第8談 「空のびん」に入っているのは?
文字数 3,989文字
作者はなぜ「真夜中の子供たち」という題名にしたのかしら?
独立後の希望であり、新しい国造りを担う子供たちという意味が込められていると思います。
国造りを担うはずだったのが、担えなかったという失望感もあるでしょう。
やっぱり、サリーム、シヴァ、パールヴァティの三人しか登場していないのに、子供「たち」というのはおかしいと思いますね。
そして真夜中の子供たち――あの是非とも粉砕しなければならない恐ろしい陰謀――占星術に凝った首相が怖くてふるえあがるような、あの命知らずの凶漢たち――近代の民族国家には相手にする暇も余裕もない、インド独立の奇怪な鬼っ子―― 一、二カ月足すか引くかすればみな二十九歳のこの面々は、四月から十二月の間に検挙されて〈未亡人たちのホステル〉に運ばれてきた。(下巻449頁)
インディラ・ガンディー首相が非常事態を宣言し、3万から25万もの人々が「政治犯」として逮捕され、自由を奪われた(下巻448頁)とあるので、「真夜中の子供たち」の逮捕を通して、彼女の独裁政治を描こうとしているのだと思います。
【史実】
インディラ・ガンディー(1917年 - 1984年)
インド独立の指導者ネルー首相の娘。イギリス留学から帰国し、1942年に結婚。1959年に夫が死去し、1964年に父も死去したため、1966年に首相となる。
インフレや汚職などに対する民衆の抗議活動が盛り上がる中、1974年5月に地下核実験を行い、国際的な批判を受ける。
1975年6月、インディラ・ガンディー政権は非常事態宣言を行い、言論・集会・結社の自由を大幅に制限、メディアに対する事前検閲を実施、大衆運動の指導者や野党指導者らを逮捕した。
この非常事態宣言は1977年まで続いた。
シヴァは自分が権力を得るために「未亡人」ことインディラ・ガンディー首相の側について、「真夜中の子供たち」を捕まえ、断種させたのです。
四百二十人が未亡人たちによって閉じこめられている。実はもう一人いて、こいつは長靴の音を響かせてホステルのなかを闊歩している――ぼくは彼が近づきまた遠ざかる臭いを嗅ぐことができる。裏切りの臭いだ――シヴァ少佐、戦争英雄、膝のシヴァが、ぼくら囚人を監視しているのだ。(下巻453頁)
「真夜中の子供たち」はそれぞれ特別な能力を持っていましたが、この「未亡人」も占星術師の言葉に従っているので、魔法VS魔法とも言えますね。
「インド国民は」と〈未亡人の手〉が説明した、「〈レディ〉を神のように崇めています。インド人はただ一つの神しか崇めることができません」しかし私はボンベイ育ちで、そこではシヴァ、ヴィシュヌー、ガネーシャ、アフラマズダ、アッラー、その他、数かぎりない神々がひしめいていた……「神々の館はどんな具合でしょう」と私は反論した、「ヒンドゥー教だけでも三億三千万の神々がいるじゃないですか? それにイスラムもあるし、菩薩もある……」
(下巻457-458頁)
だが私が〈未亡人の手〉から学び知ったことは、神になろうとする人にとって、他の潜在的な神々ほど怖いものはないということだ。またそれゆえに、ただそれゆえにこそ、われわれ真夜中の不思議な子供たちは、〈未亡人〉によって憎まれ、恐れられ、抹殺されるということだ。何しろ〈未亡人〉こそは、インド首相であるばかりか、最も恐ろしい姿をした母なる神デヴィ、神々の女性エネルギー(シャクティ)の所有者、統合失調的な髪をした、多くの手足を持つ多岐神になろうとしている人だ……(下巻458-459頁)
日本もそうですが、どうして政治と宗教が結びつくのでしょうか?
「未亡人」ことインディラ・ガンディーが占星術師を盲目的に信じていて、言いなりになっていたというわけではないと思います。
政治家は基本的には自分の意志で政策を決めていますが、自分の政策のお墨付き、後ろ盾のために宗教を利用するのですね。
インディラ・ガンディーは実在の政治家だから、「真夜中の子供たち」が断種された事件も、もしかして実際にあったことなの?
いや、「真夜中の子供たち」の断種はフィクションでしょう。
「真夜中の子供たち」を標的とした断種というのはフィクションだと思いますが、インドで人口抑制政策として強制的な不妊手術が行われてきたのは本当のことです。
【史実】
人口抑制政策と言えば中国の「一人っ子政策」がよく知られているが、インドにおいても人口増が貧困の主要な原因だとみなされ、人口削減政策が実施されていた。
インディラ・ガンディー政権は非常事態宣言(1975年~1977年)の間、都市の低所得者層のスラムを強制的に撤去したり、「ナスバンディー」と呼ばれる強制断種政策を行った。
この「ナスバンディー」の犠牲者は1000万人を超えるとされ、特に800万人以上の貧困世帯の男性が精管切除手術を強制されたと言われる。
「市内美化計画」の名のもとにマジシャンたちが暮らすスラムが強制撤去されて、サリームが逮捕され、パールヴァティが死んだエピソード(下巻437-443頁)は、実際の出来事を下敷きにして、物語に取り入れているのだと思います。
インディラ・ガンディーは、名字に「ガンディー」とつきますが、あのマハトマ・ガンディーと血縁は無く、インドの初代首相ネルーの娘です。
作中にもマハトマ・ガンディー暗殺事件が取り上げられていましたよね。政治的に対立していたイスラム教徒によってではなく、同じ仲間であるヒンドゥー教徒の手で殺されたというのが驚きでした。
インドの近代史において、政治家の暗殺事件はたびたび起こっています。マハトマ・ガンディーだけでなく、インディラ・ガンディーも最後は暗殺されましたし、インディラの息子も首相になったが暗殺されました。
実は血なまぐさい政治の国と言えます。
そう、彼らは私を足で踏みつけ、数が一、二、三、四億五億六億と進んでゆく、そして私を声なき土くれにしてしまう、そのうちに同様に数は私の息子ならざる息子、またその息子ならざる息子、そのまた息子ならざる息子を踏みつけにするだろう、そして千と一番目の世代まで同じことがくりかえされるだろう、そしてついに千と一つの真夜中がその恐ろしい贈物を与え、千と一人の子供たちが死ぬだろう、自分の時代の主人でもあり同時に犠牲者でもあること、私生活を捨てて群衆という絶滅に向かう渦のなかに呑みこまれること、そして平和に生きかつ死ぬことができないということは、真夜中の子供たちの特権でもあり呪いでもあるのだから。(下巻515-516頁)
時代の変わり目に生きた人々は、平和に生きられないということだと思う。
作中の言葉で言えば、「愛の祈り」であり「本物の真理の味」(下巻511頁)ということでしょう。
ある日もしかして、世界はピクルスの味がしてくるかもしれない。それはある人たちの舌には強すぎるかもしれないし、臭いがきつくて涙が出るかもしれない。それでも私はそれが本物の真理の味を持っていることを願う……それがともかくも愛の祈りであることを。(下巻511頁)
最後、あまりにもきれいにまとめているので、正直驚いたわ!
作者はインドの未来をどのようにイメージしたのでしょうか?どのようにあればよいと考えたのでしょう?
未来は書けないから「空のびん」に入れてとっておくということですね。
しかし未来は壜詰めにはできない。一つの壜は空にしておかなければならない……(下巻512頁)
サリーム=インドと考えるならば、サリームを不能とすることで、過去のインドとの断絶を示しているのだと思います。
本当は血縁がないにもかかわらず、サリームの大きな鼻は祖父アーダム・アジズの大きな鼻が遺伝したかのように書かれていて、作者は意図的に読者を誤認させていますよね。
たとえ血のつながりがなくても、サリームはアーダム・アジズの孫であり、家族の歴史は受け継がれ続けるということではないでしょうか。
一族の精神を連綿と受け継ぐのは、血ではなく、教育ということです。だからサリームは血のつながらない自分の息子にこの小説を書くことで、家族の歴史を伝えようとしていると言えます。
シヴァとパールヴァティはヒンドゥー教の神々を象徴しているから、二人の子であるアーダムが大きな耳をしているので、ガネーシャをイメージしているのかなと思いました。
たしかにアーダムは「象頭のガネーシャ」(下巻417頁)と言われているので、身体的特徴が血縁上の親子の証なのでしょう。
サリームは家族の歴史を伝えることで、精神的な意味でアーダムと親子になろうとしてますね。
この小説に希望は書かれているかな?希望があるとすれば、それはどのような意味においてだと思う?
三十本の壜が棚の上に光っていて、健忘症にかかった国民の上にぶちまけられるのを待っている、(そのかたわらで一本の壜が空のままだ。)(下巻509頁)
「三十本の壜」というのは、本作の第1部から第3部までの全30章を指しています。
そのなかには1915年から1978年までの歴史が詰まっています。
未来は「空のびん」というところに希望があると思います。
その「空のびん」には「真夜中の子供たち」の第二世代が入っているのです。
いや、単純な希望ではなく、人の営みは繰り返されるということだと思います。「愛の祈り」が通じるかどうかは分からないものです。
引用:
サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』(寺門泰彦訳、岩波文庫、上・下巻)より
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