第19談 『巣に帰る』

文字数 3,121文字

それでは最後、『巣に帰る』にいきましょう。
※ネタバレ注意※
【あらすじ】

一人称の語り手「わたし」は、自宅の正面ポーチで夕焼けを見ている時に、目の前にあるカエデの木にカラスがたくさん集まっていることに気づく。

実はそのカエデの木には、いつも夕暮れ時になると何十羽ものカラスが飛んできていた。

普段の「わたし」は自宅の裏のポーチに出て座っていたため、そのカエデの木の中にカラスがたくさんいることに気づいていなかったのだ。


カエデの木を眺めながら、「わたし」はこれまでの人生において「正面ポーチ」ではなく「裏のポーチ」にいたために、気づかず見逃してきた出来事があったのではないか、と思い巡らす。


「わたし」は過去を振り返り、もし少女時代に家族と一緒に南米へ移住せず、自分だけがアリゾナに残ってウィルソン家に居候していたら、と想像をふくらませる。

ウィルソン家には五人の子供がおり、小学生の「わたし」は高校生のドットと同じ部屋で寝起きし、学校へ行く前と放課後に軽食屋を手伝っていた。

店が終わると、夜遅くにドットは恋人に会いに行き、「わたし」は同級生のウィリーと一緒に宿題をする。

父親を鉱山の事故で亡くし、母子家庭で育ったウィリーは、鉱物検査師の事務所で働きながら学校に通い、弟妹の面倒を見ていた。


ある日、鉱山検査師のワイズに連れられ、山の上にあるかつて家族と暮らしていた家を見に行く。そこで「わたし」は家族が恋しくなり、泣いてしまう。


その頃、チリで大地震が起こり、チリにいた家族が命を落とす。

孤児となった「わたし」はそのままウィルソン家で暮らし、奨学金を得て大学に進学した。

大学卒業後、「わたし」はウィリーと結婚し、長男が生まれ、二人は末永く幸せに暮らしただろう。

そんな平凡で幸福な「もしも」の人生を想像するが、想像通りにはいかないのではないか、と「わたし」は自問自答する。


もし「わたし」だけが家族と離れてアリゾナに残ったとしても、ウィルソン家にはいられず、テキサス州に追いやられていただろう。

そこで伯父や伯母、曾祖母と一緒に暮らし、「わたし」は厄介者扱いされて過ごす。

やがて思春期になると多くの問題行動を起こし、少年鑑別所へ送られるはずだ。

少年鑑別所を出て間もなく、たまたま町を訪れたダイヤモンド掘りと駆け落ちし、モンタナへ行くだろう。


その後、どうなったかを想像して、「もしも」の人生であっても、結局は今と全く変わらない人生の結末になっていただろう、と「わたし」は気づく。

同じダコタ・リッジの石灰山のふもとの家で、同じカラスを眺めているだろう、と思い至るのだった。【完】

自分がこの作品を全体討論に選んだ理由は、作品集の最後のまとめとして本作があるのではないかと思ったからです。

鉱山で働く人々の生き生きした描写が刺さりました。

さすがアメリカだ、と共感できるところがありました。

「もし」が長すぎて、事実関係が上手く読み取れませんでした。
「もし」がかかっているのは、家族と一緒に南米に移住せず自分だけアリゾナに残っていたら(317頁)から、ダイヤモンド掘りと駆け落ちしモンタナへ行き(334頁)まで全部ですね。

タイトルの「巣」とは、何を意味しているのでしょうか?

ウィルソン家が「わたし」にとっての「巣」であったということだと思います。 
いや、ウィルソン家は「わたし」が想像する理想の家族なので、実在しない可能性の方が高いですよ。
『巣に帰る』の原題は"Homing"(ホーミング)です。

homing(ホーミング、帰還、帰巣本能 home+ing)


home【自動詞として】自宅[本部]に戻る、帰郷[帰国]する

〔鳥などが〕帰巣する

〔目標に向かって〕真っすぐ進む

〔ミサイルなどが〕誘導される

ホーミングミサイルと同じ「ホーミング」なんですね。
夕暮れになると、町じゅうのカラスが一本のカエデの木に集まってくるように、どんな道筋をたどっても、同じ人生に帰ってくることを意味しているのだと思います。
年をとって死期が迫ると、人生を振り返るわけよ。

主人公は、人生における「正面ポーチ」と「裏のポーチ」の両方が見えているのよね。

「過去を全部捨ててきた」(316頁)という台詞が、読んでいて身につまされました。

最近、学生時代や仕事のことを思い返して後悔することがありますが、今さらどうしようもないです。

自分で納得して生きるしかないということですね。

無意味な問いだ。わたしがここまで長生きできたのは、過去をぜんぶ捨ててきたからだ。悲しみも後悔も罪悪感も締め出して、ぴったりドアを閉ざす。(「巣に帰る」316頁)

「無意味な問いだ。過去を全部捨ててきたからだ」(316頁)という台詞は、仏教における唯識の「過去にとらわれてはいけない」という教えと共通していますね。

人生を達観する年齢になったということでしょう。

「過去を全部捨ててきた」と言いつつ、「もしも」を考えるのが人間らしいと思います。

このもしもも、あのもしもも、結局は起こるはずのなかったことだ。わたしの人生に起こったいいことも悪いことも、すべてなるべくしてそうなったことなのだから――今のこの独りぼっちのわたしを形づくってきた選択や行動ならば、なおのこと。(317頁)

自分の人生をぐるぐる考えながら、「背負わなければいけない十字架」(334頁)だったと気づいたのでしょうね。

その時々に人生で与えられた課題をやるしかなかった……

それをもって、自分の人生を収めようとしているのだと思います。

もし本当にそうなっていたら、本当に地震が起こっていたら、どうなっていただろう。わかっている。”もしも”の問題はそこだ。遅かれ早かれ壁に突き当たってしまう。(中略)なんとわたしの人生は今とそっくり同じになっていただろう、ダコタ・リッジの石灰山のふもとで、カラスを見ながら。(234頁)
ここの箇所、原文では次のように書かれています。
I know what. This is the problem with “what ifs.” Sooner or later you hit a snag. 

(私は知っている。これが "もしも"の問題だ。遅かれ早かれ行き詰まる。)

My life would have ended up exactly as it has now, under the limestone rocks of Dakota Ridge, with crows.

(私の人生は、今と全く同じように、ダコタリッジの石灰岩のふもとでカラスたちと共に終わっていただろう。)

自分の人生を振り返り、もっと幸福な少女時代があったのではと想像をふくらませますが、たとえそうであったとしても最終的には孤独に最期を迎えることになるということです。

つまり、どんなに「もしも」を想定しても、最終的には現在と同じ自分が形成されると言いたいのだと思います。

過去に戻って人生をやり直しても、つまづきは避けられないのよ。

本人が変わらないかぎり、結局たどり着くところは変わらない

もしかしたら、ヘロインでもっと早死にしていたかもしれない。

そういう人生の満足感があると思うわ。

自分の人生に満足していると、作者は言いたいのではと思います。
つづく
引用:ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集』(岸本佐知子訳、講談社文庫)より

Lucia Berlin, A Manual for Cleaning Women: Selected Stories (English Edition) , Farrar, Straus and Giroux. Kindle版.

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

枳(からたち)さん


読書クラブの取りまとめ役。

今読んでいる本は、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』。

弓絃葉(ゆづるは)ちゃん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、『やし酒飲み』、『密林の語り部』。

真弓(まゆみ)さん


韓国ドラマファン。

樒(しきみ)先生


昨年は9カ月間、大江健三郎の著作に熱中していた。

堅香子(かたかご)さん


『アンナ・カレーニナ』が好き。

栂(つが) くん


好きな作家は安部公房。『砂の女』と『壁』がおすすめ。

梧桐(あをぎり)さん

榊(さかき) さん


アジアンドキュメンタリーズのサブスク会員で、アジア各国の番組を見るのが好き。

山菅(やますげ) さん


BS12の東映任侠映画「日本侠客伝」シリーズを見るのが、毎週水曜日の楽しみ。

檜(ひのき) さん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、三兄弟のなかではアリョーシャが推し。

桃(もも) さん


大谷翔平選手が好き。

山吹(やまぶき) さん

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色