第7話

文字数 6,709文字

 翌日、コハダ探偵事務所では小さな緊急会議が開かれた。篠宮警部にお願いして調べてもらったところ、芝浦埠頭駅の防犯カメラにサングラスをかけた川崎紗耶香と思われる女性が映っていることがわかった。歳三さんの事故があった日の事故直後の時間帯の映像だ。ハンカチで手を押さえている様子から、手に傷を負っていることが考えられる。
売れっ子芸能人であれば事務所の車やタクシーで移動するほうが自然だ。事故に関与している可能性は濃厚だ。

「まだ任意で引っぱるには材料が少ねえなあ。孝司。ほかに何か気になることはねえか?」
 小出所長がオフィスチェアに深く背をしずめて、ブラインドのほうに目をやった。孝司とペコは向かいあって応接用のモスグリーンの布張りのソファに浅く座り、例の名刺の拡大コピーを見つめている。
「川崎紗耶香が疑わしい人物であるのは間違いない。しかも名刺の裏に書かれた唄のタイトル」孝司が腕組みをして大きく息をはいた。ペコは名刺裏のコピーを指さしてから、天井をあおいで言った。
「嘘だと言って」
「おのれが嘘ばっかりついてきたような女に言われたきゃねえわな」
 ふんと鼻で笑い捨てる。
「なんで人気あるの?」とペコが首を傾げる。白いブラウスを着て孝司の紺色の笑点手ぬぐいを、ネッカチーフ代わりに首に巻いている。ペコがすると手ぬぐいには見えない。所長がオフィスチェアをペコのほうに回して言った。
「綺麗だから」
「うーん。嘘をつかれてもわっかんねえかもなあ」と孝司が大きく頷く。
「だまされたことあるの?」ペコが上目づかいに孝司の顔をのぞきこむ。孝司はそれには応えず名刺のコピーを手に取って、ペコに見せて言った。
「ペコ。この名刺の住所の周辺を調べていたときに何か気になったことはないか?なんでもいい。思い出せ」
 ペコは両手を膝の上にのせて肩をすくめた。
「とにかくうるさかっただけ。あたしの聴力は並外れてるの。聴こえすぎちゃうの。あの辺はうるさかったなあ。頭ががんがんした」
「記憶力のほうはどうなんだ」
「猫の額を思い出してよ」
「うめえこと言いやがんなお嬢ちゃん。いや仔猫ちゃん」と所長はオフィスチェアを揺らして笑う。
「猫の額ほどか?ペコちゃん。そんなこたあねえだろう」
 孝司はびくっとして、「いや本当の猫なんだよ所長」と孝司は心の中でひとりごちた。
確かにペコいや猫の聴力は尋常ではない。子どもの頃、両親と買い物などに出かけた帰り、玄関の引き戸を開けると必ず上がり框にペコが前足をそろえて座り、出迎えていた。家に近づいてくる孝司たちの話し声や足音を聞き分けて「帰ってくる!」と出迎えてくれているんだということは、中学生ぐらいになると想像できた。とにかく耳がいい。
そんなことを考えているとピンときた。ペコは何がそんなにうるさかったのだろう。
「ペコ。うるさくて仕方なかったってことだけど、そのうるさい音はどんな音だった?」
「音?うーん。なんて言ったらいいんだろう・・」と頭を抱える。
「無理に言語にしなくていい。音で表現してみろ」
「ええーっとね。ジャララララララー!ジャララララララー!って音が目立ったな」
「あとは?」
「うん。チンッ!ピロロロロロロー、ビーロービーロービーロー」
 目を大きく見開き、口をとがらして、一生懸命に表現しているペコを見ていると、孝司はだんだん可笑しくなってきた。片方の口の端が少しひきつっている。
「あとは?」笑いをこらえているため唇と声がふるえる。
「このぐらいかなあ。ちょっと何笑ってんの?」ペコの上瞼が直線になる。
「いや別に。そうかあ・・・・」と孝司は腕を組みなおして顎を引いた。
「あっ。そうそう!〈嘘だと言って〉が聞こえてた」
「どういうこと?」
「塀の上で周囲の様子を観察してたら、あの歌やさっきの音が聞こえてきたの。それで塀から広い場所に飛びおりて、音が聞こえて来る派手な建物のほうへ近づいて行ったの。そしたらもう、うるさくてうるさくて。ほかの唄や音楽も流れてたな。ああいう建物、こないだもコマーシャルでやってたよ。何屋さんって言うの?」
 孝司は腕を組むと目を閉じてしばらく考え込んだ。
「パチンコ屋?名刺の住所地近くのパチンコ屋の・・・・パチンコ?P?」
孝司は目を開けると小出所長の顔をふりかえった。
「そういうこった。お手柄だよペコちゃん」と小出所長はにっこり笑ってタバコのパッケージから直接一本くわえた。
「どういうこと?」ペコが目をパチクリさせている。
「符丁ってやつだペコ。覚醒剤売買のための秘密の合言葉ってやつ。名刺の裏のメモにはなんて書いてある?」
「嘘だと言って」
「川崎紗耶香の歌の題名のことだ」
「PPは?」
「ふたりで行った名刺の住所地近くのパチンコの頭文字のP。もうひとつのPはおそらく駐車場、パーキングのP。覚醒剤売買の指定場所ってことだ。所長!」孝司は立ち上がり、小出所長を真っすぐ見た。
「わかってるよ。篠宮によると川崎って女は以前から組対五課が目をつけていたって話だ。まずはそのパチンコ屋を特定してから篠宮に話してみよう」

 翌日の夕方。ネットニュースから新聞各社すべての一面に<覚醒剤で川崎紗耶香逮捕!嘘だと言って!>の見出しが大きくおどった。 
記事によると警視庁組織犯罪対策部が、女優で歌手の川崎紗耶香に任意にて指紋採取を求めたところ、芝浦埠頭の首都高速道路高架下で起きたタクシー事故の車両から、発見された覚醒剤のパケットに付着していた指紋と一致。パケットは自分が落とした物と認めたためその場で逮捕。また川崎の自宅を家宅捜査したところ覚醒剤および違法薬物が見つかった。タクシー事故については速度違反と、信号無視を川崎がタクシー運転手に強要したことによるものであることを自白したため、タクシー事故についての取り調べと再捜査も始まったとあった。
 小出所長はデスクに広げた新聞記事を指先でとんとんと軽くたたくと、タバコをくわえマッチで火をつけた。ハイライトの銘柄のパッケージが丁寧に灰皿の横に置かれている。機嫌がいいのだ。仕事が順調であったり何かいいことがあったりするとハイライトを買う。普段はマイルドセブンの軽いやつだ。
孝司は所長の機嫌がいいことがわかると、微笑んで自分もタバコを一本くわえて、「コーヒー淹れますね」とキッチンにむかった。その背中にペコが「あたしはカルピス!」と言った。喫茶「如月」で最近飲んでからカルピスは、ペコのお気に入りとなった。
「ふたりともお手柄だったよ。これでまた桜田門に貸しをつくれた」
 所長は目を細めて旨そうにハイライトをふかす。青い煙はゆっくりと漂い、ブラインドのすき間から洩れる夕陽の色に染まっていく。
「現金で返してくれるといいんですけどね」
背中を向けたままそう言うと、孝司はドリップケトルを火にかけるまえにその火でタバコに火をつけた。
「しかしなあ。川崎紗耶香がねえ。数年前にバッシング受けて、清純派でやり直そうとして、うまくいきかけていたのにバカな女だ」
 孝司は川崎紗耶香を吹き飛ばすかのように、勢いよく煙をはいた。
「川崎の覚醒剤使用歴は長いようだ。芸能人にになってからだな」
 所長は面倒くさそう言ってから、おれのコーヒーは砂糖は抜きで、付け加えた。最近、お腹の脂肪が多くなったのを気にしている。

「さっき篠宮から聞いたんだが、例の名刺は売人ではなく仲介者が使っていたんだと。仲介者は客と直接会って薬物のオーダーを取り、取引場所と日時を決める。そして売人にオーダーを伝え、同じメモを書いた名刺を渡す。メールやSNSは薬物の隠語という証拠が残るし足が付きやすい。そこへ行くと仲介者という伝書鳩がいれば、証拠も残らないし足が付きにくいって寸法だ。こう利便性の高いネット社会ではこういう古典的な取引方法が有効なのかもしれんな」
「仲介者はしょっ引けそうなんですか?そうすれば売人も引っ張れる。川崎は口を割ったのかな?」
ドリップケトルの中の湯が沸騰し始めたため、孝司はガスレンジの火を消して冷蔵庫からカルピスの缶を取り出してペコに渡した。
「ああ。簡単に口を割ったが、その人物の身元特定には至ってないそうだ」
 孝司は腕組みをして、キッチンにもたれた。
「当然偽名」
「まあな。だが取引場所であるパチンコ店は、店内で売人と仲介者が密通していた可能性も考えられるから今やっきになって捜査中だ」
「歳三さんは麻薬取引に関わったりはしてないよね?」とペコはカルピスの缶のプルトップを歯で開けようとして孝司に取り上げられた。
「いや。巻き込まれちまったんだよペコちゃん。まったくもって不憫極まりねえ」所長はうつむいて軽く鼻をすすった。
通常ヤクの受け渡しは、駐車場で客の自家用車の車内で行われていた。だが川崎は免許を持っていなかったため普段からヤクの受け渡しにタクシーを利用していた。
「たまたまあの日、歳三さんのタクシーは川崎って不逞な女につかまっちまったってわけよ。普通に客として乗ってくれてりゃいいもんを、パチンコ屋の駐車場に停めさせられて後部座先に乗り込んできた輩と何やらひそひそ始めやがった」
何が行われているかがわかった歳三さんは、激高して売買を妨害しようと川崎の手にあるシャブのパケを車外に捨てようともみあった。
「指紋はそのときについたようだ。まったく。不運としかいいようがねえ」そう言い足してから、小出所長は浮かくため息をついた。
「事故に至った経緯は?」孝司はブラックコーヒーを淹れたマグカップを小出所長のデスクに置いた。
「運転席と後部座席で揉みあっていても、埒が明かないと思った歳三さんは降りてくれと後部座席のドアを開けて、空車の表示を出した。もとよりシャブで自制心を失っている川崎は、売人だけ外に出すとナイフで歳三さんを脅して車を出させた。ゴジテレビで収録があるから、お台場にむかえと。首筋にナイフを当てられながら無謀な運転を強いられたら、そりゃ事故も起こすよ。事故直後、川崎は当然通報することなくドロンさ。動揺していたためシャブのパケを忘れたらしい」
 ペコはうつむいたまま孝司の手からプルタブが開けられたカルピスの缶を受けとった。
「歳三さんかわいそう・・・・真希さんも。なにも悪くないのに」
 うつむいたままのペコの目から何かがポタポタと落ちている。孝司は驚いて気付かれないようにペコの顔をそっとのぞいた。目から液体が流れ落ちている。涙だ。ペコの涙。
孝司は見なかったことにして「飲みなよカルピス」とぶっきらぼうに言った。昔、うっかりトイレをしているペコを見てしまったときと同じ気まずさをおぼえたが、何やら胸の奥の一部分が熱くなるのを感じた。自然と手のひらはペコの頭にやさしくのせられていた。
「ペコちゃん。孝司。真希さんには電話で事情を伝えた。明日、ご挨拶に来られるって。泣いていらしたがお二人にありがとうって伝えてくださいってよ」所長はオフィスチェアをクルっと窓のほうへ回して鼻をすすってハイライトを一服吸った。

「なんでそれが乗客の落とし物じゃなくて、歳三さんのもんだってわかるんだよ」
 隅田川は春の陽光を受けて川面を輝かせている。ふたりは墨田区にある歳三さんのタクシー会社で、事故車両に残されていた落とし物を預かり、散歩がてら隅田川沿いを浅草駅へと向かっている。落とし物の確認者は真希さん。ペコはそう言って譲らなかった。これからコハダ探偵事務所に挨拶に来る真希にこの落とし物を確認してもらうのだ。ペコはこれは落とし物ではなく、歳三さんのものだと言い張る。
吾妻橋をわたり始めると自転車に乗った少年が猛スピードで向こうから走ってくるのが見えた。背中に釣り竿を背負っている。おかっぱ頭を左右に揺らし少年は鼻息荒くふたりの横を通り過ぎて行った。
「あの子、何背負ってたの?」午後の明るい陽光のなかペコの青緑の瞳は、いっそう明るく輝いている。
「釣り竿だよ。魚を釣るんだ。そうかあ、もうそういう季節か」孝司は目を細めて眩しそうに少年の後ろ姿を見つめる。
「うらやましい話じゃないの。教えてほしいなあ」と金色のくせ毛を賑やかに揺らす。
「そういやお前。ここにやって来てまだ食べてなかったな。魚」
「父ちゃんの寿司屋連れてってよ」
「だめだ。ややこしくなる」
「なんで?」
「どうやって説明すんだよ!まさか所長に言ったように従妹と言うわけにゃいかねえだろ」
「じゃあ、猫の姿で行く」ペコは手首をまげて腕を猫のようにかかげてみせた。
「そのほうがややこしいだろ!腰抜かして寝込んじまうよ。ペコが生き返ったって」
 孝司はそう言うと少年の後ろ姿を見送った。
「しかし、あの少年。どっかで会ったような気がすんだよなあ」
「どこで?」
「わかんねえ。どこだったかなあ・・・・」

 ソファに浅く腰をかけた真希と母親は深々と頭を下げて孝司と所長、そしてペコにお礼を述べた。
「やめてください。お二人ともお顔をあげておくんなさい。しかし、歳三様のことにおかれましては誠にご不幸なことで、改めて心よりお悔やみ申し上げます」、所長がそう言って頭を下げると孝司とペコもそれに倣った。
「それと真希さん。うちのペイ子助手が、どうしてもあなたに御確認いただきたいものがあるということなので、少しお付き合い願ってもよろしいでしょうか」
 真希は顔を上げると目を瞠り、ペコの顔を見あげた。ペコは微笑んで、胸に抱いていた綺麗にラッピングされた長方形の小さな箱を、両手で真希に差し出した。
「開けてみて。きっとあなたへのプレゼントだから」
 金色のくせ毛を揺らし、真希に微笑みかける。
「どういうことでしょう?」首を傾いで真希はそれを受け取った。
「開けてみたらわかるわ」
 ペコと孝司と小出所長が、優しく真希を見守る。
 戸惑いながら真希は、もう一度目顔でペコに確認を求めた。ペコは大きく頷いてそれに応えた。
 真希はゆっくりと丁寧に、ラッピングされた桜色の包装紙をはがしていく。すると箱の上にメッセージカードが現れた。カードに書かれた文字を見てすぐに、真希は誰の字であるかを理解した。その字は大好きなお祖父ちゃん、歳三の字であった。カードにはこう書かれていた。

真希。卒業おめでとう。そして大学入学おめでとう。おまえは本当に心根がやさしく誠実な子だ。じいちゃんの宝物だ。ずっと応援しているよ。祖父、歳三。

 真希の肩が小さく揺れた。涙がぽたぽたと、膝の上に落ちていく。
 箱のふたを開けると淡い水色の万年筆が入っていた。白い文字でMAKIと刻銘されている。真希はそれを取りだし、胸に抱きしめると「おじいちゃん」と肩をふるわせて声を出して泣きはじめた。母親は「お父さんったら」と声をふるわせ真希の肩を抱き寄せた。
 孝司は目をうるませて、ペコの顔を盗み見た。ペコはトーストの上のバターのように暖かくとろけるような微笑みを浮かべ、真希を見つめていた。

 卯月通り商店街の夕方は賑やかだ。日も長くなり買い物客の表情も明るい。今日は夕食の食材を買って帰ることにした。お手柄だったんだからというペコのおねだりによって、今夜はお刺身にすることになった。
「この季節はさ。あの赤い身の魚でしょ?」
「初ガツオのこと言ってんのか?贅沢言いやがって」と苦い顔の孝司。
「真希さん悲しそうだったけど喜んでくれたね」
「うん」そう言って孝司は真剣な顔でペコの顔を見た。
「あのラッピングされた箱が、真希さんへのプレゼントだって最初からわかっていたのか?」
「なんとなくね。桜色の包装紙。真希さんの卒業と入学。春の予感よ」そう言って、いたずらっぽく首をかしいで微笑んだ。
 ヤクの売買の符丁と、春の予感か。予感を信じてきたペコが正しい。
「なるほど」
感心したように孝司は頭の後ろで腕をくんで、暮れはじめた空を見あげた。
「大切なお孫さんへのプレゼント。ちゃんと直接手渡したかっただろうなあ、歳三さん」ペコの表情が少し曇った。
「いや。歳三さんも喜んでくれてると思うよ。ペコのおかげでちゃんと真希さんに届けることができたんだから」
孝司はペコから顔をそらして鼻をすすった。ペコは小さく微笑むと顔をあげた。するとすぐに表情に灯りがもどった。
「ねえ!見て孝司!卯月鮮魚店に鰹が一尾出てるよ!」そう言い放つとペコは夕陽にやさしく浮かび上がる鮮魚店の店先に走り出した。
「ちょっと待てよ!おい!一尾買いは高けえし多いよ!食いきれないってふたりでは!え?あれ?ふたり?一匹?」
 孝司は頭をかしげると夕暮れ色に染まったペコのブラウスの後ろ姿を追って、かけ出した。
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