第17談 『掃除婦のための手引書』②
文字数 3,347文字
「バスの乗客がメイドと老婆と黒人だ」ということを通して、社会の底辺に生きる貧しき人々への共感を表しているのもいいですね。
バスはジャク・ロンドン広場をめざしてのろのろ走る。乗客はメイドと老婆ばかり。隣に座った盲目のお婆さんは点字を読んでいる。(「掃除婦のための手引書」52頁)
このバスに乗るのは若い黒人か、年寄りの白人だ。運転手もそうだ。年寄りの白人の運転手は不機嫌でぴりぴりしていて、オークランド工業高校前ではひときわそうなる。(66頁)
読みながら、最近観た役所広司主演の映画『パーフェクト・デイズ』を思い出しました。
『パーフェクト・デイズ』は、東京の公共トイレを清掃する作業員の仕事を描いた映画ですね。たしかに題材が共通しています。
なぜ作者は掃除婦の目で物語を書こうと思ったのか、読んでいて疑問でした。階級の底辺にいる象徴として、作者は掃除婦を出したのだと思います。
虐げられた人々は悲しみを持っている、ということではないでしょうか。
労働者の現実を描いているのはそのとおりなんですけど……
本作はむしろ、プロレタリア文学から思想性を抜いたように感じました。
なるほど、たしかに掃除婦という職業に対する怒りや、仲間同士連帯する精神などは描かれていないですね。
主人公マギーは、古株の掃除婦たちからは「学がある」せいで嫌われています。
メイド職は黒人女性が多いためか、白人で「学がある」マギーは逆差別を受けていました。
そのため彼女は「つい最近アル中の夫に死なれて、四人の子供はまだ育ち盛りです。今まで一度も働いたことがなかったんです」という、もっともらしい言い訳をしなくてはいけませんでした。
この物語のポイントは、主人公マギー・メイの心情の変化にあると思います。
マギーは仕事先で睡眠薬をひそかに盗み、自分が自殺したくなった時に使うために貯めています。
マギーの自殺願望の根っこに、愛する人であるターの死があります。ターが彼女の夫なのか、恋人だったのは分かりませんが。
物語の現在時点で、ターはすでに亡くなっています。死亡理由は明確に書いていませんが、作中の描写から自殺なのではと思いました。
マギーは悲しみのあまり、彼の遺体を確認することさえ拒否しました。
マギーは「あんたが死んでるなんて、耐えられない」と嘆きます。
ター。あんたが死んでるなんて、耐えられない。でもあんただってきっとわかってるはずね。 あの空港のときもそうだった。あんたはアルバカーキ行きの飛行機のキャタピラ・ランプにもう乗りかけていた。
「えいくそ、やっぱり行けない。車の場所、お前きっとわからないだろ?」
「マギー、おれが行っちまったら、お前どうする?」べつのとき、ロンドンに行く前にもあんたは何度も何度もそう訊いた。
「レース編みでもするわよ、ばか」
「おれが行っちまったら、お前どうする?」
「そんなにあんたなしじゃ生きてけないみたいに見える?」
「見える」あんたはそう言った。
(中略)
わたしは睡眠薬をためこんでいる。前にターと取り決めをした――もしも一九七六年になってもにっちもさっちもいかなかったら、波止場の端まで行ってお互いをピストルで撃とう。あんたはわたしを信じなかった。きっとおれを最初に撃って自分だけ逃げるんだろうとか、先に自分を撃つんだろうとか。もう駆け引きはたくさんだよ、ター。(66頁)
"I'm gone"は、その場を立ち去る時に「もう出かけるよ」という意味で使われます。
と同時に、"gone"には「死んだ」という意味もあるため、"when I'm gone"は「もし自分が死んだら」という意味にもなります。
飛行機に乗り込もうとするターが言った"when I'm gone"は「行った」と「逝った」という二重の意味が込められた言葉で、うまい表現だなと思います。
マギーは、生前のターが「自分が死んだら君は自殺する」と示唆していたこと、二人の予言めいたやりとりを思い出すわけですね。
"I’m tired of the bargain, Ter."の"bargain"は、バーゲンセールの「バーゲン」と同じ単語ですが、ここでは「安売り」ではなく「駆け引き」の意味で使っていますね。「駆け引きには飽き飽きしたわ」という、マギーの心の声になります。
この言葉で作者は、マギーの自殺への思いの本気度を示していますね。
この物語は悲しみに耐えた人の日常生活を書いたものだと思います。
読みながら、何がこの話を作家に書かせたのか、と考えました。
そんな主人公マギーが、高齢の雇い主ミセス・ヨハンセンとのやりとりから生きる希望を見出すラストがいいですね。
ピースは、パズルのテーブルから遠く離れた部屋の隅で見つかった。空、それにカエデの切れはし。「見つけた!」彼女が叫んだ。「ほらね、一つ足りないと思ってたのよ!」
「あたしが見つけたんです!」わたしも叫んだ。
これで掃除機をかけられる。わたしがそうする横で、彼女はため息とともに最後のピースを嵌めた。帰りぎわ、わたしは彼女に、自分がまた要りようになるかと訊ねた。
「それは神のみぞ知る、よ」と彼女は言った。
「そうですよね……あとは野となれ、ですものね」わたしは言って、二人で声をたてて笑った。
ター。あたし、ほんとはまだまだ死にたくない。(73頁)
この最後の終わり方がいいですね!パズルのピースを探し、二人で笑ったことがターの死を受け入れたことにつながったのではないでしょうか。
生きていれば、笑うこともあります。
「神のみぞ知る」「後は野となれ」という、淡々と突き放した会話が良かったです。アルコール依存症がテーマの物語でも、作家自身にとってわだかまりのある祖父や母親や先生に対しても、突き放して書いている。
この作家のスタイルだと思います。
作者はじつに乾いた目で日常を見て、
乾いた文章で書いています。
「突き放した」と言っているのと同じ意味で、私は「乾いた」文章だと感じました。
過去の読書会で、ノーベル文学賞作家のアリス・マンローを読みましたね。ルシア・ベルリンとアリス・マンローはどちらも女性作家で、日常生活に題材を取った短編の名手という共通点がありますけど、文体から受ける印象がかなり違います。
ここまで突き放して書いてきて、最後に感情が出ます。非常に新鮮に感じました。
主人公は日常生活の中で、自分が孤独だったと気づいたのではないでしょうか。
誰もが自分が明日どうなるか分からないけど、生きていればどうにかなる、と言うことに気づいて、「まだ死にたくない」と思う。このラストから今日を生きるのは辛いけど、明日は何か良いことがあるかもしれないよ、人生そんな捨てたもんじゃないよ、という作者のさりげないメッセージが伝わってきました。
最後の「やっと泣く」というところに、じーんときました。
澄んで寒い一月の朝だ。頬ひげを生やした自転車乗りが四人、凧糸みたいにひと連なりに二十九丁目の角を曲がってくる。ハーレーがバス停の前でアイドリングし、強面のライダーに向かって子供たちが、五〇年型ダッジの荷台から手を振る。わたしはやっと泣く。(74頁)
"I finally weep."というシンプルなフレーズが「ついに涙をこぼす、ようやく泣き出す、とうとう涙が出る」という意味になりますね。
「やっと泣く」の直前に、子供たちが出てくるのが、 彼女がやっと泣けた理由でしょうか。
彼女の子供ではないですけど、子供たちの姿を見て……
そうですね、子供たちを見たから泣けたのだと思います。
子供たちの無邪気さを客観的に見て、涙を流したのでしょう。
乾いた文章だから、最後にほとばしる感情が伝わってきます。作者は繊細な感情を持った素敵な人だと思いました。
引用:ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集』(岸本佐知子訳、講談社文庫)よりLucia Berlin, A Manual for Cleaning Women: Selected Stories (English Edition) , Farrar, Straus and Giroux. Kindle版.
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