第15話

文字数 2,523文字

 少し陽が傾いた日曜日の夕方。孝司とペコは永代橋の欄干にもたれて隅田川をぼんやりと眺めていた。小一時間ほど前に、小出所長に今回の小林源二の調査結果を報告してきた。所長はなんとも切なげな顔で、孝司の報告を聞いていた。認知症であるならばなおのこと、詐欺被害はこれからも危ぶまれると苦い顔をしたため、孝司は成年後見人制度を申し立てることを真輔に勧めたことも伝えた。
 その後なんとなくまっすぐ卯月町に帰る気になれず、茅場町で地下鉄を降りて、永代橋をわたり遠回りして返ることにした。永代橋をわたれば港東区だ。孝司の心の中には源二のうれしそうな笑顔、そして真輔の泣き顔が映画のエンドロールのように繰り返し映しだされていた。
 孝司は永代橋の真ん中で欄干にもたれて、タバコに火をつけた。一服吸うと黙って隅田川の川面を見つめた。
「源二さんはおじいちゃんなのに、なんで成年なの?」、黄金色の髪を元気にゆらして、ペコは両眉をあげて孝司の顔をのぞきこんだ。
「めんどくせえなあ」孝司は隅田川から視線をうごかさずに言った。
「めんどくさいと青年になるの?」
 しつこく顔をのぞきこんでくるため、孝司はからだを反らして眉間にしわをよせた。
「その青年とは関係ないの。一度その青年は頭から出せ。簡単に言うとだな。源二さんが騙されて何かの契約をしても無効になるんだ。源二さんの財産を使って、買ったり契約したりすることは真輔さんにしか出来なくなるようにする制度ってやつだ」
「真輔さんがいれば大丈夫?」
「うん。だいじょぶだ」と少し志村けんの声真似で言うとペコは「だっふんだ」と返した。
「いったいどこで覚えんだよ、そういうの」
「孝司の実家に決まってんでしょ。あっ。お母さんも好きでよく見てたね、あのテレビ」
 孝司はそれには応えずに少し目を潤ませ鼻をすすり、隅田川の川面に目をうつしてしばらく黙り込んでいた―が、やがて何かに気が付いたように、はっとして顔をあげた。
「しかし、成年後見人の申し立てが、法的に完了してからの話だから気は許せない。源二さんが木戸町で五郎さんと鉢合わせて帰ってきたときは、たしかに道に迷っていたにちがいない。このままだと木久扇師匠のネタになりかねない。徘徊になっちまう。ペコ!土町商店街に寄ってから帰るぞ!」
 林家木久扇師匠が、帰り道がわからなくなるのはあくまでもネタだ。今後はわからないが。 
「最初っからそのつもりだったんでしょ?たい焼き買ってね」とペコは手を招き猫にすると、すばやく身をひるがえして走り出した。
 土町商店街通りのアーチの前に来ると孝司は腕時計に目をおとした。十七時四十五分。笑点の大喜利がはじまる時間だ。
ペコにせかされ、少し歩くと八百七の前に来た。孝司はペコの様子をうかがうことなく、矢庭にべったら漬けを注文した。驚いたペコは「何してんの!源二さん探しに早くいかなきゃ!」と強く袖をひいた。
「あら!可愛らしい彼女!お漬物好きなの?」と八百七の女将がペコに微笑みかけた。
「いや彼女じゃないっす。従妹っす。日米のハーフ。漬物はおいらが。目がないんもんで」と孝司は頭をかいた。
「じゃあ従妹の可愛いお嬢ちゃんには、このバナナをサービスするわね。ひと房まるごと持ってって。お代はいいから」
 大きく見開かれたペコの目がそのバナナに食いついた。
「そんな!もったいない。払いますよ」孝司は両手を開いて遠慮した。
「いいのよ。古いから。ほら、皮がくたびれて茶色いでしょ?皮むいてミキサーにかけて、バナナジュースにするといいよ」と女将は手際良く、べったら漬けとバナナを袋に入れるとペコににっこり笑いかけた。
「ありがとうございます」ペコは、首を横に傾いでにっこりと女将に笑いかえした。
「まあ。なんとめんこいこと。こんだけ可愛ければハリウッドもほっとかねえべ。もし女優さんになって、有名になっても八百七に来てね」
 女将はそう言ってペコの頭をやさしく撫でた。孝司は源二がなぜこの商店街が好きなのかわかるような気がした。
 八百七を出ると商店街のスピーカーから、安っぽいシンセサイザーが奏でるメロディーが聞こえてきた。
今日は「別れの曲」ではなかった。ギルバートオサリバンのアローン・アゲイン。ぼうっと聞き入る孝司の袖をひいてペコが「源二さんが木久扇師匠になっちゃう。孝司!急ごう!」と先をせかした。
 揚げ物の香りが濃厚になってくると、丸山精肉店のテントが見えた。昨日、源二が座っていたベンチに目をやると、やっぱり源二が座っていた。しかし、よく見ると源二の両脇にだれかが座っている。孝司とペコは揚げ物を買いに行くふりをして丸山精肉店のフライヤーに近づきながら、さりげなく横目で、源二のほうを見た。
源二の両脇には真輔と桃子が座っていた。三人はコロッケを食べながら、楽し気に笑いあっている。
「お呼びじゃなかったかしら」、ペコは両眉をあげて顔をほころばせた。
 孝司は目を潤ませて、安堵した笑顔を浮かべていた。
「いいんだよ。ずっとお呼びじゃなくて。とにかくだな。正しい。実に正しい家族の風景だ。ミート・ザ・ハートビートだ。丸山精肉店は正しい」  
 そう言うと孝司は人さし指で鼻の下をこすり、丸山精肉店のフライヤーへと踵を返した。
「言ってる意味が隅から隅までさっぱりわかんないわ」とペコはしぶい顔をして孝司と一緒にフライヤーの前にならんだ。
 土町商店街通りの時計塔の影が長くなり、商店街通りは蜜柑色の夕暮れのなかにいる。スピーカーからはギルバートオサリバンのメロディー。高齢にになった家族三人が、仲よく並んでベンチに座り、コロッケを食べながら笑いあっている。その前では孝司が、缶ビールを片手にうれしそうにその家族に話に耳を傾けている。ペコは、たい焼きをかじりながら孝司のとなりで笑っている。その横を小学校三年生ぐらいの男の子が、両親と手をつなぎ合わせて満面の笑顔で通りすぎ、寿司屋の暖簾をくぐった。その家族の姿は昔の真輔と源二と静恵のようであった。いやみんなそうなのだ。それぞれの家族の風景は、永遠に生き続けていくものなのだ。

* 次回より、次の章が始まります。4月4日更新予定です。お楽しみに!

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