第8話

文字数 4,277文字

2  手紙 ~家族の風景~

 春の訪れを告げるやわらかい朝の光が、日曜日の仏間を白く染めている。仏壇のリンの音が静まると、源二は合掌していた皴が目立つ節くれだった手をゆっくりと離し、正座をといた。そして、食卓に向きなおり座布団にあぐらをかいた。
そして額から少し薄くなり、短く刈り込まれた白髪の頭をかきながら、食卓に並べられた朝ごはんのおかずを見回す。鯵の味醂干し。目玉焼き。大きめの器にはかき混ぜられた、三人分の納豆。
「おっ。八百七の漬物か?」と漬物皿に目をやる。
 今年、齢六十の半ばになる息子の真輔は、それには応えず、「親父。今日は休みなんだから耳の鉛筆はずしなよ」と言って箸を持ち、いただきますと手を合わせた。
「お。いけねえ、いけねえ。そうか休みか」と源二は耳の上にはさんだ鉛筆をつまみとった。
「お義父さん。ごめんなさいねえ。八百七までは少し遠くて。お漬物は近くのスーパーで買ったの」と真輔の女房、桃子が眉を八の字にして軽く頭を下げた。
「いや。いいんだ。いいんだ。桃子さん。気にしなさんな。ささ、いただこうじゃないか。桃子さん。毎日ありがとうな」と源二はやわらかい笑顔を浮かべて味噌汁のお椀を手にとり、ひと口すすった。
「親父。おれたち夕方までには帰るから」
 源二は応えない。
「親父。聞いてんの?」と真輔は少し声を大きくした。数年前から源二の耳は遠くなってきた。
「えっ?」
「やっぱり聞こえてないか」
「ばかやろう。聞こえてるよ」と源二は少し眉間にしわをよせた。
「夕方までには帰るから」
 真輔はそう言って納豆の器を手に取り、白飯の上に納豆をかける。
「どこ行くんだ?桃子さんも行くのか?」
「また聞こえたふりしてたの?日本橋で江戸切子の展示販売会があるから、挨拶に行くって言っただろう?三回ぐらいは伝えたよ?聞こえてなかったらちゃんと聞きなおしてくれよ」、と真輔は少し苛立った声で言うと乱暴に納豆飯をかきこむ。真さん、と桃子が真輔を肘で軽くついて目顔で、気持ちを抑えるようにと訴えた。
「うちの工芸所の作品もたくさん展示されるし、親父の跡目四代目として、初めて挨拶するから緊張してるんだよ」
「あっ。そうだった。そうだったな。ごめんよ真輔。組合の皆さんによろしく言っとくれ。源二は元気にやってると」
「ああ。わかった」
「それと笑点が終わるころまでには帰ってくるよな?晩飯が遅くなると生活のリズムがくるっちまう」
「親父こそ。出かけるのはいいけど遅くならねえようにな。先週みたいなことはやめてくれよ」
 先週の日曜日。源二は外出して帰宅する時間が笑点どころかサザエさんが終わっても、しばらく帰って来なかった。そのため真輔夫妻はたいそう心配したのであった。
「お、おお。わかったよ」と言って源二は両眉を上げて何かを探すように天井を見た。
 源二は来月八十二歳の誕生日を迎える。江戸切子の職人を長きにわたり生業として、生涯現役を志してきた。
しかし一昨年に発症した軽い脳梗塞の後遺症で、両手の緻密な動きを奪われ、引退という苦渋の決断を強いられた。幸いなことに一人息子の真輔は、源二ゆずりの職人肌の努力家で、懸命に修行に励んできてくれた。そして立派な四代目として、小林硝子工芸所の跡目を継ぐことができた。
 引退は不本意ではあったが、源二は真輔の成長と成熟を心から喜んだ。そして今は自分の作品を作ることではなく弟子たちの指導、そして見学客の対応や体験客の指導に精をだしていた。今は江戸切子という伝統ガラス工芸の魅力と素晴らしさを、より多くの人びとに知ってもらうことに、新たな生きがいを感じるようになっていた。

 孝司は、無造作にはねた黒いざんばら髪をかくすようにダービーハットをかぶり、皮のシングルライダースジャケットを羽織り、玄関で前かがみになって、エンジニアブーツにジーンズの裾をかぶせている。
ずいぶんとめかし込んじゃって。フィアンセとデートかなんか?
ペコは両前足をそろえて廊下に座り、孝司をじっと見ている。
「おめえにゃ関係ねえだろ」
お帰りは何時ごろで?とペコは片方の前足を上げて軽く毛づくろいしながら言った。
「わかんねえ。たぶん遅くなる」
あたしの晩ごはんは?ペコの目は大きく見開かれ、上げられた前足はまさしく招き猫のそれだ。
「キャットフードを足しといたよ。皿を見てみろよ」
足りるかしら?
「足るを知れ」
 孝司は裾を整え終わると、体を起こして鍵を手にとった。ペコは孝司の足もとに行ってドアに目をやった。
今日はいい天気だよね。
「ああ。でなんだ?」
あたしも外出したいな。歳三さんの一件からこっち外に出てないし。
「卯月町町内だけなら許可する。リュック持ってこい」、孝司はしぶしぶ答えた。
がってんだ!
 ペコは幼児のような足音をたてて部屋にかけ戻るとリュックを引きずってきた。孝司はリュックのポケットにスペアーキーを入れてからペコの背中にリュックを背おわせる。外に出てドアに鍵をかけると孝司はしゃがみこんでペコの目をみた。
「窮鼠猫を噛むって言うだろ」
言うの?知らない。
「言うんだよ。とにかくだな。油断するなよ。外には危険がいっぱいだからな。特に車には注意しろよ。はねられないようにな。ほかの猫に追っかけられたらどこかに隠れて人間になれ。着替えはリュックに入ってる」
もしかして心配してくれてるの?ペコはピンク色の肉球を孝司の膝にぽんっとおいた。ふんっと鼻を鳴らして孝司は立ち上がり卯月町駅に向かって歩き出した。
 日曜日の午前中。駅に近づくにつれて人も賑わいだしてきた。リュックをしょった猫を連れて歩く孝司の姿は、周囲の人々の目に珍妙な光景として映っている。しかし、この状況に慣れてきた孝司はすでに意に介さなくなっていた。
 駅前のタクシーロータリーに来ると、孝司はしゃがんでペコの顔をじっと見て、「夕方になると交通量もふえるから日が傾き始めたらそこの公衆トイレで着替えて帰るんだぞ」と拳でペコのアゴをかるく押した。ペコは目を細めてニャーと応えると身をひるがえして走っていった。

 その日の夕暮れ時。
真輔と桃子が、工芸所に隣接した自宅に帰ると源二の姿はなかった。代わりに弟子の五郎が庭にむかって仏間の縁側に浅く腰をかけ、タバコを吸いながら留守番をしていた。
「おかえりなさい師匠。いやあ夕方になってもあまり冷えませんねえ。暖かくなりましたなあ」と呑気な顔でにやにやしている。
「親父は?」
「いやね。おいら午後からずっと工芸所にいたんです。ちょっとやっておきたい作業がありましてね。作業ってのは一昨日に仕上げた切子のデザインが、どうも気に入らなくなっちまいましてね。となると休みだけど居ても立っても居られなくなる。それというのも昨日の夜に見た映画が良くなかったのかなあ。いや。良かったんですよ、結局。おいらに気づかせてくれたわけだし。映画はコメディなんですよ?意外でしょ。師匠はご覧になられたことあります?アメリカの有名なコメディアンの映画。面白いし泣けるし。タイトルはですね」
「五郎!」
「へい?」
「おれは親父は、どこに行ったんだと聞いたんだ。映画の話は聞いてない!」
「あっ?そうでしたね。こいつぁ失敬失敬。親方ね。はいはい。えっとですねえ、デザインの修正がひと段落してタバコを吸いに外に出たんです。三時過ぎだったかなあ。ひょいと師匠のお宅のほうを見ると親方が玄関から出てくるのが見えたもんで、親方どちらへ?と伺ったんですがね。ちょっとそこまでと言って歩いて行っちまいましてね。へへっ。今日、真輔師匠が日本橋に行っているってのは存じておりましたのでね。ええ。留守は不用心だと思い、お宅をのぞいてみると鍵がかかってない。こいつぁあ、いけねえ不用心だとこうして留守番していたわけでございます。へい。しかし、どこ行っちまったんでしょうなあ。親方は」
 五郎はいつも落語家のように愉快そうに話す。この男は三十半ば。容姿は昭和のアイドル歌手のようにハンサムではある。しかし浮世離れどころか、浮世を知らないほど徹底したマニアのような、得体のしれない気味悪さを持ち合わせている。
弟子にしてかれこれ十年。腕は確かで五郎の作品の評判はすこぶるいい。興味を持つと徹底的に調べて学ぶため博識でもある。職人としては申し分なく、むしろ理想的な人間と言ってもいい。
しかし、まったく商いというものには興味がない。自分の作品の値段にも興味を示さない。さらに金勘定に疎い。去年、競馬について調べ始め、馬や騎手について多くの知識を得ては競馬中継を見ていたことがあった。そして、一度自分でも賭けてみようとレースに出かけたのだが、年末のボーナスをすべて擦って帰ってきた。
落ち込むかと思ったのだが勉強不足だったと反省している始末。
「師匠。おいらはまだまだ修行が足りない。来年はもっと競馬について学び、良い結果を残せるように頑張ります」と真剣な顔で言われて、真輔は返す言葉がなかった。
 点けっぱなしのテレビ画面の中では、それぞれ七色の着物を着た落語家たちが、画面に向かって正座している。
黄色い着物の林家木久扇師匠の満面の笑顔を中心に、カメラに向かって「また来週!」と皆で手をふっている。
番組がちょうど終わったところだ。真輔はテレビ画面を睨むと、「言ってることとやってることが違うじゃねえか」と苛立たし気にひとりごちた。
「えっ?小遊三さんですか?たしかに綺麗な答えを言いますと言っておきながら、下ネタを言ったりしますもんねえ。それとも円楽さん?不倫しちゃあいけませんよ。うらやましいけどね。へへっ。おいらももてたいなっ!なんつって。へへっ。あっそうそう。そうだ。師匠。木久扇師匠の木久蔵ラーメン食いに行きませんか?不味い不味いって評判の。へへっ。代々木で食えるらしいっすよ。不味いってのはネタで言ってるだけで、そこそこ旨いはずですよ。へへっ。あっそうそうラーメンといや門仲の」
「五郎!少し黙っててくれ」と真輔は無駄に長い五郎の話の腰を叩き折った。五郎は目をパチパチさせて口を閉じた。
「親父だよ。親父。まったく、どこに行ったんだか。笑点が終わるまでに帰って来いって言ったのは親父じゃねえか」
「ほんと、どこ行っちまったんでしょうなあ。あっ、もしかすると。コレ?」と五郎は小指を立てたが、真輔に睨まれるとうつむいて小さく舌を出した。





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