星の4番・松林は反応できな
かった。ボールと見極めたのではない、ただ単に手が出なかったのだ。
 幸い判定はボールで、打順は久遠にまわってきた。

 9回裏。
 ツーアウト1、2塁。
 久遠が右打席に立ち、マウンドの風巻をにらむ。
“風使い“とか“ウィンドマスター“とか地元では呼ばれているようだが、大量点を守りき
れず追いつかれようとしている。
 確かに、この甲子園のマウンドの傾斜はクセモノだが、慣れるとたいしたことはない。
事実、久遠は3回途中からだんだんと体になじみ、4回以降は完璧に乗りこなしてしまっ
た。なのにこいつは未だに苦しんでいる。
(ただのザコや! おれが決めちゃる)
 まずは同点なんてことは考えない。
 久遠は三塁側アルプススタンドに陣取る兄をチラリとみた。
(みちょれよ兄貴。逆転ホームランでサヨナラじゃ!!)

(若いなあ、気負いがダダ漏れじゃないか)
 燃えるような久遠の視線を浴びてマウンドの風巻は余裕の笑みを浮かべていた。一発
長打でサヨナラの場面だが、相手がこうもわかりやすいとかえって助かるというものだ。
 アウトコースのくさいところを突いてファウルでカウントを稼ぎ追い込んでゆく。
 カウントはツーボール、ツーストライクの並行カウント。


 このとき、バックネット裏の記者席で緒方は月岡のいったことを思いだしていた。
 ——あいつはまだ、本当の姿を見せてはいません。
 本当の姿とは、なんなのか?
 ピンチのこの場面で、それが見れるのか?
(この期に及んで爪を隠している余裕はないぞ。早く見せろ)
 届かぬと承知で催促の念を送る。
 風巻がセットポジションで投球動作に入った。
 ボールをリリースする。
 ふわっと虚空に浮いた球は、あろうことか久遠の懐のど真ん中に吸い込まれていった。



       第9話につづく
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