第6談 主人公は「インド」という国の象徴

文字数 3,553文字

※ネタバレ注意※
タイトルでもある「真夜中の子供たち」とは、インド独立初期の精神だと思います。

したがって、「真夜中の子供たち」の断種手術は、独立初期の精神が失われたことを意味していると言えます。

【ストーリー】

インドが独立した1947年8月15日の日付が変わったばかりの真夜中に生まれた「真夜中の子供たち」は、ネルー首相から「国民の鏡」と讃えられた。

しかし、ネルーの娘であるインディラ・ガンディー首相は、その不思議な能力を持った「真夜中の子供たち」を逮捕し、強制的に不妊手術を施し、「真夜中の子供たち」を根絶やしにしようとする。

作者がインディラ・ガンディーを嫌いだと、読んでいてよく分かりますね。

インド独立の時代をともに生きた人々全員が「真夜中の子供たち」だと思います。

こういう時代を生きた人というのは、平和に生きられないのだと感じました。

インドが独立して、希望にあふれていたのが「真夜中の子供たち」の第1世代よね。

この1世代目の「真夜中の子供たち」が物語の中でどういう役割を果たすのか、書き足りないと感じました。


「真夜中の子供」をわざわざ「たち」と複数形で言っているわりには、サリーム、シヴァ、パールヴァティの話が中心で、その他の子供たちの話がほとんどなかったのは気になりましたね。

インドはイギリスの植民地から独立しますが、インドとパキスタンに分裂して、その後の両国は3回も戦争しました。

この戦争のせいで、主人公サリームの家族がほぼ全滅するという悲劇に見舞われます。

日本だと、インドとパキスタンの戦争のことは学校でも教えないし、ネットで調べても詳しく出てこない。

印パ戦争のことが一番詳しく書かれている小説だと思う。

私が物心ついた時に東パキスタンと呼ばれていた国が、いつの間にかバングラデシュと呼ばれるようになっていました。

ひとつの国ができるのはこれほど大変なことだったのか、と本作を読んで思いました。

【史実】

1947年にインドが独立するにあたって、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が深まり、ヒンドゥー教徒多数派地域をインド、イスラム教徒多数派地域をパキスタンとしてそれぞれ独立を宣言した。

同年からカシミールの帰属をめぐって、インドとパキスタンの間で二度にわたって戦争が起きた。

1947年に第1次印パ戦争、1965年に第2次印パ戦争


西パキスタンに置かれた中央政府がウルドゥー語を公用語としようとしたの対して、ベンガル語話者が多数派である東パキスタンでは西側に偏った政策に不満が高まっていたところ、1970年のサイクロンによる甚大な被害を受け、被災地への政府対応に対する不満から、さらに独立運動が広がった。

1971年、インドが東パキスタン独立のために軍事介入し、第3次印パ戦争に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。

本作がイギリスでブッカー賞をとったということは、イギリスの読者はインドの歴史をよく知っていて、読む下地があるということでしょ?


これ、日本だったら何の賞もとれないと思うわ。

やっぱり、インドとイギリスの密接さがあると思う。

主人公は「インド」という国の象徴
主人公サリームの「ハゲ」と「青鼻」がやたら強調されていたけど、何か意味があるのかな?
主人公サリームは「インド」という国の象徴なのだと思います。
サリームは徹底的に醜い顔として特徴づけられていますね。

顔のあざ、鼻、しみの位置を考えると、インドの地理的特徴に似せているのでしょう。 

たしかに、学校で地理の先生からサリームの顔がインドに似ていると侮辱される場面がありますね。
彼は私の鼻をぐいと引っぱる――「これこそがァ、人文地理である!」

「どうしてですか、先生。どこがですか、何がですか」

ザガロは今笑っている。「見えないか?」と言って彼はけらけら笑う。「この醜い猿の顔にインド全体の地図が見えないか?」

「はい、いいえ、見せて下さい!」

「いいか――ここにデカン半島がぶらさがっている!」また鼻がイテテ。

「先生、それがインドの地図なら、そのしみは何ですか?」調子にのってこう訊ねたのは甲状腺キース・コラコだ。級友たちの間にくすくす笑い、忍び笑いが起こる。ザガロはこの質問を巧みに利用して叫ぶ、「このしみはパキスタンだ! 右の耳のこのあざは東翼、このおそろしいあざのある左の頬は西翼だ。覚えておけよ、馬鹿ども。パキスタンはァ、インドの顔の上のしみなんだ!」

(サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』上巻、524-525頁)

作中で「割れ目」と「脱水」という言葉が何度も使われていたけど、これって何を意味してるの?
それにもっとも生活に直結する排水=枯渇(ドレーネージ)が起こっていた。あの頑丈なバクラ・ナンガル水力発電用ダムに亀裂が現れたのだ。そして背後の大貯水池の水がこの割れ目から流れ出したのだ……(中略)……最後の排水=退去(エヴァキュエーション)、このエピソードの題名が真に意味している排水=退去が行われたのは翌朝、私が、何とか事態は好転するだろうと考えて安心している時のことだった……その朝、中国軍が必要もないのに突然進軍を中止したという信じられぬような嬉しいニュースが入って来たからだった。(下巻155-156頁)
ダムの割れ目から水が流れ出した事実と、サリームが超能力を失った出来事を重ね合わせて表現しているのだと思います。
私の内部の沈黙。接続が断たれている(永久に)。何も聞こえない(何も聞くべきものがない)。

沈黙、まるで砂漠。そして澄んだ、自由な鼻(鼻の通路には空気が通っている)。空気はまるで蛮族のように私の秘所に侵入してくる。

排水。排水されたのだ。地面に降りた雁(パラハムサ)。

(永久に)

(下巻160-161頁)

サリームが超能力を失ったのはなぜなのかな?
サリームが無理やり鼻の手術を受けさせられた結果、彼の超能力が失われたと書いてありますね。
手術の目的は明らかに炎症を起こした副鼻腔から膿を排水することであり、鼻の閉塞をきっぱりと治すことであったが、その結果、洗濯物入れのなかでつくられた接続をすべてこわしてしまうことになった。私は鼻から与えられたテレパシーを奪われ、真夜中の子供たちの可能性から追放されることになった。(下巻161頁)
そう書いてあったけど、この鼻の手術の意味ってなに?
ヨーロッパ的な「手術」によって、インド的な「魔術」が失われたということを表現しているのではないでしょうか。 
ああ、なるほどね!
サリームの祖父アーダム・アジズがドイツ留学から持ち帰った豚革カバンのせいで、地元の船頭タイから嫌われるようになるエピソード(上巻37-38頁)とつながっていますね。
そう、インドとヨーロッパの価値観の対立を描いているのだと思います。
強制的な断種手術によって、サリームが生殖能力を失ったエピソードでも「排水」という表現が使われています。
そしてサリームは? もはや歴史とのつながりを失い、上半身も下半身も排水されて、私は首都に戻った。(下巻467頁)
上半身の「排水」は超能力の喪失、下半身の「排水」は生殖能力の喪失を意味しているので、作者の言う「排水」とは何か大事なものを永久に失うことだと思います。
最初から最後まで出てくる「銀の痰壺」には、どんな意味があるの?
【ストーリー】

ムムターズの結婚祝いとして、父アジズ医師の友人だったクーチ・ナヒーン・ラーニが見事な彫りのラピスラズリの象眼のある宝石をちりばめた銀の痰壺を贈った。

その後、ムムターズは最初の夫と別れて再婚し、デリー、ボンベイ、パキスタンと引っ越しを繰り返すが、銀の痰壺を必ず移住先に持って行った。


「銀の痰壺」はもともと、ラーニ(女王)であるクーチ・ナヒーンの持ち物だったため、独立以前の藩王国時代のインドの名残りと言えますね。

爆風で吹き飛ばされた「銀の痰壺」がサリームの頭に命中したことで記憶喪失になるので、ストーリー展開上、超重要なアイテムだと思います。

ラピスラズリの象眼のある、見事な造りの銀の痰壺で、過去が禿鷹の落とした手のように私をめがけて急降下してきて、私を浄化し解脱させるものとなる。(下巻244頁)
「銀の痰壺」は家族の歴史を伝え、過去と現在をつなげる役割を持つアイテムなのではないでしょうか。
古いブリキのトランクのなかで埃をかぶりながらも、それは私の歴史の全体を貫いて存在し、洗濯物入れ、幽霊と幻、凍結と解凍、排水、亡命、月のかけらのような空からの降下などの事件をひそかに吸収し、一つの変身を永続化したのだ。ああ、護符のような痰壺よ!(下巻481頁)
つづく

引用:

サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』(寺門泰彦訳、岩波文庫、上・下巻)より
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登場人物紹介

枳(からたち)さん


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今読んでいる本は、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』。

弓絃葉(ゆづるは)ちゃん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、『やし酒飲み』、『密林の語り部』。

真弓(まゆみ)さん


韓国ドラマファン。

樒(しきみ)先生


昨年は9カ月間、大江健三郎の著作に熱中していた。

堅香子(かたかご)さん


『アンナ・カレーニナ』が好き。

栂(つが) くん


好きな作家は安部公房。『砂の女』と『壁』がおすすめ。

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榊(さかき) さん


アジアンドキュメンタリーズのサブスク会員で、アジア各国の番組を見るのが好き。

山菅(やますげ) さん


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檜(ひのき) さん


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