第2談 作者は何を伝えたかったのか?

文字数 3,465文字

※ネタバレ注意※

ポーランドでもチェコでもハンガリーでも、第二次世界大戦の敗戦直後からドイツ人虐殺が始まりました。

戦後の大混乱で、東プロシア、ポーランドからドイツ人が大移動する中で、数百万人の犠牲があったと言われています。

第二次世界大戦の死者数は、ユダヤ人が約600万人、東欧ドイツ人が約200万人。

多くの避難民が亡くなったグストロフ号事件は悲惨だと思うけど、やっぱりユダヤ人の死者数の方が圧倒的に多いわ。

作中で、グストロフ号事件の加害者として、ソ連という国ではなく、マリネスコという潜水艦の艦長個人をクローズアップしているのはなぜなのかしら?

【史実】

ヴィルヘルム・グストロフ号を撃沈させたソ連軍潜水艦S13号司令官アレクサンドル・マリネスコは、1945年9月に降格処分を受け、罷免された。

建築材料管理の職についたが、ほんのささいなことで裁判にかけられ、東シベリアの強制収容所に送られ、重労働を科せられた。

スターリンの死後、1960年代にマリネスコはようやく名誉回復され、「ソ連邦英雄」の称号が授けられ、記念碑が建てられた。

マリネスコの記念像ができているとは、驚きだったわ!


たしかにマリネスコが艦長を務める潜水艦が発射した水雷によって、9000人を超える女性や子供が亡くなったのは事実だけど……

マリネスコだって、戦果をあげなければ銃殺刑にされていたかもしれない。

たまたま偶然が、歴史を動かしたということを作者は伝えたかったのではないでしょうか。

作者はタブーだった問題を明らかにしたかったのだと思います。
なぜコニーは「ダヴィド」を殺したのか?
「母に何の罪もありません。何度もアウシュヴィッツの話をされて、いらついたことはありましたが、ただそれだけです。それから父ですが、なんら問題ありません。ぼくが年来しているとおり、当法廷も父のことは、きれいさっぱり忘れてください」

 わが息子は私を憎んでいたのだろうか? そもそもコニーに憎む能力があるのだろうか? ユダヤ人憎悪は何度も否定した。私はむしろ即物的な憎悪を言いたくなる。弱火の憎悪、ゆっくりと燃えている、情熱のない、チロチロと炎をあげてひろがっていく憎悪。

 母はこの孫をヴィルヘルム・グストロフへ手引きした。それを弁護人は父親不在の代償と解釈したが、あながちまちがってもいなかったのだろうか?

(ギュンター・グラス『蟹の横歩き』214頁)

コニー自身、「ユダヤ憎悪ではない」と言っているのに、なぜコニーは「ダヴィド」を殺したのでしょうか?

ネット上での「このつぎは、きみがぼくをズドンとやってくれ」(57頁)という「ダヴィド」の台詞が、コニーが実際に「ダヴィド」を殺す伏線となっています。


祖母トゥラがパソコンと銃を孫コニーに買い与えて、事件に至る舞台を整えているわけです。

つまり、祖母が孫を代理人にした復讐劇でもあると言えます。

全てがコニーの事件に収斂する物語ですね。

コニーが犯した事件が祖母の代理復讐なら、ユダヤ人ではなく、グストロフ号を沈めたロシア人に復讐心が向くのが自然だと思うのですが……

コニーはヴィルヘルム・グストロフ暗殺事件をなぞらえて、「ダヴィド」を殺したのよ。

つまり、グストロフ号沈没事件の復讐ではなく、ユダヤ人青年に暗殺されたグストロフ個人の仇を討ったわけ。

主義主張が理由ではないと思うわ。

【史実】

スイスの天文台で書記として働いていたヴィルヘルム・グストロフは、ナチス幹部のグレーゴル・シュトラッサーからスイスのナチ党指導者に任じられた。


ダヴィド・フランクフルターは、セルビアでユダヤ教のラビの家庭に生まれた。家庭ではヘブライ語とドイツ語、学校でセルビア語を話していた。

医学を志し、ドイツで勉強をはじめたが、ユダヤ作家の書物が焼かれるようになり、実験室の自分の机にダヴィデの星が描かれた。

憎悪が身近に迫ってきたため、安全なスイスへ逃れ、そこで勉強を続けたが、母親が死に、オラーニエンブルクやダッハウの強制収容所のことを新聞で知る。


1936年2月4日、ダヴィド・フランクフルターはスイス・ナチ党幹部に面会を求め、ヴィルヘルム・グストロフと対面するや否や、ピストルで撃った。

フランクフルターは駐在所に自首し、「射ったのは、自分がユダヤ人だからで、何をしたか、よくわかっている。決して悔いたりしない」と法廷で答えた。


ヴィルヘルム・グストロフは、ナチスの国外管区指導者の一人にすぎなかったが、その死とともに、得難い人物として祭り上げられた。


戦争の終結により、ダヴィド・フランクフルターは18年の刑期のうち9年目で恩赦を受け、1945年6月1日に釈放され、イスラエルへ移住した。

大義があれば人を殺しても良いと、コニーは思っていたのでは?
コニーにとっての大義ってなに?

「ダヴィド」を殺した理由について、「ドイツ人だから」(192頁)とコニーは言っています。

これはダヴィド・フランクフルターが、ヴィルヘルム・グストロフ暗殺の理由を「ユダヤ人だから」と答えたのをなぞっていますね。

「ドイツ人だから」という考えは、どうして形成されるんですかね?

コニーは本物のユダヤ人に一度も会ったことがなかった。

ユダヤ人に一度も会ったことがないのに、ユダヤヘイトが生まれる理由はなんなのでしょう?

ドイツの学校では反ナチス教育を行っていますが、生徒たちは先生の言うことに反発します。

コニーの母親は教育者でしたが、息子には何も伝わっていなかったわけです。

ネオナチというのは突出した少数派だと思っていましたが、本書を読んで、想像よりもずっと母数が多いのではと感じました。

学校教育で、過去にドイツ人がユダヤ人を大量殺戮したという歴史を子供たちに教えたとして、コニーのように反発する生徒もいれば、「ダヴィド」のように罪の意識にさいなまれる生徒もいるはずです。

コニーと「ダヴィド」はその両極端の例だと思います。

作中において、ネット上で「ユダヤ人のダヴィド」になりきっていたヴォルフガング・シュトレンプリンは、両親ともにユダヤ人ではなく、先祖代々ドイツ人という家庭に生まれた、過去の言い方で言えば「純アーリア系」の高校生だった。


ヴォルフガングは14歳頃から自分を「ダヴィド」と名乗るようになり、戦争犯罪や大量虐殺に対する贖罪の考えにとりつかれ、ユダヤ的なものはすべて聖なるものだと考えるようになり、ダヴィド・フランクフルターを敬っていた。


ヴォルフガングの両親は、自分たちの息子が正統派ユダヤ人のような小さな帽子を頭にのせてコンピュータに向かっているのを見て、気持ち悪いと思っていた。

ヴォルフガングがネット上で「ダヴィド」と名乗って、ユダヤ人になりきっていたのは、そうふるまうことによって、自分自身がドイツ人であることの罪の意識から逃れるためだったと思います。

コニーの両親も「ダヴィド」の両親も、息子の心を理解できていなかった


本作は、コニーの父親パウルの視点で書かれているため、コニーも「ダヴィド」も内面が描かれていません。

パウルは「リベラルの家庭で育った息子が右へ迷いこむことはない」と高をくくっていたわけです。

だから両親は事件が起こるのを止められなかったし、事件が起こった後も、どうして自分たちの息子が加害者と被害者となったのか、理由がわからないまま……

パウルたち父親世代の右にも左にもうろうろする「蟹の横歩き」は、息子であるコニー世代から見れば、ただ逃げてるだけで、確固たる信念がないように思えるんだろうね。

世代間の断絶がありますね……
ネットの登場で、世代間の断絶はより深まったんじゃないかな。
歴史修正主義者は実際に多くいますが、それにいちいち反論すると疲れてしまうので、つい放っておいてしまいがちです。

そうして放っておくと、歴史修正主義者の意見が正しいということになってしまう。 

現実問題、戦争体験者が消えていっています。

そうなると、歴史修正主義が台頭するわけです。

体験者だって、自身の体験を語るのはごく少数で、多くの体験者は黙して語らないわ。

この物語でも、トゥラだけがグストロフ号事件について語っていて、イェニーおばさんは何も語らない。

「終わらない」という結末は、何があったか、何がなかったかという論争が今後も終わらないことを示していると思います。

ぞっとしますね。

終わらない。決して終わらないのだ。(239頁)
つづく
引用:ギュンター・グラス『蟹の横歩き―ヴィルヘルム・グストロフ号事件』(池内紀訳、集英社)より
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

枳(からたち)さん


読書クラブの取りまとめ役。

今読んでいる本は、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』。

弓絃葉(ゆづるは)ちゃん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、『やし酒飲み』、『密林の語り部』。

真弓(まゆみ)さん


韓国ドラマファン。

樒(しきみ)先生


昨年は9カ月間、大江健三郎の著作に熱中していた。

堅香子(かたかご)さん


『アンナ・カレーニナ』が好き。

栂(つが) くん


好きな作家は安部公房。『砂の女』と『壁』がおすすめ。

梧桐(あをぎり)さん

榊(さかき) さん


アジアンドキュメンタリーズのサブスク会員で、アジア各国の番組を見るのが好き。

山菅(やますげ) さん


BS12の東映任侠映画「日本侠客伝」シリーズを見るのが、毎週水曜日の楽しみ。

檜(ひのき) さん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、三兄弟のなかではアリョーシャが推し。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色