第10話

文字数 2,747文字

 小林硝子工芸所がある桜町は卯月町から歩いて行ける距離であった。プリントアウトした地図に目を落としながら、大きな公園の遊歩道を歩く孝司の後ろを、ペコはぴんっと両腕を後ろ手に組んで、ゆっくりついていく。
 遊歩道沿いの桜並木は、満開を迎えている。桜のトンネルのなかで、ペコは嬉しそうに花びらに目を輝かせている。桜のトンネルをぬけると、二車線の車道が現れてその向こうに川が流れていた。その川を渡る橋を見つけると孝司はふり返り「あの橋をわたると工芸所があるはずだ」、とペコに先をうながした。
 小林工芸所のインターホンを押すと中から少し長めの髪の男が出てきて、工芸所のならびにある小林と表札のある少し古びた日本家屋に案内された。男がおとないを入れるとすぐに玄関から真輔が出てきて格子戸の門を開け、恭しく小林家の仏間に通された。
 仏間の座卓に孝司とペコは、真輔と向かい合って座った。
 縁側のガラス戸は開けはなたれていて手入れの行き届いた庭が見渡せる。板塀脇の桜の木が満開の枝を風に揺らしている。緩やかな風にのって桜の花びらが、数枚、庭で泳いでいる。
「綺麗なお庭ですね」
「父が、この庭を気に入って買ったようなもんです。しかし中は手狭で」と真輔は苦笑いしてうなじを掻いた。
 一年前に土町から、桜町へと引っ越してきてやっと少し慣れてきたところだという。工芸所の隣であるため何かと使い勝手が良く、切子の作品が仕上がるスピードも上がったと、真輔は職人らしく照れくさそうに笑う。
 改めて挨拶とお互いの自己紹介を済ますと仏間の襖が引かれて、急須と湯のみを乗せたお盆を持った、さっきの男が現れた。座卓にお盆をおくと、急須からお茶を入れて湯のみをふたつ孝司とペコの前に、「粗茶ですが」と静かに置いた。真輔が眉間にしわを寄せて男を睨み、肩越しに小声で「なんで、お前なんだよ。桃子は?」と問うと、男は声をひそめることなく「お茶菓子がないとのことで買い物に行ってございます。へい」と何が可笑しいのか笑い顔でうなずいている。
「弟子の五郎です」と真輔は、苦いものを口にした時のような顔でふたりに紹介した。
「へい。弟子の五郎と申します」と五郎はお盆を抱えたまま慇懃に頭を下げたが、立ち去る気配はない。ニコニコしながら孝司とペコを交互に見ている。
「五郎」
 穏やかだが、苛立ちをかくせない声色で真輔が声をかけた。
「へい!なんでございましょう?」
「席を外したまえ」と真輔は語気を強めて言うと、咳払いした。
「えっ?あっ!へい。承知しやした」
 五郎は笑顔のまま立ち上がると、また孝司とペコを交互に見ながら「何かございましたら遠慮なくお申し付けください」と真輔を見ずに言った。
「もう何もないよ。工芸所に行ってなさい」
「へい。承知しやした。でもこの五郎。なんでもお力になります。大親方のことでしょ?たいへん気がかりでございます。わかります。いやあお気持ちお察し申し上げます。師匠。いつでもお呼びたてくだせえ」
「呼ばねえよ!早く行け」と真輔は追い払うように畳を手のひらで叩いた。
 五郎は小さく舌を出し、首をすくめるとそそくさと仏間から出ていった。
「失礼しました」と言って真輔はまた咳払いをひとつした。
孝司とペコはうつむき肩を震わせて笑いをこらえている。真輔は決まりが悪い顔で、まあ熱いうちにお召し上がりください、と手のひらでお茶を勧めた。
 では遠慮なく、と孝司はひと口お茶をすすると、小出所長から聞いた依頼内容を確認し、調査対象となる真輔の父親である、小林源二の最近の様子をたずねた。
「本当はこんなことしたくはないんですがね。最近、町内でも高齢者を狙った詐欺があったと聞き心配になりまして。親父は頑固者なんで、騙さるようなことはないとは思うんですが」
「優良な金融商品と偽り、不良債券を売りつける詐欺ですね。騙されたと気づいて売却しようにもすでに二束三文にもならない。卯月町でも何件か被害がありました。最近、同じ港東区内で被害が増えてきています。架空の証券会社の営業マンを名乗り、上手に口車に乗せる手口。身なりもそれなりにきちんとしているもんだから、周囲もなかなか疑いの目を向けないようです。お父様に、そういう連中と接触している様子がうかがわれるんですか?」
「いや。わたしの知っている範囲ではそういったことは無いです。しかし、ここのところ週末になると、何も言わずにふらっと出かけては遅くに帰ってくるんです。どこに行っていたのか聞いても、ちょっとそこまで、と言葉を濁すばかりで。切子職人一筋できたもんで多少浮世離れしたところもありますので、情にほだされてコロッと騙されるんじゃねえかと心配でして」、と言って真輔は頭を掻いた。
「それは心配でございましょう」
 真輔は少し悲し気な顔で、自分の湯のみを手に取りそれをじっと見つめた。
「最近になって、どうも衰えが目立ちましてね」
「何かご病気でも?」
 真輔は源二が軽い脳梗塞を患い、切子職人を引退し工芸所長も真輔に継がせた経緯をかいつまんで話した。
 孝司は仏壇の上に飾られた、穏やかに微笑む亡き婦人の遺影を見上げた。真輔はそれに気づき、立ち上がると遺影に微笑みかけた。
「母です。源二の女房。そりゃあもう優しい母であり、小林硝子工芸所の立派な女将でした」
「そうでしたか」
「昨年十一月に三回忌を迎えましてね。父の気持ちも落ち着いたかと思います。満足気な顔をしていましたし。今は江戸切子体験教室の講師をしたり、見学者の対応をしたりと父なりにやりがいを持って仕事に取り組んでいます。息子の私が言うのもなんですが切子の腕は超一流、偉大な切子職人でした。引退したことが今も惜しまれます」
「ぜひ。作品を拝見したいものです」
「ありがとうございます。息子として。そして工芸所長として、母に安心して成仏してもらえるよう今の暮らしを守っていきたい。父のことは信じていますが、騙しに来る輩がいるかぎり絶対はない」
「おっしゃる通りです。事なきをえるようしっかりと調査させていただきます」
 孝司は真輔の目を見据えたまま強く頷いた。

 孝司の提案で、二人は日本の伝統文化を紹介する雑誌のライターと身を偽り、小林硝子工芸所に二週間ほど取材と称して、調査に来ることになった。源二と親しい関係を築き仕事以外の源二の様子を探るのが狙いだ。
 電話で小出所長に報告をすると、いいアイデアだ、ついでに詐欺集団の尻尾をつかむことができたら、また桜田門に貸しが作れると余計な期待をよせていた。
 孝司の狙いは源二と親しくなることにより、息子には言えない話を聞きだすことだった。父親と言うものは、年をとっても息子に弱みを見せたくないものだ。

(次回の更新は、2月29日です)


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