第16話

文字数 3,688文字

三 魚河岸の少年

 ケン坊は、悩んでいた。十四歳のおかっぱ頭の中身は、混乱していて思考は同じ場所をぐるぐる回る。そのため、大好きな一時間もののミステリードラマを見てもなかなか寝付けず、ここ数日と眠りに落ちる時間は午前一時をまわっていることが多い。
 ケン坊は中学校三年生。幼少期に、父親を喪っている。そんなケン坊は、父親によく似た頑固さを譲り受けている。
 父親の面影を探すかのように、父親が生業としていた魚河岸(魚の卸売り業)になることを夢見て、小学生の頃から同じ魚河岸の祖父とともに、市場に来ていた。
 そして、ケン坊の母親菊子は、ケン坊の亡き父親の親友である屋形船の船長の哲と再婚。新しい父親である哲とケン坊の関係性も良好で、傍から見ると順風満帆な家庭生活に見えた。
 しかし、ケン坊はここのところ、これではダメだ、このままではダメだと思い悩んでいた。小学生の頃から、夜九時に寝て朝四時までに目を覚まし、築地市場に手伝いに行っていたのが、ここのところ寝付くのが遅く起きるのも六時から七時の間だ。まったく市場に顔を出せていない。別に暮らしている近所の祖父が迎えに来ても無理には起こさず、様子を見ている。きっと母親に、難しい時期だから、あまり詮索しないよう釘を刺されているのだろう。ケン坊は、それが何となくわかっているが故に、自分が自分でもどかしい。
 このなんか、こんがらがって整理できない気持ちは、母ちゃんのせいでもあるのに・・・・。オレはどうしたらいいんだ?
ケン坊は、ここで一策打てば、場面が変わるはずだと、確信した。そして行動に移すことに決めた。 
 学校が終わり、ケン坊は自宅がある月島近くの隅田川河口でハゼ釣りをしていた。そして、そのハゼを手付に探偵に相談することにした。
 ケン坊は、コハダ探偵事務所が入っている日本橋のビルの前に、自転車を止めた。荷台からクーラーボックスを外して歩道に置く。蓋を開けると、まだハゼは元気に海水の中を泳いでいる。天ぷらにしたら、旨い。きっと吾妻寿司の三代目も気に入ってくれるだろう。ケン坊は短い前髪を揺らしながら、クーラーボックスをビルの陰に置いた。そこにしゃがんでビルを見あげる。数日前に、孝司くんが、このビルに外人の女の子と入って行ったのを見た。1階のエントランスにコハダ探偵事務所のシンプルな看板が立てかけてある。
 祖父ちゃんが、言っていたのは本当だったんだ。「吾妻寿司の孝司の野郎、探偵やってやがんの」とニヤニヤ笑っていた。
 本当だったら、正面きって玄関から堂々と依頼に行くのが筋だ。だけど金がない。とりあえず、このハゼは手付けだ。依頼を受けてくれるかどうか、その値段交渉も後からだ。なんとかなるはずだ。そう強く思いながら、ケン坊は辛抱強くビルの入り口脇で、クーラーボックスを抱えてしゃがみ込んでいた。
 十七時を回ると、仕事を終えた日本橋のサラリーマンたちが、呑み屋に足を運ぶ姿が眼前を通りすぎるようになった。
 ふり返り、階上の窓を見あげる。コハダ探偵事務所の灯りは、未だ点いたままだ。明日も早いんだった。明日こそ祖父ちゃんと一緒に豊洲へ向かう。そう心に決めて、クーラーボックスを抱えて自転車に向かった。
 と、その時―後ろから、声をかけられた。
 ケン坊?
「人違いだったら、ごめんよ。君、ケン坊だよね」
 ケン坊の両眉があがり、黒目勝ちの大きな目を見開いて振り返る。 
 大正解なのに、ケン坊はそのまま金髪の外人の女の子に驚いて、表情が固まった。
「可愛い!この子。前髪ぱっつん。おかっぱ頭っていうんだよね。玉のように可愛いぃ」と、金髪頭の外人が、日本語を話して身をくねらしている。
「孝司君。なにこの日本語が堪能な外人さんは?」怪訝な顔で、ペコと孝司を交互に見る。
「なんでもいいよ。気にすんな。しかし久しぶりだなあ。ケン坊」と孝司はケン坊のザンギリおかっぱ頭をガシガシ撫でた。ケン坊はくすぐったい顔で笑うと「お久しぶりです」と、照れくさそうな顔で、孝司に頭を下げた。
 まだ築地に市場があったころ、父親と兄さんと河岸に行くと、馴染みの魚河岸の店先でケン坊は祖父と並んで、河岸の見習いをしてた。ケン坊は祖父譲りの確かな目利きで、旨い魚を一人前に勧めていた。
「いや、実はお願いがあって・・話を聞いてもらうだけでいいんだけど。これお土産です」とケン坊はクーラーボックスの蓋をあけて、孝司にたくさんのハゼを見せた。
 ペコは物珍しそうに、クーラーボックスを覗いている。「凄い!お魚がたくさん」
 目を輝かせて、ペコは唾を飲みこんだ。
「月島で釣ったハゼです」と少年の顔で、ケン坊は胸を張った。

「さっきの外人のお姉ちゃんは?」
「ああ。家に帰ったよ」
 孝司とケン坊は、台所にふたり並んで立ち、ハゼの天ぷらを一緒に揚げている。
「あの外人のお姉さんも探偵なの?」
 無理もない。外国人と話すのが初めてなのだろう。正確に言うと洋種の猫と日本猫のハーフとのことだが――久しぶりに再会してからさっきまで、ケン坊は外人のお姉さんと何度呼んだことだろうか。
「まあ探偵の助手と言ったところだな」
 ふうぅん、とケン坊は頷いている。
「警視庁辞めて探偵やっているって、祖父ちゃんから聞いてたんだ。コハダ探偵事務所でしたよね」と言って、ケン坊はクスクス笑った。
「探偵事務所の親方、握りずし好きなの?想像だけど。ちなみにコハダは今からが旬だけど」
 孝司は破顔して、その通りなんだと答えて、鍋を覗いた。菜箸で揚げたてのハゼをひっくり返す。猫の姿に戻ったペコがケン坊の足もとに近づいて、頭をケン坊の脛に擦りつけた。「わっ!びっくりした。猫飼っているの?可愛い!」
 ケン坊は、しゃがんでペコの頭を撫でた。ペコは目を細めて、気持ちよさそうにケン坊に撫でられている。
「あ・・名前はペコって言うんだ。あっ、ちなみにさっき探偵事務所前で会った女の子もペコって言うんだ。偶然だろう?」と、油が煮え立った鍋からハゼを取りだす。ペコが孝司の足もとへと移動する。ペコに関してつく嘘は、ここのところだいぶ上達してきた。
「まだ熱いよ。油から上げて冷めてからあげるから、待ってろ」と、孝司がペコの頭を軽く突っつく。
 ケン坊は、市場で魚河岸の手伝いをしているが、ときどき継父が生業としている屋形船での調理業務の手伝いもしている。ハゼの天ぷらは屋形船の定番料理だ。

「うんめえ!久しぶりだよう、ハゼの天ぷら」と言って孝司はビールで流しこむ。そして、もう一尾に噛みつく。
 ぷりっぷりの、瑞々しい白身の旨味が口に広がる。江戸前のハゼの天ぷらは、屋形船には欠かせないメニューだ。
「ときどき哲っちゃん父さんの、屋形船の料理を手伝ってるんだ」
 ケン坊は、自分の実の父ちゃんが亡くなってから、実の父ちゃんと新しい父ちゃんとを呼び分けている。新しい父ちゃんを哲っちゃん父さん、もしくは幼少期親しんでいた呼び名、哲っちゃんと呼び分けている。  
 ケン坊は、ご飯と一緒にハゼの天ぷらを美味しそうに食べている。
 食事がひと段落すると、孝司から口を開いた。
「で、お願いって何だ?」
 ケン坊は、俯いてサイダーをひと口飲んだ。ペコがちゃぶ台の前にあぐらをかいたケン坊の膝頭に、頭をこすりつけると優しい表情で、ペコの頭を撫でてから顔を上げた。
「調べてほしいんです。母ちゃんと哲っちゃんのことを」と言って真剣な目で前を見据えた。
 理由を聞くと、自分だけを置いてふたりでときどき、家を出て行くという。出て行く理由を聞くと買い物に行くと。ちょっと買い物にとふたりは言う。
 しかしふたりが買い物から帰ってくると、たいてい少量の買い物で、ふたりで行くほどの量ではないという。そして、いつも二人で顔を寄せあって微笑みあっているという。
 ふたりきりで、ときどき家を空ける理由を突き止めてほしい。というのがケン坊の主訴であった。
「僕には言えない、二人だけの秘密があるんじゃないかって・・・・もしかして、ぼくだけを置いて、ふたりで突然いなくなるんじゃないかって・・最近、菊ちゃんイライラしてるし。オレのこと嫌いになったんじゃないかって」
 昔からこの子、普段は母ちゃんと呼ぶのだが、感情的になると昔からの呼び名である「菊ちゃん」と母を呼ぶ。長く片親だっただけに、甘えた感情が残っていてもしかたがない。
 そして、「ぼく、こわいんだ」と言い足した言葉尻が涙で震えた。
「・・調査料かかるんでしょ?」と顔を上げるが、見開いた大きな目からは、涙が今にもこぼれ落ちそうだ。
 幼いころに父親に急逝されてから、母子ふたりでやってきた。新しい父親が、亡くなった父親の親友で馴染みの哲であっても、母親を奪われたような気持ちになるのは、中学三年生とはいえ当然だ。
 孝司は、微笑んでかぶりを振った。
「いらねえよ。その代わりに、またハゼを釣ってきてくれよ」
 釣ってきます、今日よりもたくさん。とケン坊は胸を張って、そう言って堅く口を真一文字に結んだ。


*次回の更新は、4月11日木曜日です。お楽しみに!
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