第3話

文字数 4,302文字

 一 春の予感

 無理やりだ。無理やりすぎる。
 この小出所長という男は得体が知れない。だいたい寿司好きが高じて、自分の探偵事務所の名前を自分の名前ではなく「コハダ探偵事務所」とつけてしまう男である。所長に言わせると、コハダとう寿司ダネはその寿司屋の腕前と、心意気の象徴とのことだった。コハダを食えばその寿司屋の良し悪しがわかる。お品書きにないなんて、もってのほかだ。だから探偵事務所に「コハダ」を入れて、江戸前寿司職人のような粋な仕事をします、という心意気がこもっている、と胸を張って語っていた。
 気持ちはわかる。わかる気だけはする。しかしおれたちの仕事は、探偵業だ。寿司屋では断じてない。
 奇しくも、孝司は寿司屋の倅であるから「コハダ」の握り寿司のことについては、父親から耳が痛くなるほど聞かされてきた。コハダの仕込みは江戸前の命だと。
 警視庁の篠宮警部の紹介で小出所長の面接を受けたときは、孝司の学歴や警視庁での仕事ぶりのことより、実家の寿司屋のことばかり聞かれたのだった。小出所長は、事前に篠宮警部から、寿司屋の息子であることを聞かされていたようだった。
 小出所長も元々は警視庁の刑事であり、篠宮警部とは古い付き合いである。そして小出所長も篠宮警部も大の落語ファンである。落語ファンと変人という共通項のもとに、二人だけにしか分からない、強い信頼関係が築かれているようだ。まあどちらも変人ではあるが。
 ペコを紹介した後に、ペコが「ペイ子ではなく、通り名のペコのほうで呼んでいただいてけっこうです。あたし、以前から密偵というお役目にたいへん興味がございまして、従兄である孝司君の仕事ぶりも、ぜひ見せていただけたらと思い、無理を承知でやって参りました。ご迷惑はおかけいたしません。たいへん不躾なお願いであることは重々承知でございます。しかし、ぜひとも密偵のお役目を、どうか見学させてはいただけませんでしょうか」、という無理な申し出に所長は「かまわねえよ。遠慮なく、とくとご覧になっていっておくんなせえ」とあっさり了承したのだった。   
 しかしなぜ。あんなに簡単に見学を認めたのだろうか。そしてペコは所長に見学を願い出るときになぜあんなに慇懃丁寧に、江戸時代のような話し方ができたのだろう。
 孝司は父親がゴザの上に横になり、テレビで時代劇を見ているときに、父親のお腹の上でペコも時代劇「鬼平犯科帳」を、見ていたことを思い出した。所長も篠宮警部も大の時代劇ファンだ。特に池上正太郎を好んで読む。偏った共通項が瞬時に作り上げる信頼関係の凄さを、所長とペコの間に垣間見たのであった。

 その日の夕方、ある母子が探偵さんに相談したいと、暗い顔をしてやって来た。
コハダ探偵事務所の、パーテーションで仕切られた応接室のソファには、セーラー服を着た女の子とその母親が座っている。女の子は両手を握りしめて膝の上におき、うつむいている。ペコがコーヒーカップをふたつお盆にのせて、パーテーションの隙間から顔を出した。ふたりの前に、どうぞとコーヒーカップを置くと、お盆を胸に抱えたまま立ち去ろうとはしない。
 ソファに所長と座っていた孝司は、片眉を上げてペコをにらみつけると、顎をしゃくって出ていくように促した。ペコは小さく舌を出すと首をすくめて出ていった。
 女の子の名前は平野真希。都内の高校に通う十八歳。この春に卒業して大学への進学も決まっている。母親は申し訳なさそうに所長と孝司を上目づかいで交互に見ては、頭を下げ、真希の顔を心配そうにのぞきこむ。
 所長はふたりを気遣い「ま、ま。熱いうちに召し上がっておくんなせえ」と手のひらで二つのコーヒーカップを指し勧めた。
「恐れ入ります。私は事を荒立てるようであまり気乗りしませんでしたがこの子がどうしてもって・・」
 母親は「有難く、頂戴いたします」と自分のコーヒーカップに角砂糖をひとつ入れて、かき回した。真希にも促すが、真希は姿勢を変えずうつむいたまま黙っている。
「真希さん。砂糖はいくつ?」と孝司は角砂糖の瓶のふたを開けて小さなトングを手に取った。
「絶対に。お祖父ちゃんはそんなことしてない」
真希は、まだ幼く透明感のある細い声をふりしぼるようにして言った。
「まじめで優しくて。頑固で。曲がったことが大嫌いなお祖父ちゃんがあんなこと・・・・」
 孝司は、静かにトングを戻し、角砂糖の瓶の蓋をそっと閉じた。
真希は膝の上で握りしめていたこぶしを開くと、その手のひらを顔にあてて肩を震わせて泣き出した。真希の肩を優しくさすりながら、母親が今回の依頼内容を話すこととなった。
 依頼の主訴は、大好きな祖父歳三にかけられたあらぬ疑いを晴らしてほしいとのことだった。初孫でたったひとりの孫である真希を歳三はたいそう可愛がった。真希も歳三のことが大好きでお祖父ちゃん子として育った。早くに女房を亡くし一人暮らしだった歳三の家に、真希は小さいころから母親と一緒に料理を作りに足しげく通った。歳三の誕生日ともなると必ず自分でプレゼントを選んで、家族みんなで賑やかにお祝いしてきたという。真希は一枚の写真をいつも持ち歩いている。その写真には、四歳のころの真希を抱いてとろけるような優しい笑顔を浮かべた歳三が映っている。白髪で、優しい眼差しをカメラに向けている。シャッターを切ったのは、歳三の娘、真希の母親かもしれない。
 その歳三が二月に亡くなった。原因は交通事故。ベテランのタクシー運転手である歳三は還暦を過ぎても運転手を続けてきた。五十年以上におよぶキャリアにおいて人身事故はもちろんのこと、物損事故ひとつ起こさなかった優良ドライバーだ。
 その歳三が起こした問題の事故は、単独事故であった。
 事故現場は芝浦埠頭の首都高高架下の交差点。直進してくる大型トラックより、早く交差点に進入し右折しようとしたが、速度が出すぎていたため、曲がり切れずに首都高の高架橋の橋脚に激突した。警察と救急車が到着したときにはすでに息は無かった。
 現場検証をすると、後部座席から覚醒剤のパッケージがひとつ見つかった。歳三の遺体からは薬物反応は出なかったが、空車での単独事故であるため、違法薬物所持の嫌疑がかけられることとなった。
 警察は覚醒剤の禁断症状による、錯乱状態が引き起こした単独事故として捜査を打ち切った。決定的な証拠は覚醒剤に付着した指紋の一部が歳三の指紋と一致したことであった。
 真希はお祖父ちゃんがそんなことをするわけない、きっと何かの間違いだと強く信じて疑わない。なんとしてでも真相を突き止めたいという強い訴えにより、母親とともにコハダ探偵事務所にやってきたというわけだ。
 真希は「お願いします。お願いします。お祖父ちゃんはそんなことをするような人じゃないんですと」と泣き声で訴えながら母親に肩を抱かれてコハダ探偵事務所をあとにした。

 小出所長のデスクには、数枚の調書が置かれている。声を出して長所を読み終えた所長は、くわえ煙草で腕組みをして目をつむった。そもそも警視庁から調書のコピーなんてものをもらえるわけがない。所長の依頼により、警視庁の篠宮警部がこの事故の調書に目を通して記憶する、そしてその記憶をもとにした篠宮警部の見解を孝司が電話で聞き取りながらタイピングしたものだ。篠宮の記憶は異常なほど正確だ。よく一読しただけで詳細にわたり記憶に留めておくことが出来るものだ、と孝司はいつも感心を通り越してあきれてしまう。
 毎回、こういった依頼を篠宮が受けるというわけではない。自分が興味をひかれる事件に限る。しかし不思議と篠宮警部が興味を持つ事件はその後に以外な展開を見せる。今回もそういった展開が予想されるはずだが、孝司にはどうにも単独事故とした警察の判断に疑う余地が見当たらないように感じられた。調書の内容は真希の母親から聞いたものとさして変わりはなかった。しかし歳三のタクシーから発見されたものは、覚醒剤のパッケージだけではなかったことがわかった。後部座席の下から一枚の名刺と綺麗にラッピングされた小さな長方形の箱が発見されていた。乗客の忘れ物と警察は考えている。電話口で調書の内容を話し終えたとき篠宮は言った。ただ気になる点がひとつ。
「その名刺がどうにも気になるのです。捜査したところ名刺は架空の会社名と人物でした。ここまではよくある話です。しかし、その名刺の裏には〈PP〉〈嘘だと言って〉とメモが書かれているのです。そもそも、名刺の裏にメモ書きをするような行為は失礼な行為です。よって手帳を持っていない場合や、急を迫られている状況が想定されます。そういった場合に書かれた文字は、多少は乱れるものです。しかしこの名刺の裏に書かれた文字。私には少々丁寧に書かれているように見えてならないんですよ。そしてこのメモの意味が気になってどうにも気持ちが悪い」
 将棋の腕はプロ級であり、銀河戦でプロ棋士に勝ったこともある篠宮警部は、孝司が警視庁時代の捜査中にもよくこの気持ち悪い、という言葉を将棋に例えて使っていた。
「なぜ、わざわざ物証となるような物を残したのでしょう。気持ちが悪い。何か狙いがあるような気がします。将棋で言えば六四歩。この駒がと金にならずにじっとしているのが気持ち悪いように」と。孝司はいつも篠宮の推理も将棋の話もちんぷんかんぷんだった。
 小出所長は頭の後ろに組んでいた手をほどき、煙草を深く吸ってゆっくりと煙を吐き出してから言った。
「気持ちが悪い。篠宮のいつもの口癖か―孝司。この場合は、やっぱり名刺から探るのが定石だな」
 この人もときどき将棋用語を使う。ちなみに定石とは、将棋の手で最善と決まっている射し方を言う。
「孝司。明日から名刺の住所地とその周辺を洗え。あと事故現場も見てきてくれ」
「所長は?」
「俺は別件で忙しい」と顔をしかめている。
 孝司はなんだか嫌な予感がした。ペコが青緑の目を輝かせて、小出所長の視界に入るようにデスクににじり寄り所長の顔をのぞきこんだ。所長はペコを見上げて、優しく笑って言った。
「ペコちゃん。見学をかねて孝司の助手をよろしく頼む」
 顔がほころんでいる、猫を優しく見守るときのような顔だ。あ、あいつは猫か。
「へいっ!」とペコは表情を引き締めて所長に敬礼した。
「ちょっ!ちょっと待ってくださいよ所長!こいつは・・」と孝司は言い淀んだ。
「こいつは?なんだ?」
 孝司は胸の内で「ただの飼い猫なんだよう」とひとりごちてから「わかりました」と頭をかいて横目でペコをにらんだ。




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