第2話

文字数 5,669文字

 ペコの言うとおりであった。孝司の住むアパートから、数分歩くと卯月町商店街がある。その商店街通りの端には、孝司がよく利用する喫茶店「如月」がある。そこへ向かうまでの商店街通りを二人?で歩いていると、すれ違う人たちが珍しそうな顔でペコに視線を向けてきた。ペコはその視線と目が合うと「こんにちは!」とにこやかに挨拶を交わしていた。とりあえず今のところは、脳のCT検査の必要はないようだ。
 喫茶店のテーブル席に向い合せに座る。ペコは真ん丸に目を見開いて、穴が開くほどにメニューを凝視している。ピンク色の舌が出しっぱなしだ。やっぱりペコか。
「腹が減っているのはわかる。だがその前にふたつほど質問に答えてほしいのだが」
 どうぞ。早いところ済ませてよね、とペコはまたメニューに視線を落とした。
「よしんば。よしんば君がペコの生まれ変わりだとしてだ」
「だから変身だって」
「まあいい。変身したとしてだ。なぜ外人なんだ」
 ペコは無表情でじっと孝司を見た。
「心外だよ孝司。ハーフよ」
「どちらでもいい。似たようなもんだ。なぜだ?」
「ひどいよ孝司。あたしのこと全然わかってなかったのね。あたしは洋種の雑種よ」
 へっ?孝司は呆けた顔でペコの顔を見ながら、コップの水をひと息に飲み干した。
「それ。反映するのか?」
「当然でしょっ」とペコは眉根を寄せる。
「わかった。わかった。わかったことにする。よしんば、よしんばそうだとしてだ」
「よしんばよしんば、うるさいわねえ。さっきから」
「あとひとつ。おまえが死んだのは。いや亡くなったのはおまえが十六歳のときだ。猫の十六歳は人間で言えばお婆ちゃんだ。なのになぜその姿なのだ。どうみてもなんだ?高校生ぐらいじゃねえか」
 ペコの上瞼が横一直線となり、目に険しい色がうかんだ。
「あのねえ。どだい人間で言えばってのが失礼なのよ。まったく人間目線というか。人間主体というか。猫だって人間だって十六歳は十六歳でしょ。この世に生まれて十六年生きたの。だから十六歳なの」声音が強く、怒っている。
 そう言い捨てて「もういいでしょ。注文しましょ」とペコはまたメニューに視線を落とした。「うん。まあ、そうだな」と孝司は目をパチクリさせ、頭をかきながら自分もメニューを手に取った。
 この卯月町商店街にある、昭和の香りを残す老舗の喫茶店、卯月。
喫茶店というものの、コーヒーや紅茶にあまり力は入れていない。専ら料理に力を入れている。喫茶店の軽食と侮るなかれ、本格洋食店に引けを取らない立派なメニューを、用意している。洋食のみならず親子丼や天丼、蕎麦などのメニューも揃えているから驚かされる。ひとり暮らしの孝司には、いつしやご用達の店となっていた。
 舌が出しっぱなしとなっているペコの前には、ペコが生まれて初めて自分で注文した料理が並べられている。特製ハンバーガーと二種類のサンドウィッチ。
ここの名物「特製ハンバーガー」のパテの牛肉の含有量の多さは、他に類を見ない。八割がたが牛肉だ。その牛肉の味のパンチ力を引き立てているのが、大きめにスライスされたピクルスだ。このピクルスは、店長が丹念に漬け込んでいる。
ハムサンドも、使われているハムが上質でそれに合わすチーズもまた旨い。パンは卯月町商店街のパン屋から仕入れている。玉子サンドも絶品だ。
 ペコは自分の顔の半分ほどの、特製ハンバーガーをじっと見つめては、舌なめずりをしている。そしてオレンジジュースをひと口、飲んだ。
熱々のうちに食ったらいいのにと孝司は思ったが、ペコはそれにはかじりつかずにサンドウィッチに噛みついた。頭を揺らして、ガツガツとそれを咀嚼し飲み込む。食べるというよりまさに喰らうといった姿だ。あっという間に食べ終えると、鼻息を荒くして特製ハンバーガーをじとっと見た。見ているだけでなかなか手に取らない。
―やっぱり猫舌なのだろうか。
ペコの様子に目を奪われていた孝司は、自分のサンドウィッチの存在に気づき、それを手に取りひと口ふた口とゆっくり食べながらコーヒーを飲む。
「いやまあ、なんだな。いつ食ってもここのサンドウィッチは間違いない。うまい。美味かっただろペコ」
話しかけるがペコは応えない。じっと特製ハンバーガーを見ている。あきらめて孝司は窓の外に目をやった。そしてサンドウィッチをかじりながら、自分のアイスコーヒーを手に取った。
 ふいに包み紙を乱暴に外す音が聞こえた。ペコに目を戻すと大きく口を開けてハンバーガーに噛りつくところだった。きっともう熱くないのだろう。一口が大きい。顔に似合わずとても品がない。二口三口とどんどん喰らいついていく。白い頬はどんどんと、ケチャップの赤い色に染まっていく。
ひと口ふた口と食べては「うふ。美味し!」などとほほ笑んで呟く女子高生(そういった女子がいればの話だが)とは、遠くかけ離れたまさに獣らしい喰らいっぷりだ。
「美味いか?ペコ」
孝司は動物園にいるような気分になってきた。ペコが食べることに夢中で応えないのでもう一度聞いた。
「おい。ペコ!それ美味いか?」
 ペコは顔を上げると口をせわしなく動かしながら声に出さずに「うん!」と頷いた。
「やっぱり、あれか?こう前足?いや手で掴んで噛りつくような食い物のほうが、いいのだろうか」
 ペコはまた同じように「うん」と頷いた。よく考えてみると、いくら人間の姿に変身したとしても、箸やスプーンを使うという習慣は、猫のペコには鼻っからないのだ。そのへんは今後?訓練が必要だと孝司は思った。
 注文した料理の量は、孝司のほうが少ないのに先にペコが食べおわった。
「はあー」と言って、満足気な笑顔を浮かべた。そして、目を細め、両手をまるめて口の前に持ち上げた。
「ちょっと待った!」と孝司が腕を掴んで、ペコの動きを封じた。
 隣のテーブル席のお爺ちゃんが、食べる手を止めて、物珍しそうんな目つきで、ペコを凝視している。
体は高校生だが食事の作法は卒乳後の幼児に等しい。窓に面した席であるため通行人も足を止めて、口の周りをケチャップで真っ赤に汚したペコに、怪訝な視線を向けている。
 そこで孝司は、ペコの兄であるかのように優しい微笑みを浮かべた。そして、テーブルナプキンを、数枚つまむと「ペコ。お行儀悪いよ。これで綺麗にお口を拭きなさい」と口の前で丸めている両手をひらいて、それを握らせた。 そして小声で「手で顔を拭くのは猫のときだけ!」とペコの耳元で小声で強く言った。
日曜日の午前中らしい明るい陽光が、窓から射しこんでいる。窓の外で開花を待つ低いツツジの生垣と、商店街の通りを照らしている。別段なんてことない、全く普通の日曜日だ。孝司とペコ以外は。
 ペコと孝司は、食後のほっこりとした沈黙を味わいながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。孝司はタバコを吸いながら、ゆっくりとコーヒーカップを口に運ぶ。ペコはオレンジジュースのグラスを両手に持って、グラスから直接飲んでいる。ストローは手付かずでテーブルに置かれたままだ。
 孝司は視線の向きを変えずに言った。
「やっぱりあれか。熱いのは嫌か」
「なんのこと?」とペコも、窓の外に目を向けたままこたえた。
 飲んでみる?と孝司はコーヒーカップをペコの前に置いた。それを見つめてペコは露骨に顔を歪めた。
「なんで人間は、こんなよくわからないものを飲むのかしら」と言ってぷいっとまた窓の外に目を向けた。
「やっぱり。人の姿をしていても猫なんだな。猫舌だ」と孝司はニヤニヤ笑った。
 ペコは孝司をかるく睨みつけると、オレンジジュースをひと口飲んだ。なんだよぉ、と孝司はたじろいで少し後ろにのけ反る。
「仕事に戻るわ。ここからはあたしが質問する番よ」
 孝司の目が丸くなる。
「なんだよ。仕事って」
「だから言ったでしょ。お母さんに頼まれてきた使命を果たすの。あなたの結婚をしかとこの目で見届けるのよ」
 孝司は面白くなさそうに、両手を頭の後ろに組んで背もたれに深くよりかかった。
「母さんの気持ちは分かるけどなんでお前なんだよ。おれにとってはお前は妹みたいな存在だぜ。おせっかいにしか思えないよ」
 ペコは、フウウーッと強く息を吐いて口を横に開き歯を剥いた。また隣の席のお爺ちゃんが目を丸くしてペコを見た。
「やめろよ。恐いなあ」と孝司は組んでいた両腕をほどいて椅子ごと後ろに退いた。人の姿で猫の威嚇をされるとかなり恐ろしい。
「あたしはねえ。あんたのこと可愛い弟だと思ってたの」
「へっ?なんで?なんで?意味わかんねえ。おれのほうが先に生まれてんだよ!お前は後からやって来たんじゃねえか」
「飼い猫は人間の家族の力関係で、立場の順位を決めるの。一番はパパ。孝司のお父さんね。二番はママ。三番目はお兄ちゃん。四番目にあたし。そしてその下が孝司」
「え?なんで!なんでだよ!なんでおれが一番下なんだよ!」と孝司が、テーブルに強く両手をつく。
 ペコは、窓の外に目を向けて、ふふっと小さく笑った。
「まあ幕下と言ってもいいかしら。だってあたしが拾われてきたときの孝司はほとんど赤ちゃんだったじゃない。可愛かった」
 ペコがいたずらっぽく笑う。
「お前も似たようなもんじゃねえか。納得いかねえ・・」孝司はふくれっ面で腕を組み、ペコをにらむ。
「まあ、それはともかく。良い縁談か否か。またその縁談が実るか否か。あたしはそれを見守る使命があるの。とりあえずあたしが死んでからの孝司の暮らしの様子と、就いた職業や婚約者との馴れ初めを、具体的に話してくんない」
 なんでお前なんかにと、孝司はまた両腕を頭の後ろに組んで、窓外に目をむけて口を尖らす。するとまたペコはフウウーッ!と強く息を吐いて孝司を威嚇した。孝司がひるむ。
「わかったよぉ。おっかねえなあ。お前、その威嚇の仕方は、人になっているときは止めてくれ。もう完全に妖怪だよ」
「妖怪って何?」
「知らねえか。まあ知らなくていいよ」
「あたしが死んだあと。高校はちゃんと卒業したの?」
「あたりまえだろ」
「その後は?」
 孝司は有名大学卒業後に、憧れだった職業である警察官となり、晴れて刑事として警視庁に勤務した経緯をかいつまんで話すと、少し偉そうに胸をはった。
「やるじゃない!」とペコが目を輝かす。
「それで今も刑事さん?」
「いや今は・・」と孝司は、バツが悪そうに俯いて頭をかいた。
「キャリアって言ってな。有名大卒ってのは出世街道を走ることになるんだ」
「いいじゃない!大出世!孝司は大関?」
「馬鹿だなお前は」孝司は足を組んでタバコに火をつける。
「失礼ね。猫よ」
「相撲みたいに、ただ土俵の上で強いだけなら話は簡単なんだ。しかし、会社もそうだけど人間社会での出世ってのは策略や謀略、妬み嫉みやらと、嫌らしくも汚らしいもんに巻き込まれるんだよ。そこから生じる軋轢や葛藤とかは、もうややこしくて仕方がねえ」
「言っている意味がさっぱりわかんない」とペコは両眉を上げる。
「まあ簡単に言うと出世や名誉や金よりも、自分にとっての本当の仕事をしたくなったんだ。それで警察官を辞めた」
「ちょっと待って!結婚を前にして無職?」
「いやいや、ちゃんと転職したよ」
「なんの仕事?」
「探偵だ」と言ってまた少し胸をそらす。
「かっこいい!」とペコは青緑の目を輝かす。
 孝司は入管してすぐに、ある事件を一緒に捜査したとても優秀だが風変わりな警部と、個人的に親しくなった。
退官を決心したときに、その警部に相談したところ、転職先にと今の勤務先であるコハダ探偵事務所の所長を、紹介してもらった経緯を説明した。
「まあ、一応はちゃんと仕事してるってわけね。じゃあ、次。彼女はどんな人?」
 孝司はスマホを取り出すと、写真のアプリをタッチして彼女の写真をペコに見せた。
「うううむ。まあ。顔は可愛いわね。ギリギリ合格点」と表情を変えずに、じっと写真を見ている。
「どんな性格なの?」
「答えにくい質問だなあ。まあ普通の子かなあ」
「普通って?」
 ううむ、と孝司は腕組みをして天井を見上げる。
「やさしい性格ではある。とてもおれを好きでいてくれている」そう言って顔を赤らめて、ペコから顔をそらした。
「まあ、それはそうでしょうよ。結婚するんだから」と平板な声で言って、ペコがスマホを返そうとした途端、スマホがブルブルと震え出した。驚いたペコの手から、スマホはゴトンとテーブルにすべり落ちた。スマホの画面には、コハダ所長の名前が表示されている。孝司は急いでそれを拾い上げ、通話をタッチして耳に当てた。ペコはポカンとした顔で孝司を見ている。
「はい。はい。了解です。一時までには伺います」そう言い終えると孝司は腕時計を見た。仕事だ。どうしよう。部屋に戻っているほど時間に余裕はない。今すぐ電車に乗らないと。
「ペコ。おれの部屋にひとりで帰れるか?」
「あまり自信ないな。人間に変身している時は、嗅覚が鈍くなるみたいなんだ。だから匂いを辿って、孝司の部屋の方角に目星を付けるのは難しいと思う」
「じゃ。ここで夜の七時ぐらいまで待ってられるか?」
「無茶苦茶言わないでよ!退屈で死んじゃうよ。もしかして仕事?」
 孝司は閉口して目を閉じた。仕事であることを認めると、この猫娘はきっとついて来るに決まっている。
「仕事なんでしょ!事件?殺し?」
 察しが早い、しかし殺しってこいつ。
親父と母さんと炬燵にもぐって、一緒に並んでサスペンスドラマを見ていた後遺症だ。
「あたしも行く!絶対行く!」
 もう無理だ。孝司はむかし冬に、ダイニングテーブルの自分の椅子に座っているペコをどかそうとしたことがある。しかし椅子はストーブの前にある。いちばん暖かい場所なのだ。「どいてくれ」と椅子を傾けるが、必死に椅子にしっかとしがみつき、場所を譲ろうとしないペコの姿を思い出した。
猫というものは、かなり自我と主張が強いものなのだ。ペコは両手をテーブルの上にそろえて、体を左右に揺らしながら、青緑の目をらんらんと輝かせている。孝司は観念した。


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