第1話

文字数 4,249文字

序章
                                                                 

 三月は嫌いだ。
 少しふらつく。飲みすぎた。まったくもって三月ってやつは思わせぶりで苦手だ。女心とよく似ている。三寒四温。寒いんだか暖かいんだかはっきりしてくれよ。冷たいのか、やさしいのかはっきりしてくれよ。
孝司はふらつく足を止めて、桜の木を見上げる。つぼみが膨らんでいる。もう花びらをひろげ始めている気の早い桜も二三ある。昨日までは寒かった。しかし今日は暖かく、夜の帰り道にマフラーは要らない。酔い覚ましに皮のハーフコートの前を開け放っているぐらいが丁度いい。
しかし気候とは裏腹に、孝司の心には、冷たく乾いた風が吹いていた。去年のクリスマスイブに婚約した裕子のことだ。
久しぶりに二人で食事をしたが、帰り際に結婚準備のことで口論となってしまったのだ。そして、結局わだかまりを残したままの、帰り道となった―というわけだ。
可愛く穏やかな裕子と、自己主張と私欲が強くなり、冷たい態度を取る裕子。婚約してからこれまで、この二人の裕子が三寒四温と同じように、孝司を悩ませていた。
 アパートの部屋に入るなり、孝司はコートを脱ぎネクタイをほどくと、そのままベッドに倒れ込んだ。酔いも手伝い、すぐに眠りに引きずり込まれた。
 午前三時を回ると、さすがに底から冷え込んできた。孝司は薄目をあけて毛布を肩まで引き上げる。なんだ?重い。なんか乗っかっている。ぐいっと引き上げて、妙な具合に気が付いた。足元が暖かい―ゴロゴロと音がする。寝ぼけてはいるが毛布に乗っかっているソレが、物ではないということに気づいた。薄目をほんの少しあけてソレを確認しようと、ひょいと頭を上げた。
 そんな―いや、ないないない。
孝司はテレビの心霊番組を見ている時のように苦笑して、ソレを見ていた。しばらくして、自分は寝ぼけてでもいるのだろうと思い、また横になった。
しかし、なかなか寝付けない。しかし眠い。孝司は何度も寝苦しくて寝返りを打つ。まだ足もとには異物感がある。思いとは裏腹に、どんどん頭が冴えてくる。
孝司は思い切って起き上がり、目を擦ってソレを確認することにした。
そして目と口が開きっぱなしになった―
ソレは白い洋種の猫だった。孝司が大学生のころに亡くなった、飼い猫のペコだった。ゴロゴロと喉を鳴らし、前足に頭を乗せて眠っている。
夢だろうか・・孝司は試しにその白いソレに、「ペコ」と呼びかけてみた。ソレは顔を上げた。そして青を中心に緑みがかった目で、じっと孝司を見ている。そして小さくニャーと鳴いた。そのあと口が裂けんばかりの大きなあくびをして、また前足に頭を伏せて眠りに戻った。ピンク色の舌をしまい忘れている。 
飲みすぎたかなあ。孝司は少し真顔になってひとりごちた。ソレのあくびにつられたのか大きなあくびをして「いや。ないない。夢だ。夢だ」と独り言ちて、毛布に顔をうずめた。なぜか今度はすんなり眠れた。
 三月の日の出は賑やかだった。カーテンを閉め忘れたせいで、部屋の中は白い朝の陽射しに満ち溢れている。孝司は起き上がると、眩しげに目をこすった。まだ眠い。
昨夜の裕子との一件を思い出し、またくさくさしてきた。きっとそのせいだ。悪酔いして変な夢を見ちまった。今日が日曜日であることに気づき「思いっきりだらだらしてやるっ」とカーテンを閉めた。よし、もう一度朝寝だと毛布をめくろうとして目を疑った。降りる駅を間違えたときのように、ここはいったいどこなんだろうと現実感を失った。
部屋の中を見回してから、もう一度毛布の上に視線を戻した。
 夢の中に出てきた白いソレが、今もそこにいる。
孝司はすっかり目が覚めて、目を見開いて、パチパチと何度も瞬きをした。そしてあらためて、それを凝視した。
ソレが顔を上げて、大きなあくびをする。犬猫が大きくあくびをするときに、口の中に可愛げのない牙がのぞき「普段は可愛いが、こいつはやっぱり獣なんだな」と自覚するあの感覚。久しぶりだ。
 孝司は落ち着こうと大きく深呼吸した。そして、この白い猫は知らないうちに、どこから忍び込んだのだと思い、部屋の中を見回した。しかし窓は開いていないし、もちろん玄関は閉められて鍵がかかっている。
「おい」
小さく猫に呼びかけてみる。白い猫も小さく「にゃー」と鳴いて孝司の顔を見上げた。そしてその後に、おはよ孝司、という女の子の声が、音ではなく頭の中に直接聞こえてきた気がした。
えっ?と部屋の中をせわしなく見回す。テレビは点いていない。オーディオの電源もオフだ。また白い猫に目を戻す。ひたすらに心臓が高鳴る。猫は夢で見た青緑の目のまま、そこにいる。そして、じっとこっちを見ている。
 恐る恐るもう一度小さく「おい」と声をかけたその刹那―
だからおはようって。
また直接頭の中に、さっきと同じ声が聞こえた。驚いた孝司は座ったままベッドから転げ落ち、したたか尻もちをついた。
孝司!大丈夫、白い猫はぴょんとベッドから降りて孝司に近づいた。孝司は腰を抜かして目を大きく見開き、顎をかくかくさせている。
 猫は孝司の脳内に語りかけた。
ごめん、孝司。驚かせちゃったね。分りやすく説明するから、落ちついて話を聞いて。
 久しぶり。あたしはペコ。孝司と家族みんなと十六年間暮らした猫のペコ。今のこのあたしの姿は、幽霊のようで幽霊ではないの。原子を融合させて猫の姿に戻っているの。存在はしているけれど生物としては成立しないとかなんとか、ここに来る途中で誰かに言われたわ。なぜ、こうしてここに、やって来たかというとね。ママに頼まれたのよ。あ、ややこしくなるね。えっと亡くなった孝司のお母さんに頼まれたの。
あたしが死んで数年後に孝司のお母さんが亡くなったでしょ。それからお母さんが永世にやってきて、昨日まで一緒に暮らしていたの。孝司のお祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも一緒にね。
 なぜ、こうしてやって来たかというと、先月にママの法事があったでしょ。その時に、あなたが仏前で婚約しました、と報告したもんだからお母さんがびっくり。
「あの子、大丈夫かしら。純粋でうっかり者で不器用だから」と心配で仕方なくなっちゃったのよ。
良かったわ。安心したわとならないところが、孝司のお兄ちゃんとの大きな違いね。ゴメン。最後のは失言でした。
 ペコは前足をペロペロと舐めてから孝司を見た。孝司の目は大きく見開かれて、顎はがくんと落ちたままだ。
大丈夫?ちゃんと聞いている?それで、お母さんに孝司がちゃんと結婚して所帯を持って落ち着くまでの様子を、見てきちょうだいと頼まれたってわけ。わかった?
 孝司はやっと口を閉じた。目はまだ大きく見開いたままだ。
 ペコは前足に顎を乗せて目を細めている。ピンク色のベロをしまい忘れている。やっぱりペコだ。と孝司は思った。あいつはよく、ベロをしまい忘れる。
「ほ、ほんとにペコなのか?」
 ペコはにゃーと答えた。
 念のため孝司は軽く自分の頬をはたき、つねってもみた。痛い。現実だ。
キャットフードなんかないよね?
ペコが薄目を開けて気だるそうに孝司を見る。
お腹空いたなあ。孝司のこれまでのこととか話を聞きたいんだけど、まずはこの空っぽのお腹を満たさなきゃ。やっぱりないわよね。、キャットフード。
 孝司は、少し震えながら「うん」と頷いた。「買ってこようか?少し時間がかかるけど」
もう待てないよ。今すぐ何か食べたい。この近くにレストランとかある?と横目でペコが訴える。
「えっ?ま、あるにはあるけど、ペコが食べれるようなものはないよ。それにペットの連れ込みは禁止だ」
 ペコは前足を伸ばして、お尻を高く上げて背を延ばした。またあくびをひとつすると、舌なめずりをしてから「そこ行こ」と言った。
「へっ?えっ?・・だからペットのつれこみは・・」
一度人間が食べているものを食べてみたかったの。お食事しながらいろいろお話聞かせて。
 ペコはとことこと洗濯籠に近づくと、孝司の白いスウェットの上下を噛んで引きずりだした。そのまま浴室の脱衣場に向かった。
 しばらくすると、脱衣場から人の足音が聞こえてきた。ペコの気配がなくなり人の気配がした。
泥棒?
しかし外から人が入るには、玄関とベランダしかない。潜んでた?まさかと孝司は少し身構えて、脱衣場に近づこうとすると同時に脱衣場から人が姿を現した。
真っ白い肌で短めの黄金色の髪の女の子。髪はくせ毛なのかカールしたり、跳ねたりと忙しそうだ。目が猫のようだ。いやペコのようだ。
その女の子は「孝司!さあご飯食べに行こう!もうお腹ぺこぺこ」と言った。
たかしは、また尻もちをついた。
「なんだチミは!いや君は!どこから入った!」孝司は尻もちをついたまま、後ずさりした。
「だからペコよ!」と女の子は両手を自分の腰にあてて、孝司の目をじっとのぞき込んでいる。
 そんなバカな!孝司は、意外と素早い動きで「ペコ!ペコ!」と泣き声に近い声を上げて脱衣場に向かった。
 脱衣場の隅々まで探すがペコはいない。浴室にもいない。背後から「だからあ。あたしよ。ペコは」と言う女の子の、ため息まじりの声が聞こえた。
 振り返ると女の子が「変身したの」と両眉を上げてから、いたずらっぽく上を見て舌を出した。目がペコと同じ色だ。猫の割に短い舌も。
 孝司は深々とため息をついて、女の子の横をすり抜けて寝室に戻り、ベッドに腰をおろした。女の子も追いかけてきてポンと孝司の横に座った。
「同じ方法よ。原子の瞬間的な分解と融合。さっきの猫も今のあたしも同じペコ」
首をかしいで孝司の顔をみた。孝司は目が合わないように顔を伏せて頭を抱えた。
「よしんば!よしんばだよ。これが事実で君がペコなら、おれは病院で診てもらったほうがいいと思う。脳のCTを撮ってもらう必要がある。きっと視覚認知に関わる脳の部位に異常をきたしているはずだ」
「いや。正常よ。この地球の上には水やたんぱく質、そしてカルシウムの原子があるでしょ。それを瞬間的に分解したり融合したりするの。わからない人ねえ」
「そんなことは不可能だ」孝司は頭を抱えたまま、押し殺すように言う。
「まあ、とりあえずご飯食べに外に出ましょうよ。あたしが現実に存在していることがわかるから」
 そう言って、女の子、ペコ?は立ち上がって孝司の袖を引っ張った。怪訝な顔で孝司はペコ?を見上げるしかなかった。



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