第14話

文字数 3,044文字

 源二が切子体験教室をしている時間を見計らって孝司とペコは小林宅をうかがった。
 桃子に仏間に通され、やさしく微笑む静恵の遺影を見ると、孝司は胸をしめつけられた。
「わざわざご足労ありがとうございます。詐欺の実行犯が木戸町で逮捕されたとニュースで見ました。父は詐欺とは関係なかったんでしょうか」
 そう言う真輔の横で桃子が丁寧にお茶を入れ、孝司とペコの前に置き不安げに孝司を見た。
「はい。木戸町で逮捕された実行犯は港東区内でおきた他の金融詐欺にも関与していたと聞いてます」
「じゃあなんで、ここんとこ勝手に出ていっちまうんでしょう。土町商店街にいた目的は何なんでしょう」真輔は組んでいた腕をほどくと乱暴に頭をかいた。
 孝司は意を決し、まっすぐ真輔を見た。ペコが心配そうな顔で孝司の横顔を見ている。
「真輔さん。落ち着いて聞いてください」
「はい。なんだか怖いなあ。あらたまっちゃって」
 孝司は続けた。
「この二週間、お父様と過ごすお時間をたくさんいただきました。一緒にお酒を呑みにも行かせていただいて。心から楽しかったです。しかし、その時間のなかである疑念がずっと頭から離れませんでした」
「どういった?」
「呑みに行かせていただいた時の話ですが。大相撲の話をたくさんしたのですが、三月場所の優勝力士をお父様は憶えていらっしゃいませんでした。最近の人気力士や大関の四股名も。その都度、教えるのですがまた忘れてしまう。最初は酔っているせいだと思っておったのですが、工芸所で同じ話に水を向けると同じように憶えてはいらっしゃいませんでした」
「年を取れば、だれでも多少の物忘れはあるもんなんじゃないの?」真輔は少し顔をしかめてから同意を求めるように桃子に「なあ」と頷きかけた。
「ええ。多少は。わたしも最初はそう思っていました。それがお父様に絵番付を見せてあげるからとここに招かれたときのことです。お茶を淹れてくださったのですが、そのお茶はお茶ではありませんでした」
「へっ?どういうことでしょう?」真輔は両眉を上げて目を丸くした。
「白湯だったんです」
「ばかだなあ親父。白湯出すなんて。孝司さん。そのときは親父が失礼しました」真輔は頭をかきながら苦笑いを浮かべて頭を下げた。
「いえ。それはいいんです。疑問が確信に変わったできごとがあの日の土町商店街での出来事でした」孝司の言葉尻が少し掠れてふるえた。
 孝司はあの日、土町商店街で源二が女房の静恵を待っていたことを話した。あの日だけではなくおそらく今までも。
 静恵が亡くなり引っ越す前まで、土町商店街で静恵と買い物をすることが源二の週末の日常であった。とても楽しく大切な時間であったのだろう。そしてときどき静恵が亡くなった事実を忘れてしまい、土町商店街へと探しに行ってしまう。
「あの日のお父様は忘れていました。お母さまがすでに亡き人であることを・・・・」
 真輔は目を瞬かせて、口を真一文字に結んだ。
「とても言いにくいことなのですが・・」
 真輔は瞼を瞬かせたまま、その目で話の先をもとめた。
「とても言いにくいのですが、お父様は認知症になっている可能性があります」
 真輔は孝司から目をそらした。そして長い沈黙が続いた。
 どんっと畳を叩く音にペコがびくっ、と肩をすぼめた。
 真輔は畳に突き付けた拳を見つめ俯いている。孝司は声をかけられなかった。拳が濡れている。涙だ。しだいにぽたぽたと数粒の涙が拳を濡らしはじめた。肩が小さく震えている。桃子が目を潤ませて真輔の背中をさすっている。
「まさか親父が・・・・あの親父が・・親父・・・・」真輔の声は少しずつ消え入り、やがてすすり泣きへと変わった。
 孝司とペコはうつむいて、真輔が泣き止むのを待った。
 ティッシュで鼻をかむと真輔が顔を上げ、充血した目で孝司を見た。
「孝司さん。私はどうしたらいいのでしょう」
「私は今まで通りでいいと思います。真輔さんも桃子さんも。ただ専門医に診てもらうことをお勧めします。専門家のアドバイスのもと、今までの生活に少し工夫が必要となると思います。あと今後もまたひとりで土町商店街に出かけてしまうことがあるかと思います。木戸町で五郎さんと偶然出くわして帰ってきた日は、帰り道を間違えて迷っていた可能性が高いです。そのあたりの対策も専門家に相談する必要があるかと思います」

 その日の夜。孝司は黙ったままペコのエサ皿にキャットフードを入れ、スマホの画面をちらっと見るとぽいっとベッドに投げおいて、缶ビール片手にベランダへ出て、タバコに火をつけた。
真輔は孝司に言われる前から薄々気づいていたとのことだった。父親の異変に。しかし認めたくはなかったという。いつまでも真輔にとって源二は偉大な父であり切子職人なのだ。ずっとそうであってほしいという切実な願いと希望が、胸の中につよく根をはっている。認知症であることを認めるということは真輔にとってそれを否定することだった。
 今日、孝司の説明を聞いて認知症専門外来を受診することは了承したが、親父には今までどおり切子の体験教室や見学者対応を続けてもらうと真輔は言った。孝司もそれはとてもいいことだと言った。そして一度ゆっくり源二と一緒に静恵との想い出にひたる時間をもってはどうかと提案した。心あたたまる懐かしく愛おしい想い出は、人の心を癒すいちばんの治療薬だ。
 キャットフードを二、三口食べ、水を飲むとペコはベランダに向かって開けはなたれた窓から、孝司をじっと見た。言葉ではなく「にゃあー」と声をかけた。孝司は顔半分ふりかえると小さく微笑んだ。

翌日、真輔は源二に声をかけて母親の遺品の整理をすることにした。三回忌も無事につとめ、あらかた整理は済んではいたが慌ただしい毎日のなか、ゆっくりと母親の遺品の傍らで想い出にひたる時間をもつことができなかった。たしか二つ三つほど静恵の所有物をしまったダンボール箱があったはずだ。
 その中のひとつを開けるとアルバムや手紙、葉書のたぐい、何かを書きしたためたノートが出てきた。その中から一冊のノートを手にとると家計簿&日記とタイトルが書き記されていた。
 源二と顔を見合わせて、真輔がノートをひらくと浅草演芸ホールの入場切符の半券が、はらりと落ちてきた。それを拾い上げると、真輔は微笑んで「小さい頃、よく連れてってくれたよなあ。三人でよく言ったね」と父親にチケットを見せて、懐かしそうに微笑んだ。チケットを源二が受け取り、それを見つめて目を潤ませている。
 そのノートには日付ごとにその日の収支が記入され、レシートが貼られていた。レシートは古びて茶色く日焼けしている。収支の横にはその日にあった出来事が数行書かれていた。真輔は思わず声に出して読んだ。
〈お父っちゃんは八百七の漬物と丸山精肉店のコロッケが大好き。真輔も一緒に買い物にいくと最近かならずコロッケをねだるようになった。親子だね〉
 鼻声で読み終わると真輔はノートを源二にわたした。赤子を抱くようにやさしくノートを受け取り、ぱらぱらとページをめくると二通の封筒があらわれた。あて名は「お母ちゃん」と拙い文字で書かれたものが一通。そして武骨な文字で「静恵へ」と書かれたものが一通。
 昔、真輔と源二が母の日に書いた静恵宛の手紙。封筒も長い時間と想い出をたくわえて茶色く日焼けしていた。父と子ふたりが頭をよせあう仏間の縁側の板の間で、春の風に揺れる桜の枝葉の影と一緒に、木漏れ陽がゆれている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み