第9話

文字数 6,330文字

 
「まったく。言ってることと、やってることが違うじゃねえか」
 駅の改札を出ると孝司は、人目を気にせず声に出してひとりごちた。
 デートはランチだけであった。夕食は家で両親と食べたいの、嫁ぐまでの間は家族と一緒に過ごす時間を大切にしたいから、というフィアンセの裕子の意向だ。日が傾くと早々に孝司は冷え切った気分で、東京駅八重洲口で彼女を見送るはめになった。
孝司の予定では一緒にイタリアンレストランかなんかで、ワイングラスを傾けながらディナーも楽しみ、ふたりの夜をゆっくり楽しむはずであった。「大好き」「愛してる」と彼女は言うが、婚約してから今まで、ふたりきりの夜をゆっくりと過ごしたことがまったくない。婚約前はよく卯月町のアパートにも訪れていたのに。
 孝司は駅前のタクシーロータリーを大股で渡り、怪獣のような勢いで大きな足音をたてながら缶ビールの自動販売機に突進した。乱暴にウォレット型の財布から小銭を取り出すとロング缶のビールを一本買い、その場でプルトップと開けると、ひと口あおった。
ぷっはあーと息を吐くとまた怪獣のように、ロータリー脇の植え込みの前にあるベンチへと突進して、どっかと座るとタバコをくわえて火を点けた。
 深く一服するとくさくさしていた気分が少し落ち着いた。
 ぐびぐびと缶ビールを傾けていると、どこからか威嚇する猫の鳴き声が聞こえてきた。やがてその鳴き声は数匹の猫のものとなり、威嚇の応酬がはじまった。ああ、盛りの時期かと、ぼんやり思った。おれもそうなのだが相手がこう閉店続きだとなあ。
 不意に近くで、布を引き破るときのような鋭く威嚇する鳴き声が聞こえたかと思うと、植え込みの中から白い猫が飛び出してきた。続いて白い猫を追って黒と白のタキシード柄の猫と、茶トラの猫が飛び出してきた。おそらく雄猫だ。白い猫は高い場所に逃げようと、植え込みの並びにある交番に停められたパトカーの上に飛び乗った。そこから自転車置き場の屋根に飛び乗ろうと視線を動かしている、が少しためらっている。少しハードルが高いのか。
 雄猫たちもパトカーの上に、飛び乗る隙を伺っている。白い猫は思い切って自転車置き場の屋根を目がけて、ぴょんっと跳びあがった。が、あとひとつのところで目標に届かず歩道に不時着した。すかさず雄猫たちが詰め寄ると、後ずさりしながらフウウウーと、威嚇の鳴き声をあげて雄猫たちを睨んでいる。よく見ると白い猫は背中にリュックをしょっている。これは大きなハンデだなと孝司は呑気に考えていたが、ふと我に返り、それがペコであることに気づいた。
そういやペコは去勢されているのだ。だからまったくもって野生ではない。自然界ではそれだけでハンデどころか死を意味する。
 孝司は立ち上がり、くわえタバコに缶ビールという、元警察官とは思えない風体でペコのほうへと歩を進めた。
 交番では、巡査が窓の向こうから訝し気な視線を孝司に向けている。ペコが孝司に気づいてニャーと甘えた声を出した。孝司はペコと二匹の雄猫の間まで来ると、立ち止まり雄猫たちをじとっと見た。
「残念だが諸君。こいつはもう女じゃねえんだ。悪りいな。帰りな」
 雄猫たちが孝司の言っていることを理解できたかどうかは定かではないが、立場的にこの男は白猫を守ろうとしているのだということを理解し、少し後ずさると潔く走り去った。

 もう!あいつら無茶苦茶よ!レディに対して礼儀もへったくれもない。失礼しちゃう。
 孝司はペコのほうをふり返らない。雄猫たちは西陽に染まった町の路地に姿を消した。
「だから。日が傾く前に帰れって言っただろう」
 ペコは孝司の足元に近づくと、足に頭をこすりつけた。
「なんだよ。甘えんじゃねえよ」と孝司はしゃがみ込むと、乱暴にペコの頭を撫でた。
 ペコはこすりつけていた頭を上げると、孝司の手をパクっと軽く噛んだ。
「何すんだこの野郎!」孝司は手を引いてブーツのつま先で軽く蹴っ飛ばそうとしたが、そこはペコには敵わない。ペコは首だけで華麗に攻撃をかわすと、孝司の後ろにまわり込み軽く孝司の足を軽くひっかくと素早く三メートルほど先に走り逃げて、孝司を首だけでふり返った。
「謝れよこの野郎!」と孝司はペコとの距離を詰めていく。
 ごめんね。
「やけに素直だな。なんか気持ち悪い」
 交番の巡査は、サーカス小屋に迷い込んだかのように目をパチクリさせながら、一人と一匹のやりとりを見ている。リュックを背負った猫。日曜日の夕暮れ時にその猫と真剣に会話する男・・。
 お腹空いた。
「おまえ。二言目にはそれだなあ。あっ!そうだった。キャットフード切らしてたんだ。買って帰らなきゃな」
 ペコは孝司に駆けより、今度は肉球で足をやさしく押すと孝司の顔を見上げた。
「なんだよ?」と孝司が見おろすとペコは「カツオが食べたい」と言って少し頭を横にかしいで青緑の目を丸くした。
「おまえ。こないだので味をしめやがったな」
 女房を質に入れても初ガツオって言うじゃない。
「いったいどこで覚えるんだよ、そういうの」
 そう言って孝司は、顔を上げるとあごに手をやり少し思案した。裕子との甘い日曜の夜はすでに失われた。くさくさしているこの気分を吹き飛ばすには、いっそのことパアーっと美味い酒を呑んで初鰹をつまんで帰るのも一興だ。たとえ相方が猫であっても。
 孝司はペコを見おろして、あごをしゃくって近くの公衆トイレを指して言った。
「これから行くところはペット同伴禁止だ。わかるな?」
 カツオ食べれるの?
「もちろんだ。豊洲市場から仕入れた新鮮なやつだ。早く着替えてこい」
 がってんだ!
 ペコは元気よく頷くと、超特急で公衆トイレへと走っていった。交番の巡査は目と口を真ん丸にしてこっちを見ている。
 人間になったペコが公衆トイレから跳ねるように飛び出してきて孝司に走りよった。ブラウスのボタンの上部が互い違いになっているため、孝司が面倒くさそうにかけ直す。そのへんはなんだかんだ言っても飼い主だ。
交番の巡査は、最速で左右に動くメトロノームよろしく、ペコと公衆トイレを交互に見ている。
ふたりが卯月町商店街のほうへと歩き去ると巡査は「うそ!うそ!ええっ?マジック?イリュージョン?えええー?アメーイジーング!」と交番を飛び出して公衆トイレに走っていった。中に猫はいないはずだ。
 居酒屋「河岸幸」は卯月町商店街通りに入るとすぐ、古い木造づくりの店舗と縄暖簾の佇まいで迎えてくれる。
入り口の格子戸の両脇には「どぜう」と「魚」と書かれた提灯が吊られ、飴色にくすんだ屋号の看板が軒先の上に鎮座している。今年で創業六十年を迎えるこの店の親方は、齢五十五。三代目になる。孝司とは先代の頃からの付き合いだ。
寿司屋を営む孝司の父親が、築地市場で先代の魚の目利きに感心し、一度試しに店に行ってみようと「河岸幸」を訪れ、先代の料理の腕に惚れ込んでから付き合いが始まった。ほどなくして父親は、自分の店が休みの日や何か祝い事があると、女房息子たちをこの店につれてくるようになった。孝司がまだ子どもの頃は先代とその女房、そして今の親方が店を切り盛りしていた。
今はこの三代目とその女房が店を継いでいる。隠居している大親方もたまに顔を出す。孝司とさほど年の変わらない三代目のひとり息子は、会社勤めをしているため孝司は三代目の跡目はどうなるのかと余計な心配をしている。
 格子戸をあけると、ねじり鉢巻きをした三代目が塩辛い声で「いらっしゃい」と孝司たちのほうを見た。孝司はご無沙汰しております、と分厚い一枚板のカウンター席に座り、ペコにも座るように促した。三代目は包丁を持ったままペコに目を止めて動かない。ペコは頭をぴょこんと下げて「こんにちは」と微笑んだ。三代目も「こんちは」とぎこちなく口だけ動かしていった。
「タカちゃん。誰?このお連れさん」三代目がやっと孝司に目を戻して小声で聞いて包丁を置き、お通しの器を手に取る。
「バイト、バイト。ただのバイト。コハダ探偵事務所で最近雇ったんすよ」
 ペコのことに関してつく嘘の腕前は、最近かなり上達したようだ。
「ペイ子と申します。ペコと呼んでいただいてけっこうです」ペコは、もう一度ぺこりと頭を下げた。
「ご丁寧にどうも。この店の三代目の幸三と申しやす。この度はおいで頂き誠にありがとう存じます」
 三代目の鼻の下がのびている。
「なんだい親方、バカ丁寧に。こんな猫、いやバカ娘にもったいない」と孝司が言った。その刹那カウンターの下にある孝司の太ももを、ペコは思いっきりつねった。
「失礼だよねえ」と、三代目は鼻の下をのばしたままペコに笑いかける。ペコも、少し頭を傾いで笑顔で返す。
 孝司はうつむき、痛みに耐えながら声を押し殺して「ずるい。ずるい。気に食わねえ。ちょっと可愛いだけで」とぶつぶつ言っている。
三代目がカウンターに、ふたりのお通しの器と瓶ビールを置いたところで、孝司は痛みから解放された。すかさず顔を上げてペコを睨みつけるがペコは視線を合わさない。
 ペコの視線はネタケースの中にある鰹の片身にそそがれている。三代目があざとくその視線を感じ取り「ペコちゃん。初鰹食べるかい?昨日、豊洲で仕入れてきたんだ。抜群にうめえよ」と言いながら手はすでにネタケースを開けている。
「お願いします!」すかさずペコは笑顔で応える。
 孝司が口をはさむ間もなく、三代目の流れるような包丁さばきにより、あっと言う間に鰹の刺身がカウンターの上にとどけられた。刺身皿の端には和辛子が添えられている。孝司は思わず刺身を凝視して、声をあげそうになった。いつもより明らかに量が多い。顔を上げると三代目が満面の笑顔で「最初は和辛子で食ってみな。うめえから」とペコに笑いかける。孝司はなんだか一人ぼっちになったような気分になってきた。
「酒盗もある。日本酒に合うよ」と三代目は孝司ではなくペコに話しながら、すでにタッパから酒盗をつまみ出しレモン汁で洗いはじめている。
「あまり塩分は猫に良くな・・」と小声で口ごもる孝司を尻目に「すぐに用意するからね」と三代目はペコに笑いかける。
「そうか。ペコちゃんも探偵さんか。なんか最近おもしろい捕り物とかあったかい?」
「捕り物って」孝司が小さくつぶやく。
「ラリパッパをひとりお縄にするお手伝いをしたの!親方聞いてくれる?」
「ラリパッパって」と口をはさむがだれも孝司を見ない。
「おう!すげえじゃねえか。聞かせとくれよ」と三代目が乗り出すとペコは目を輝かせて川崎紗耶香逮捕に至るまでの、あらましを得意げに話し始めた。この事件に関してはペコの活躍が目立ち、孝司の手柄はあまりなかった。徐々に孝司の両肩は小さくなり、背中は丸まりうつむき加減になっていった。つと背中に誰かが触れるのを感じて、振り向くと女将さんが孝司を慰めるように柔らかな笑顔を浮かべてグラスにビールを注いでくれた。
「タカちゃん。世間ってものはこんなもんよ。気を落とさないで。親方には暖簾をしまったらたっぷりお灸すえとくから。このビールはサービスよ。飲んで」と瓶ビールをカウンターに置くと、片目をつぶってお盆をかかえ帳場に戻っていった。
 ペコは時代劇のナレーションのように川崎紗耶香がお縄になるまでを流暢に話している。今のうちだと孝司はペコに気づかれないように鰹に箸をのばし一枚、二枚と和辛子をつけ醤油にひたして口にほうりこんでは、むしゃむしゃと食べだした。間にグラスのビールをひと息に飲み干し、もう一枚と箸をのばすとその手をペコが跳ねのけた。孝司は睨みつけるがペコはかまわず話し続けている。しかたなくビールをグラスに注ぎ、またひと息に飲み干した。
 ペコの話が川崎紗耶香逮捕に至ったところで、孝司のスマホが鳴った。孝司は「ちっ」と片眉を上げて電話にでた。小出所長からだった。
 ペコは小出所長の話に頷いている孝司を横目に美味しそうに鰹を口に運ぶ。ぎこちないが箸の使い方は、慣れてきたようで皿の上の鰹はすでに残り一枚となっている。孝司はペコをにらみ目顔で一枚残しておけと訴えている。電話を終えると孝司はペコをにらみながら、刺身皿を引き寄せると、素早く残りの一枚を口にほうりこんだ。
「誰?所長でしょ」とペコが目を輝かせる。
 孝司はシカトして三代目に赤貝を注文すると、グラスにビールを注いだ。ペコはすでにカルピスソーダが入ったジョッキを両手に持っている。
「なに勝手に注文してんだよ」
「親方がサービスって」
 孝司は三代目を軽くにらんだ。まだ鼻の下がのびている。
 ペコは悪びれることなくカルピスソーダを飲み干すとおかわりを注文した。孝司はもう何も言う気をなくして、大きなため息をついた。
「ねえ孝司!所長からでしょ。何の事件?殺し?」
 三代目も、カウンターの向こうから身を乗り出す。
「残念でした。ただの素行調査だよ」と孝司は舌をだした。
「明日、直接行って話を聞いて来いって。依頼者は江戸切子の職人だから、事前に江戸切子について予習しておけってよ。親方、日本酒もらえますか?」と孝司はカウンターに並べられた日本酒の瓶に横から目をすべらせた。
「タカちゃん、ちょうどいいや。めったと使わねえが今日は特別だ。江戸切子のグラスで飲んでみな。二級酒でも上等に感じられるぐらいすげえ代物だぜ。もちろん二級酒を注ぐような不粋なまねはしねえがな」
 孝司は暖簾をくぐってから初めて尊敬の念を浮かべた視線を三代目にむけた。
「酒の銘柄は任せてもらうぜ」
 三代目はグラスが並べられた食器棚の奥から白木の箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開けると、小ぶりのグラスを慎重に取り出して孝司に見せた。
 そのグラスは夜明け前の空のように、深く優しい群青の硝子の下地に、星や月の光が射し込むかのように幾何学模様が彫られている。
 孝司は息をのみ目を丸くさせて、その江戸切子のグラスを見つめた。
「な、なんと綺麗な・・」
「だろう」とグラスをカウンターに置き、三代目は腕をくんで満足気にうなづいた。
「その文様は伝統的な矢来文という文様をベースにしたデザインだ」
「素晴らしい。なんと素晴らしい」孝司は瞬きを忘れて、グラスに見惚れている。ペコも孝司と顔を並べて目を輝かせている。
「なんか。生きているみたい」
 ペコがそう言うと孝司と三代目は感心した顔でペコを見てから、お互い顔を見合わせて「いいこと言うじゃない」と声をそろえた。
「あたたかくなってきたしな。ここはひとつ淡麗辛口の酒を」
 三代目は並べられた日本酒の列のなかから「春言」という銘柄が貼られた瓶を選び、まるでそれが赤子であるかのように優しく抱いて江戸切子のグラスにゆっくりと注ぐ。注ぐ音は、春の足音のような優しい調べのようだ。ゆっくりと、グラスに酒が満ちていく。
「素晴らしい。美しい。感動してなんか泣けてきた」と孝司は目を潤ませて親方を見上げる。親方はそうだろそうだろといった感じで、満足気に顎をひいてうなずいている。
 春言が満たされた江戸切子グラスを受け取ると、孝司は花を愛でるような慈しみに満ちた目でグラスを見つめ、ゆっくりとひと口飲んだ。
 孝司は、桜の花の下で息を吸うように目をとじて春言を味わい、ゆっくりと目をあけるとうっとりとグラスを見つめた。
「言葉にならねえ」鼻からゆっくりと息をはきグラスを置き、腕組みをして何度もうなずきながらグラスを見つめた。
 そんな孝司を珍しいものでも見るように見ていたペコが、三代目のほうに身を乗り出した。
「親方!あたしもそれでカルピス飲みたい!」
 この時ばかりは三代目もペコを睨みつけた。
 
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