第5話

文字数 4,432文字


人間の姿になるのは楽だ。多目的トイレにペコと着替えを放り込むだけだ。一分と経たずに服を着た人間のペコが、自分でドアを開けて出てきた。まったくもって自然だ。しかし猫が出てくるのは不自然だ。
 ふたりは、お昼ごはんに駅前で蕎麦を食べることにした。孝司はかけ蕎麦。ペコは盛り蕎麦。やはりペコは箸を使うことが出来ず、にぎり箸で盛られた蕎麦を突き刺している。見かねた孝司が蕎麦を蕎麦猪口に入れてあげることにした。当然すすることも出来ないため、蕎麦猪口に直接口をつけて箸で流し込む。
孝司が自分の蕎麦のすすり、汁をひと口飲んではペコの蕎麦猪口に蕎麦を入れる、それにペコが口をつけて流し込むといった作業がループされている。
少し苛立った孝司が、蕎麦猪口からはみ出るほどの量の蕎麦を投入した。当然、行儀や作法という概念を持たないペコは、蕎麦の山にかじりつくとひと息に蕎麦の山を口に流し込んだ。パンパンになった頬を動かしながら蕎麦を噛んでは、飲みこんでいる。そんなペコを横目で見ながら、孝司は丼ぶりを両手で持ち上げて蕎麦汁を飲み干した。丼ぶりを置いてコップの水をひと口飲み、蕎麦屋の窓の外を眺めながら孝司は言った。
「篠宮さんが言ってた名刺の裏のメモは、気になる。確かに気になる。でもメモの謎が解けたとしても、単独事故であることは間違いないし、歳三さんの潔白を証拠づけることはできない。事故現場には歳三さんしかいなかった。乗客も同乗者も無かった。しかも空車の表示板が出ていたんだ。どうにもひっくり返す手が何も思いつかねえんだよなあ」
 ペコは青緑の目を大きくひろげて、パンパンになった頬の中身を一心に飲みこんでいる。
「架空の会社の名刺。確かに臭い。篠宮さんが気になるのはよくわかる。名刺が悪用されていたのはまず間違いないだろう。でも歳三さんの事故とは別件と考えるのが妥当といったところなんだが・・」
 蕎麦を飲みこみ終えたペコが、蕎麦猪口を置いて箸を握ったまま孝司を見た。口の端から蕎麦が一本たれている。
「何で単独事故って決めつけるのよ」
「いや。もう決まったんだよ。決めたんだよ警察が。捜査をしてさ」
「でもわかんないじゃない。歳三さんに確認したわけじゃないでしょ。あたしには、あんな優しい顔をしたお祖父ちゃんが、悪いことをするようには思えない」
「それは感情論だよ」
「どういうこと?」まだ口の端の蕎麦はぶら下がったままだ。
「あのなあ。優しい人が犯罪を起こさないなんてのは、なんの証明にもならないんだよ。そして犯罪者すべてが邪悪な心である、なんてことも言いきれないの。ペコが真希さんと歳三さんのことを思って、そうあってほしいって気持ちはわかるよ。でも捜査ってのは事実と証拠の蓄積なんだ。今、事実として残っているのはタクシーに乗客はなく、歳三さんの指紋がついた覚醒剤のパケがあるってことだ」
「でもあたしたちの目的は何かほかに新たな事実がないか調べることでしょ?」
 ペコは食い下がらない、青緑の瞳をらんらんとさせている。
「・・ん、まあ。そうだ。それが仕事だ」
 孝司は苦い顔で少し恥じ入った。
「でしょ。じゃあ次は?どうするの?」と両肩を揺らす。
「まあ、あまり期待できないが歳三さんの事故現場に行ってみよう」
「うん!」とペコはうれしそうにうなづいて孝司に敬礼した。
「ペコ。そのまえに口からぶら下げている蕎麦をしまえ」
 ペコは、ペロッと舌で蕎麦を口にしまった。
 芝浦埠頭。歳三さんの事故現場である首都高速の巨大な橋脚の下で、孝司は腕を組み交差点の信号をなんとなく見ている。ペコは片手を少し屈めた腰にあて、シャーロックホームズよろしく人さし指を立てて橋脚の周りをうろうろしている。
「何にもねえよ」と孝司が視線を下げて横目でペコを見る。かまわずペコはシカトして地面をキョロキョロ見てまわっている。事故現場の橋脚にはタクシーの衝突痕があるぐらいで目立ったものは見当たらないが、フロントガラスの破片が少し残っている。
「ねえ。孝司。このガラスは?」
「うん。歳三さんのタクシーのフロントガラスの破片だろう」
「この上は何なの?すごくうるさいね」
 ペコは上を指さし、首をそらして橋脚の上を見上げた。頭上を通過するトラックや車の走行音と振動が響きわたっている。空気は乾いていて埃っぽい。
「高速道路だ」
「こうそく・・どうろ」ペコは意味が理解できず首を傾げている。
「まあ来てはみたものの、無駄足になりそうだなあ。調書には目撃者はなく、通報者のトラックドライバーは事故の瞬間は目撃していない。この周辺を聞き込みするのも期待できないしなあ。倉庫だらけだし」
「ガラスって危なそうね」
 ペコはまだシャーロックのポーズのまま地面とにらめっこしている。
「ああ、お前知らねえか。ほら実家の透明な窓ガラスをおぼえているだろ?あれ割れると破片の先がすっげえ尖って鋭くなっているから、うっかり触ると怪我しちゃうんだ」
 ふーん、とペコがガラスの破片に腕をのばそうとすると、
「触わんじゃねえ!」
 ペコはのばした手を止め孝司を振り返り舌を出した。孝司はつま先でガラスの破片を蹴飛ばした。「手が切れるんだよ。ガラスの破片というのは」
 そして、ペコの手が切れていないか確認して、大きく背伸びをした。
「でもよお。またなんで歳三さんは、こんな所に来たんだ?タクシー会社の車庫は墨田区だ。車内に落とし物があったということは、ここに来る前に客を運んだのは間違いないだろう。事故が起きたのは十六時四十分。その日は日勤。帰社するなら遠回りだし、高速道路は使わねえよなあ・・もしかすると歳三さんがシャブをやっていたんではなく、シャブを売りに行こうとしていたとも考えられる」
「そんなわけないわ!」ペコの上瞼が一直線になる。
「だから可能性の話だよお」
「潔白を証明するために調べてるんでしょっ!」とペコは人さし指を立てて、下から孝司を睨み上げた。
「まあそうだけど・・。ペコはほかに何か気になることはないか?」
「高速道路って何?」
「おまえ・・・・帰りながら説明するよ」そう言って、タカシは小さな溜息をついた。

 卯月町のアパートに帰るなり孝司はすぐに風呂に入った。ペコはこたつの横でキャットフードが入った皿に顔を突っ込み、一心に口を動かしている。ごはんがひと段落して顔を上げるとテレビでは歌番組が放送されていた。舌をペロペロさせながら、なんとなくテレビ画面を眺めてから、首をのばしてこたつの上をのぞく。ハンバーガーショップの紙袋が置かれている。
 孝司が風呂から上がり、半裸で肩にバスタオルをかけたまま冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出した。こたつに入り、プルトップを開けると缶から直接ひと口飲んだ。
あのさあ。一応レディがいるんだから服着なよ。
 孝司はペコを一瞥したが、そのままシカトして紙袋からハンバーガーを取り出し、包み紙をはがしはじめた。
聞いてんの?服着なよ。
「暑いんだよ」
でもレディがいるのよっ!
「ばかやろう。何言ってんだい。猫の分際で」
 ペコは、うううーっとうなり声を上げて両耳を後ろに向け孝司を睨むと、シャーッ!と息を吐き出し威嚇した。孝司は、たじろいで少し後ろにのけ反り、座ったまま後ずさりした。
 素直に謝るのも癪にさわる。こいつは、あくまでも飼い猫なのだ。孝司は自分が子どもの頃のことを思い出した。こいつはパンが好物だ。
「怒るなよう」と愛想笑いを浮かべて「食べる?食べるだろ?お前、好きだったもんな」とハンバーガーのバンズをちぎってペコの前に置いた。
後ろを向いていたペコの耳がゆっくりと前に戻っていく。「ほら。遠慮すんな。美味いぞ」と孝司は手のひらでバンズを勧める。上瞼が横一直線になっていた青緑の目は丸みを取りもどし、孝司をちらっと見てから舌を出してバンズを転がしては、顔を上下にふりながら食べだした。孝司はもう少しバンズをちぎってペコの前におくと「ふう」と息をついて缶ビールを手にとり喉に流し込んだ。
 バンズを食べ終えたペコは、またテレビに目を向けた。テレビはやけに騒がしいパチンコ屋のコマーシャルが流れている。
しかし、寿司屋の倅が昨夜はカップ焼きそば、今夜はハンバーガーって粋じゃないね。振り返らずに嫌味っぽくペコは言った。
だってほら。作るのめんどくせえし。
その食生活。とてもじゃないけどお母さんに報告できないわ。
 孝司はまたシカトして、ハンバーガーを片手にスマホの画面を見ると「ちぇっ」と画面を睨んでスマホをベッドの上に放りなげた。そして、ひと息にビールを飲み干した。寒くなってきたのかスウェットの上着を着ながら窓に近づくと、ぼんやりと窓外を眺め少し乱暴にカーテンを閉めた。
 歳三さんの潔白かあ。どうにもこうにもなあ、とペコに聞こえるようにひとりごちて口についたビール泡をぬぐい、自分もテレビに目を向けた。
ねえ、孝司。今日教えてくれた高速道路なんだけどさあ。あの道路はどこに続いているの?
「レインボーブリッジって橋を渡ってそのままずっとと走れば千葉県まで行ける」
途中、高速道路沿いに何かある?
「有明コロシアム!」
「なにそれ?」
「格闘プロレス団体UWFが真夏の格闘技の大会を開催したコロシアムだ。昭和六十三年の夏。いやあ、あの大会はすべての試合が熱かった。まあ、おれが生まれるとんと前の話だけどな。UWFは今の総合格闘技の先駆けになったひとつの歴史なんだ。おれはあれを観て初めて裏アキレス腱固めを知ったんだ。ハイキックをキャッチしてそのまま足首を極める!かっこよかったなあ!友だちにもらった当時のDVDがある。見るか?そういや学生時代からとんと見ていないな。どこしまったっけ」
 孝司はオーディオラックを見て立ち上がろうとした。
ちょっと!ちょっと!孝司ちょっと待って。話の意味が隅から隅までさっぱりわっかんいわ!そういうなんかマニアックなものじゃなくて、なんていうの一般的に知られている観光地?有名な場所?そういうのはないの?
 孝司はテレビに顔を向け、両眉を上げると横目でペコを見ながら「これだ。これがある」とテレビを指さしてハンバーガーにかじりついた。
テレビなんてどこにでもあるじゃない。
「違うよ。テレビ局。今、これを放送している場所だよ」
それも言っている意味がよくわかんない。
「テレビ局ってのはドラマや歌番組とかを撮影した映像を、今ここにあるテレビで見れるように放送している場所なんだ。今、おれたちはテレビ局から送られてくる映像を見ているわけだ」
この箱の中でやってんじゃないの?
「まあ。そう思ってしまう気持ちもよくわかる。おれもガキの頃はそう思ってた時期がある」
で、テレビ局だけどどこにあるの?
「お台場。事故現場の芝浦埠頭からレインボーブリッジを渡ってすぐた」
孝司。明日、事故現場から、そのお台場行ってみようよ。





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