19. 水五則
文字数 2,578文字
始まりの山
湧き水
それは、こんこんと…、突如、どこかより、
現れ、いで、きたるらのもの。尽きること、
絶えることのまったくなくしてのその有り様。
第一則:
自ら活動して、他を動かしむるは、水なり。
第二則:
常に己の進路を求めてやまざるは、水なり。
第三則:
障害にあって、激しくその勢力を、
百倍なし得るは、水なり。
第四則:
みずから潔うして他の汚濁を洗い、
清濁合わせ、いるる量、
あるは、是レ水なり。
第五則:ラスト
洋々として大海を満たし、
発しては霧となり、雨雪と変じ、
霧と化す。凍っては、玲瓏 たる鏡となり、
しかも、その(本来の)性を、
(到底)失わざるは、是レもまた、水なり。
玲瓏 :
玉などが透き通るように美しいさま。
また、玉のように輝いてあるさま。
以上は「水五則」と云われるもの。
王陽明が伝えたとされていますが、
戦国時代の武将である黒田孝高(如水)の、
伝へという説もある…。
以上
蛇足としてのその
水と大気と場そのもの、
場は、つまりは環境外界世界宇宙のこと。
これらはすべて一語にて総括されうる。
それが持つ本質的な意味において。
仲介者、媒、中和力、サットヴァ、
愛なるものとして。
意識はされてはいないだろうが、
これとしてのものらに包まれて、
生命は生きている。
それは一時たりとて
そう見えた、そう見えたとしても、
やがてには動くことになるのは確実。
絶え間なくしてのその流動性…。
これが動くことにおいて、
また他も動かされることになる。
だから一切における動力源としての
役割もまた担ってる。つまりはエンジンだ。
どこにでも入ってゆく、それも、逃げ水の
例えの通り、その迅速なること、追うこと
など、到底適わぬ、できるほどまでのその
速度において!。
全ては既に最初から整ってしまってある。
つまりは、ことはすべて完了済み、
後の祭り、取り返すことなど、元に戻すことなど、なかったことにすることなど、
絶対、到底、無理な話しなのだ。
我等は、ことの結果の今において、
その延長線において、生きるにしか、
ないのだ。
水たるものを
それは人がどうこうすることなど適うわけがない、叶うはずがないしれものなのだ。数は力なり。勢いこそが奇跡を引き起こす、もたらすもの。
これは大気、空気としてのものにおいても、
同じこと。
第四則が重要だ。これにおいてともなれば、人自身が、水としてのものになっている。
清濁併せ呑むの故事の意味はご存知であろう。だがだ、そこに込められてある示唆は、真の目的、メッセージとしてのものは、この世の汚れ、アクタたるものを、おまえが、おまえの内に、封じ込めて、墓場へと持って逝けよってことでしかない。それをこの世にて捨て置けば、そのままにしておけば、多大なる弊害を、被害を、引き起こすことともなりかねない、なるやとも知れぬではないか…。
世間はスキャンダルが大好きさ。それも罪深ければ罪深いほど!。こういったことは世間における純朴なる人々は、知らぬがままが一番いい。下手にフォロワーとしての存在に、なることも、ないであろうし…。
追記:
自身の内にソレを(つまりは穢を)取り入れる、取り込むとしての行為が罪だ。この事実をしっかりと自覚してあらねばならない。入ったソレを、以降はしっかりと意識して感じてあらねばらない‥。そして、また二度と、再び、これらと同一化してあらぬよう、せぬよう、気を張って絶えず見張って、いつも抑制してあらねばならない‥。このことは絶えずいつも我が内に、悪しき蛇らを飼ってあるかようのなそんな感じなのだ。怖ろしくバイタルかつ強靭な悪しきことのみへと傾いて、傾かせてある、
第五則においては、これは変幻自在なることが説かれてある。前半部は輪廻としての循環にお前もまたあるのだぞっと。そして、最終部において、鏡たるもが比喩として登場してくる。この水としての鏡をもって、お前は、なにを見ることができる?って‥。世界の成り立ちそのへんかとしての様相と、おまえ自身としての、その、今の、あり姿、その状態なんだよって。
結び:
この無常なるものとして、その最たる水が、人体において果たしてくれているその役割、その功徳、また、これが媒となって、いろんな生存するにおいて必要である物質を、供与して、摂取させてくれているその事実において、“愛”たるものの真髄を、その発露を、
そこに、これにて、直感することを、
この自分としては、お勧めする。
創造の光自体が、
これが愛によっての、おいてのもの、
また、菩提心ってやつにて、
これらすべてを了解 するもあり。
でも、ではそれの、菩提心たるものにおける
その雛形、オリジナルは、さてなに?。
どこからそれは、立ち現れ、
いでたるものなのか?
終わり
湧き水は英語で"Spring"。春とおんなじ表記。
ならばだ、この語の背景の意味においては、
止んであった途絶えてあった、その命の循環その活動が、春を迎えたことによって、
吹き出してきてて、まさに今は溢れんばかりであること、その事実も、その状態としての意味も、込められている。
「尽きざる、尽きることのない泉」
わたしが与える水は、
永遠の命に至る水が
ヨハネ4:14
本源とのリンクが復活する。
そしてフローが再開される。
湧き水
それは、こんこんと…、突如、どこかより、
現れ、いで、きたるらのもの。尽きること、
絶えることのまったくなくしてのその有り様。
第一則:
自ら活動して、他を動かしむるは、水なり。
第二則:
常に己の進路を求めてやまざるは、水なり。
第三則:
障害にあって、激しくその勢力を、
百倍なし得るは、水なり。
第四則:
みずから潔うして他の汚濁を洗い、
清濁合わせ、いるる量、
あるは、是レ水なり。
第五則:ラスト
洋々として大海を満たし、
発しては霧となり、雨雪と変じ、
霧と化す。凍っては、
しかも、その(本来の)性を、
(到底)失わざるは、是レもまた、水なり。
玉などが透き通るように美しいさま。
また、玉のように輝いてあるさま。
以上は「水五則」と云われるもの。
王陽明が伝えたとされていますが、
戦国時代の武将である黒田孝高(如水)の、
伝へという説もある…。
以上
蛇足としてのその
いらぬの
解説:水と大気と場そのもの、
場は、つまりは環境外界世界宇宙のこと。
これらはすべて一語にて総括されうる。
それが持つ本質的な意味において。
仲介者、媒、中和力、サットヴァ、
愛なるものとして。
意識はされてはいないだろうが、
これとしてのものらに包まれて、
生命は生きている。
それは一時たりとて
留まることはない
。そう見えた、そう見えたとしても、
やがてには動くことになるのは確実。
絶え間なくしてのその流動性…。
これが動くことにおいて、
また他も動かされることになる。
だから一切における動力源としての
役割もまた担ってる。つまりはエンジンだ。
どこにでも入ってゆく、それも、逃げ水の
例えの通り、その迅速なること、追うこと
など、到底適わぬ、できるほどまでのその
速度において!。
全ては既に最初から整ってしまってある。
つまりは、ことはすべて完了済み、
後の祭り、取り返すことなど、元に戻すことなど、なかったことにすることなど、
絶対、到底、無理な話しなのだ。
我等は、ことの結果の今において、
その延長線において、生きるにしか、
ないのだ。
水たるものを
留めおく
ことなど到底できない。できるわけがない。なにか出来たとしても、それは”いなす”ことぐらいが精々だろう。津波や大雨によっての河の氾濫を思えば、それは人がどうこうすることなど適うわけがない、叶うはずがないしれものなのだ。数は力なり。勢いこそが奇跡を引き起こす、もたらすもの。
それが
行きたいようにしてあげる、流れたいように、してあげる。流れ、得るよう、しといてあげる。別段、それに
、意志がある訳でもないのだから。近隣の住民にとって問題となるのは、それの嵩と、河としてのものの、構造におけるその荷重許容範囲、その限界ってことでしかない。益するものともなれば、いたく害するものにも変わり得る。これは大気、空気としてのものにおいても、
同じこと。
第四則が重要だ。これにおいてともなれば、人自身が、水としてのものになっている。
清濁併せ呑むの故事の意味はご存知であろう。だがだ、そこに込められてある示唆は、真の目的、メッセージとしてのものは、この世の汚れ、アクタたるものを、おまえが、おまえの内に、封じ込めて、墓場へと持って逝けよってことでしかない。それをこの世にて捨て置けば、そのままにしておけば、多大なる弊害を、被害を、引き起こすことともなりかねない、なるやとも知れぬではないか…。
世間はスキャンダルが大好きさ。それも罪深ければ罪深いほど!。こういったことは世間における純朴なる人々は、知らぬがままが一番いい。下手にフォロワーとしての存在に、なることも、ないであろうし…。
追記:
自身の内にソレを(つまりは穢を)取り入れる、取り込むとしての行為が罪だ。この事実をしっかりと自覚してあらねばならない。入ったソレを、以降はしっかりと意識して感じてあらねばらない‥。そして、また二度と、再び、これらと同一化してあらぬよう、せぬよう、気を張って絶えず見張って、いつも抑制してあらねばならない‥。このことは絶えずいつも我が内に、悪しき蛇らを飼ってあるかようのなそんな感じなのだ。怖ろしくバイタルかつ強靭な悪しきことのみへと傾いて、傾かせてある、
エネルギー体
なのだ…。第五則においては、これは変幻自在なることが説かれてある。前半部は輪廻としての循環にお前もまたあるのだぞっと。そして、最終部において、鏡たるもが比喩として登場してくる。この水としての鏡をもって、お前は、なにを見ることができる?って‥。世界の成り立ちそのへんかとしての様相と、おまえ自身としての、その、今の、あり姿、その状態なんだよって。
結び:
この無常なるものとして、その最たる水が、人体において果たしてくれているその役割、その功徳、また、これが媒となって、いろんな生存するにおいて必要である物質を、供与して、摂取させてくれているその事実において、“愛”たるものの真髄を、その発露を、
そこに、これにて、直感することを、
この自分としては、お勧めする。
創造の光自体が、
これが愛によっての、おいてのもの、
それ
、そのもの
なのだ。また、菩提心ってやつにて、
これらすべてを
でも、ではそれの、菩提心たるものにおける
その雛形、オリジナルは、さてなに?。
どこからそれは、立ち現れ、
いでたるものなのか?
終わり
湧き水は英語で"Spring"。春とおんなじ表記。
ならばだ、この語の背景の意味においては、
止んであった途絶えてあった、その命の循環その活動が、春を迎えたことによって、
新生をもって
新たに再開されてあること、吹き出してきてて、まさに今は溢れんばかりであること、その事実も、その状態としての意味も、込められている。
「尽きざる、尽きることのない泉」
わたしが与える水は、
その人の内で
泉となり
、永遠の命に至る水が
湧き出る
。ヨハネ4:14
本源とのリンクが復活する。
そしてフローが再開される。