第21話 優しい世界

文字数 1,211文字

声の主の方に目を向けると、扉の近くで手すりに寄りかかりながら、太った男が携帯で大きな声で話していた。キャップをかぶり、キャップの下からは乱れた長髪が出ている。
電話で話している声が聞こえてくる。ろくでもない会話のように聞こえた。

とにかく不快だった。

電車が新宿駅に到着すると多くの人が降り、私の反対側の席がいくつも空いた。
その男が一番端に座った。
新宿駅から多くの人が乗り込み、私の正面の席は次々と埋まっていったが、その男の隣は空いていた。

その男は座席に座っても、まだ携帯で話をしている。
向かい側に座っているので、その男の様子がよく見える。
歳は30代か40代といったところだろうか。体重は100kgを超えていると思われる。ハーフパンツに薄ピンクのTシャツを着ている。Tシャツは汗で少し滲んでいる。

汚い。

いくつかの駅を過ぎたが、その男の隣の席はまだ空いている。まあ、そうだろう。誰も携帯で大声で話している汚い男の隣になど座りたくはない。しかも、太っているから隣の席が空いているといっても狭い。

電車が扉を閉める直前に男子高校生がひとり乗ってきて、迷わずその男の隣に座った。リュックは床に置き、座席の手前側に浅く腰掛け、前傾姿勢でスマホをいじっている。メールやラインをしているのか、ゲームをしているのか、正面からでは分からない。
男子高校生は隣の男の大きな話し声に驚き、一瞬だけその男に目をやったが、すぐさまスマホに戻り、隣の男のことを気にしていないようだった。

太った男は電話を終えると寝はじめた。その男は寝ていると、ゆらゆらし始め、隣の男子高校生の方に傾いてきた。男子高校生はちょっと驚き、その男を避けるようにさらに前傾姿勢となった。その男はさらに男子高校生の方に傾き、ほとんど男子高校生の背中の後ろに頭部がある状態になっていた。その男がかぶっていたキャップが外れ、男子高校生の背中の方に落ちた。手前側に浅く腰掛け前傾姿勢でスマホに全集中している男子高校生は後ろに落ちたキャップに気付かない。

まったく迷惑な奴だ。大声で電話して、電話を終えれば間抜け顔で寝はじめて隣に傾いてくる。なんで、こんな迷惑な奴がこの世にいるのだろうか。いったい今までどうやって生きてきたらそうなれるのだろうか。

御茶ノ水駅に到着する直前に、その男は一瞬だけ目を覚まして姿勢を立て直した。男子高校生はその隙に前傾姿勢を改め奥深くに座り直した。その男が傾いてくるのをブロックするためだろう。その際に、男子高校生は自分の背中側に落ちているキャップに気付いた。男子高校生はキャップをその男に渡そうと思って隣を見たが、その男はすでにまた寝ていた。

男子高校生は少し困った顔をしながら、その男の頭にそっとキャップを載せてあげた。

なんか優しいな、と思った。
その男を不快だと思っていたのは私だけだったのだろうか。
そんなことを思いながら御茶ノ水駅を降りた。

神山ユキ
2024.6.13
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