第30話 血染めのバット

文字数 1,297文字



 唸りをあげてハンマーボールが飛んでくる。
 ほぼド真ん中だ。
 頼我は素早くバットを振り出した。
 ——と、そのとき信じられぬことが起きた。
 ボールがベース手前で音をたててホップしたのである。
 頼我は始動したバットに制動(ブレーキ)をかけた。
 膝を落とし、腰をもどし、そして……
 バットは止まった。
 手首は返ってない。
 あとは球審にジャッジを委ねるだけだ。
 球審は一拍の間をおくとコールした。


「ボール、フォア!!」

 
 その瞬間、一塁側アルプススタンドが爆発した。
 歓喜の絶叫をあげて応援団も観客も飛び跳ね、踊りあがっている。
 もちろん、凪浜ベンチも狂乱の態だ。ここにきて押し出しとはいえ、待望の先制点を
もぎ取ったのである。
 だが……

 左打席に立った頼我がスイングストップした姿勢のまま動かない。人形のように固ま
っている。
 早くホームを踏みたくてたまらない三塁ランナーの鳥沢もその手前で立ち止まり、訝
しげに頼我の様子をみつめている。
「きみ、フォアボールだ。一塁に歩きなさい」
 球審にいわれて、やっと頼我は反応した。
 藤丸はふと、ホームベースをみた。
「ッ!!」
 なんと、鮮血が滴り落ちている。
 ガラン、と頼我がバットを捨てた。グリップの辺りが血に染まっている。まさに血染め
のバットだ。
 よくみれば、頼我の左手の小指から血が流れている。右手の親指の爪にも血が……。
「まさかっ!!」
 藤丸は気づいた。
 頼我はスイングの途中で、右手親指の爪で左手小指の肉を抉ったのだ。
 末梢神経の痛覚を刺激することで、振り出したバットにブレーキをかけたに違いない。

 鳥沢がホームを踏み、頼我が一塁に歩くとベンチからタイムがかかる。
 治療のため、頼我はいったんダグアウト奥に引っ込んだ。


「やれやれ、満塁押し出しで勝ち越し点を与えたか」
 梅宮がため息をついた。
「滝沢は切所(せっしょ)を乗り切れなかったな」
 さも残念そうにいう。
「まだ、負けたわけじゃない……と、いいたいところだが……」
 緒方はあとの言葉を濁す。
 9回表の桜台の攻撃は2番からで4番の海渡まで確実にまわってくる。
 しかし、今日の海渡は風巻頼我相手に凡退を繰り返している。
 もしかしたら海渡は埋没鍼による特別な鍼治療を受けてきたのかもしれない。
 だが、それがある種の神経ブロック的な働きをして、彼のコンマ数秒の反応速度を奪
っているのだとしたら……。
 フル出場の代価はあまりにも大きいのといえるのではないか。



「あれ? 有坂先輩は?」
 相模野野球部寮の食堂から兵悟の姿がいつの間にか消えている。志木は立ち上がると
窓の外をみた。
 兵悟が炎天下のなか、黙々とグラウンドを独り走っている。
 声をかけようとして、志木は巨乳監督に肩を押さえつけられた。
「ほっときな。あいつはいま、悔しさを必死で紛らわせようとしているのさ」
「悔しさって! まだ試合は終わってませんよ」
 テレビ画面では5番の月岡が凡打に倒れ、9回表に入るところだ。
「あいつにはもう、みえているんだ。ライバルの負けるところが」
「そんな……」


 黙々とグラウンドをまわる兵悟の頬が濡れていた。
 これは汗か涙か……?



       第31話につづく

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