第17話 幸福と欲望の追及について

文字数 4,769文字

・最近読んだ本の紹介

書籍『サピエンス全史』 著:ユヴァル・ノア・ハラリ
書籍『ホモ・デウス』 著:ユヴァル・ノア・ハラリ
書籍『暴力の人類史』 著:スティーブン・ピンカー
書籍『21世紀の啓蒙』 著:スティーブン・ピンカー
書籍『人新世の「資本論」』 著:斎藤幸平
  著者:ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、イスラエルの歴史学者、哲学者です。
  著者:スティーブン・ピンカー氏は、アメリカの進化心理学者です。
  著者:斎藤幸平氏は、日本の経済学者、哲学者です。

近頃、これらの本を読んでいました。特に、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』に至っては、2回、3回と読みました。ここ半年くらいはずっとこれらの読書三昧でした。それほど読みごたえがあります。
上の4冊はいずれも上下巻に分かれており、なかなかのボリュームです。時間はかかりますが、読む価値は非常に高いのでお勧めです。

これらの本を読んだ私はアップグレードされた人類種:ホモ・デウスになった、、、ということはないと思いますが、それなりに賢くなった(?)、というか、それなりに啓蒙されたのではないかと思います。

それで、これらの本を読んで、近頃、考えていることを書いてみようと思います。
ちょっと長くなりそうですが、まあそうなっても仕方ありません。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は、ホモ・サピエンスの誕生から他のホモ属(人類種)を駆逐し、ホモサピエンス(現生人類)だけが生き残り、狩猟採集生活から、農耕革命を経て、書記体系を発明し、科学革命が起き、資本主義、自由主義、を発明して、世界を征服するに至った歴史が詳細に語られています。

そして、その後続本である『ホモ・デウス』では、これまで人類が世界を征服するに至った歴史を踏まえて、今後の人類が辿るであろう未来に対する見解が語られています。

その中で、人類が新たに取り組むべきこととして、幸福に対する権利、が挙げられています。
そして幸せとはどういうことか、ということが考察されているのです。

・『ホモ・デウス』で語られている幸福とは
生命科学によれば、幸福と苦しみはそれぞれ、さまざまな身体的感覚どうしの異なるバランス以外の何物でもないという。

それは進化の産物であるとのことです。私たちの生化学系は、無数の世代を経ながら、幸福ではなく生存と繁殖の機会を増やすように適応してきたわけです。生化学系は存在と繁殖を促す行動には快感で報いるのです。だけど、その快感は束の間しか続かない。いわば、次から次へと買わせるための販売戦略のようなものにすぎないのです。

永続する至福を楽しめるような種、個体が誕生したら、幸せではあると同時にすこぶる短い一生を享受し、すぐさま絶滅することになるはずです。至福な個体は必要以上の食料を探すこともなければ、交尾相手を見つけようと努力することもないからです。

人間は、というか生物は、飽くなき欲望をもっているがゆえに進化するのです。

生存と繁殖の可能性を高めるようなもの、食べ物や伴侶や社会的地位、を求めているときには、脳は鋭敏さと興奮の感覚を生み出し、人間を含む動物はそれに急き立てられていっそう努力する。そうした感覚は実に心地よいのです。

そして、現代の自由主義、資本主義、人間至上主義(ヒューマニズム)のもとでは、個人が欲望や快楽を追求することは善です。各個人が欲望を追求することにより社会の需要と供給のバランスが効率的に実現されて経済成長が促され、また、各個人としても自由に生きることで様々な経験をすることで感性を磨き、それぞれが人生の意義をみいだし、物質的にも精神的にも豊かになっていくのです。

だけど、欲望に急き立てられて、努力をしてある欲望を満足させると、次なる欲望が生まれます。そうすると、また次の努力をしていくことになります。

私は、この欲望と努力のサイクルに疲れるし、うんざりすることがあります。努力はストレスを産みます。欲望が高まるにつれて、難易度が高くなるので満足を得るためにはますますたくさんの努力が必要になり、満足を得られないことも増えてきます。そうするとストレスも高まります。どこまで行っても完全に満足することのない無限のループに嫌悪感すら抱くときがあります。


・ブッダの幸福観
『ホモ・デウス』の中で、ブッダの幸福観が挙げられています。
上記の生命科学の通り、幸福は生化学系の快感であるのであれば、そして、私が幸福を儚い快感と同一視し、もっともっとその快感を経験することを渇望したのなら、快感を絶えず追及するよりほかにないでしょう。そうすると、必然的にストレスが高まり、不満が募ることは避けられません。

ブッダの幸福感では、幸福を獲得するためには、快感の追及に鞭を入れるのではなく、ブレーキをかける必要がある、とのことです。

ブッダが推奨するのは、快感への渇望を減らし、その渇望に人生の主導権を与えないようにするということです。

足るを知れ、ということかもしれません。
それは分かりますし、同意もします。

実際、私も日々の生活に満足しているといえば満足しています。
生命の危機も感じませんし、明日の食べ物や寝床を心配することもありません。
仕事や人間関係にも大きな問題はありません。
経済的にも十分に満足しています。
なので、これ以上を望んではばちが当たる、とまでは言いませんが、これ以上を望んで自分をストレスにさらす必要はないでしょう、とは思うことがあります。

・私(神山ユキ)の現状の考え
だが、どうだろうか。よくよく自問自答してみます。

私という個人は幸福を追求しています。これは間違いありません。ブッダも幸福を追求することを否定しているわけではありません。渇望を満たすことが幸福なのではない、と言っているだけでしょう。

私もブッダの幸福感は頭では理解していますし、大部分において同意します。

だが、私は、少なくとも現在の私は、欲望、渇望に基づき行動しています。
欲望や渇望という一般にネガティブに考えられている言葉ではなく、「目標」や「夢」というポジティブと考えられている言葉に置き換えても全く同じことですが、私は敢えて、欲望、渇望の言葉を使います。

いくつか具体例を挙げてみます。私は弁理士の仕事をしています。その理由は、収入を得るためです。収入が得られないのであれば弁理士の仕事はやりません。お金だけが理由ではない、とももちろん言えますが、お金が一番大きな理由であることに疑いの余地はありません。また、社会的な承認を求める承認欲求も含まれます。

また、趣味においては、私は小説を書いている。
これは、何らかの自分のオリジナル作品を創作したい、という欲望を満たすためです。私が考えたこと、感じたこと、などを表現して、他人(読者)がどう感じるのかを知りたいのです。こちらはお金を発生させていないので、収入を得るためではないことは間違いありません。小説を書いているのは、私の承認欲求、自己実現の欲求に基づくものでしょう。

他にも日々、本を読んで新しい知識や考えを吸収することを好んでいます。それ以外にも、やりたいこと、やりたいけどやれていないこと、がたくさんあります。なんにせよ、私の行動は、欲求、渇望、欲望に基づいていると言えます。特に、その欲望にブレーキをかけることはしていません。むしろ、欲望の実現に向けてドライブをかけるように気を付けているくらいです。

仕事で成功している人を見ると、自分ももっと成功してやる、とやる気が出ます。
好きなアーティストの曲を聞けば、自分も創作したいとの欲求が高まり、やる気がでます。
面白い小説や漫画を読めば、自分も創作してみたいと思います。
賢い人の意見を聞けば、自分も賢くなりたくなります。
綺麗な身なりをしている人を見れば、自分もそうありたいと思います。

そして、美意識があります。

何かに本気で打ち込み、がむしゃらに努力する他人の姿はとても美しく感じ、カッコよく、尊敬し、憧れます。だから、自分もそうなりたいと思います。
それが私の中の美意識としてとても強くあるのです。

一方、欲望がストレスを産むことも知っていますい。実際、目標を達成できないとつらい気持ちになるし、自己肯定感が下がることもあるし、ときには絶望的な気持ちに苛まれることもあります。きわめて不快で、自分を不幸に感じます。

なので、そんな目標や欲望がなければ、こんなにもストレスを感じることはないでしょう。
ブッダの幸福観に従い、渇望にブレーキをかけるべきなのかもしれません。

ですが、欲望にブレーキをかけるべきでしょうか。これくらいでいいや、と思っていたら藤井総太は八冠になっていないでしょうし、そもそもプロ棋士にすらなれていないのではないでしょうか。足るを知っていたら大谷翔平は二刀流に挑戦しないのではないでしょうか。

理想を追求する、どこまでも深く追求する、好きを極める。足るを知っていたら、そんなことはできないでしょう。

べつに一流の人たちを例に挙げなくても私の場合でも同じではないだろうか。

現状に満足して、足るを知っていたら、私は弁理士試験に合格できたのだろうか?
現状に満足して、足るを知っていたら、私がこれまで努力して獲得、実現してきたものは存在しないのではないでしょうか。

渇望にブレーキをかけるのは、挑戦しない言い訳を作っているように感じるのです。
私は、挑戦しない人にはあまり魅力を感じませんし、私はそうはなりたくない、と思っています。

もちろん、挑戦しない人のことを否定するつもりはありませんし、その人にはその人の人生があるのでしょうから、それはご自由にどうぞ、です。私は私で好きなようにやっていきます。

そういう私の考え方は、資本主義あるいは自由主義に包摂されている、ということなのでしょうか。冒頭で紹介している斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』には、資本主義に包摂されている、という考え方があります。洗脳されている、と言い換えてもいいかもしれません。
資本主義を前提に考えることが当たり前になりすぎていて、その前提を疑うことすらしない姿勢のことのようです。一理あるというか、本書を読んだときは私も大きく頷きました。

確かに、現代の主流である、自由主義、資本主義、人間至上主義は、1つの考え方にすぎませんし、『ホモ・デウス』の中でもユヴァル・ノア・ハラリ氏は、これらのイデオロギーは宗教である、と言っています。少なくとも、物理学のような正誤を確認できる自然法則でもなければ、数学のように論理的に証明可能な命題でもありません。実際、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の中では、これらのイデオロギーが変遷、台頭していった経緯が書かれていて、自由主義、資本主義、人間至上主義は、ここ最近の主流にすぎないと考えられます。

そうすると、私の考えや美意識も、生まれたときから存在していた自由主義、資本主義、人間至上主義に包摂されたものであり、自分が思うほど崇高な価値のあるものではないのかもしれません。

欲望にしたがって生きていくと、個人としても大きなストレスを抱えることになるし、幸福にはなれないのかもしれません。また、各個人が欲望にしたがって生きていくことで、環境破壊が進み、社会全体として破滅に加速するのかもしれません。


ですが、もう少しだけ、私はスティーブン・ピンカー氏が擁護する啓蒙主義によりそって、欲望に基づきながらも理性を働かせることで、自分も世界もより良くなっていくのではないか、と、もう少しだけでも信じてみたいと思います。できることなら、ずっと信じていきたいのですが、自分の考えが今後どう変わっていくのか、私にもわかりません。

2024.2.25
神山ユキ
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