第13談 「憎むということの意味」をわかってほしかった

文字数 3,616文字

※ネタバレ注意※
「憎むということの意味」をわかってほしかった
抵抗運動組織に拉致されたアミーンが、処刑されずに生きて返されたのはなぜだと思いますか?
膝をつかされ、頭の袋が取り去られる。最初に目に入ったのは、血塊が飛び散って弾痕による凹みが目立つ大きな石だった。死の匂い。この場所では特に強く鼻につく。相当数の人間がここで処刑されたのだ。私はこめかみに小銃の銃口を突きつけられた。「カアバがどちらがおまえにはわからないだろうが」とその男が言う。「どんなときでも祈りの言葉は口にしていいものだぞ」(中略)トランシーバーから漏れ聞こえる断続的な音が、ぎりぎりのところで私を救った。処刑人には血なまぐさい刑の執行延期と、拘束した場所へ私を連れ戻すようにと命令がくだされた。

(ヤスミナ・カドラ『テロル』229-230頁)

アミーンがイスラエル当局のスパイではないとわかったからでしょう。
自分たちの活動の資金援助をしてもらうために、裕福な同化アラブ人であるアミーンを解放したんじゃないですかね?
いや、アミーンは当局に目をつけられているから、それはないと思うよ。
シヘムは抵抗運動組織の「テルアビブ支部のかなめ」(236頁)で、「自分の銀行口座を自由に使わせてくれた」とアデルが言っているので、彼女がいなくなったら組織にとっては痛手だと思うのですが……
アミーンを六日間地下に拘束し、死刑執行の模擬行為を二度も行った理由は、「憎むということの意味」(232頁)をわかってほしかったからだと、抵抗運動組織の若い司令は語っているね。
うまくいったかどうかはわからないが、あんたには身をもって憎しみを実感してもらいたかった。俺はあんたに関しての徹底的な調査を命じた。報告によると、あんたは善良な男で、立派な人道主義者でもある。人の不幸を望むような人間ではない。だから、あんたから社会的な地位を剝ぎとって泥にまみれさせてからでなければ、本当のところはわからないと思った。(231頁)

憎むということの意味を学んでくれたと思いたいが、どうだろう。違うなら、これは無駄だったということになってしまう。あんたをここに閉じこめたのは、憎しみの味を知ってほしかったからだ。(中略)

なぜ我々が武器を手にしたかを理解してもらいたかった、ジャアファリ先生。なぜ年端もいかない子どもたちがまるで飴玉に群がるみたいに戦車に飛びつくのか、なぜ我々の墓地が飽和状態なのか、なぜ俺が武器を手に死にたいと思っているか。そして、あんたの奥さんがどうしてハンバーガーショップで自爆したのか。(233頁)

実際、10月7日に起こったハマースによるテロ攻撃では、たった1日で犠牲者数が千名を超え、拉致された人の数も200名以上です。

10月8日にイスラエル政府はハマースに対する戦争を決議し、「鉄の剣戦争」と命名し、正式に戦争に突入しました。

テロは悲しみの連鎖しか生まないのに、なぜ人はテロから解放されないのでしょうか?

無くすことはできないのでしょうか?

テロを行う人の感情を、作者は抵抗運動の司令の台詞(232-233頁)を通して読者に説明しているわね。

ハンバーガーショップで自爆することで、シヘムは11人もの小学生の命を奪っています。

ユダヤ人であるという理由だけで、この子供たちを殺したのです。

現実にハマースが起こした10月7日のテロでは、乳児から老人まで無差別に殺害しています。

どうしてこのようなことが平気でできるのか……

「憎むということの意味」(232頁)という言葉があったけど、僕たちはそれを理解していない。

だから「テロとの戦い」「テロ撲滅」と言っても、テロはなくならないのだろう。

作者は何を描きたかったのか?
作者がこの作品で書きたかったことはなんでしょうか?

この作品のテーマは何だと思う?

本書は、主人公の妻が自爆テロを引き起こした動機、何が彼女を駆り立てたのかをめぐる物語です。

しかし、実行犯である妻の内面を描かなかったため、テロの本質が描けていないと思います。

たしかに、作者はなぜかシヘムの内面を書いていません。

シヘムの立場の描写が少ないので、もっと書いてほしかったです。

イギリスと北アイルランドの紛争のとき、イギリス人でアイルランド共和軍(IRA)の支援者もいました。

自爆テロの動機をこれだ、と書いてしまったら、そうではないと思う読者も出るはずです。

はっきりと動機が分からないのがテロなのだと思います。 

テロの動機は民族問題に加えて貧富、格差の問題もありますね。
シヘムの個人的な問題だけでなく、パレスチナのアラブ人全体の問題だと思います。

作者がシヘムの内面を書かないのはわざとだと思います。 

丹念に描かれているのは、アミーンの苦しみです。

たしかに、外科医としてのアミーンの内面はよく書けています。

テロそのものを題材にしたものではなく、テロが引き起こした悲しみを作者は書きたかったのではないでしょうか。
そうだとしても、シヘムの自爆テロによって死んだ被害者とその遺族について描いていないのは、説得力に欠けますよ。
エズラ・ベンハイムによると、死者の数はまだ増えるとのことで、現時点で死亡が十九――うち十一人は小学生で、標的にされたファストフード店で同級生の誕生日を祝っていた――で、手足の切断が四名、重体が三十三名だという。(中略)半狂乱の母親が私の腕にすがりつき、刺すような目で見つめてくる。「私のちっちゃなあの子はどうなりましたか、先生。あの子は大丈夫ですよね」(19-20頁)

たしかに、アミーンが被害者の治療に当たるのはそれが仕事だからで、妻が犯人だとわかった後に、個人的に被害者の死を悼んだり、遺族に謝罪するといった展開はないですね。

被害を受けた人たちの心情も大事なテーマだと思います。

アミーンは、妻のせいで「屋敷は壊され、キャリアも台なし」(130頁)にされたと激しく憤るばかりで、事件の被害者や遺族に対しては無関心です。

作者がそこを意図的に描いていないということは、アミーンの性格を表しているのではないかと思います。

アミーンの人物像は、読んでいて好きになれませんでした。

彼は出世主義が強くて、教育を積んだ人であるのに、自分の幸福しか考えていません

あなたは、黄金の牢獄でぬくぬくと暮らしているのをいいことに、我々の地獄から目を背けている。とはいえ、それはあなたの自由だ。(170頁、抵抗運動組織のリーダーの言葉)

父親に医大まで行かせてもらって、立派に成功したのだから、今度は自分が部族の若者や子供たちの就学を援助することもできたでしょうに、アミーンには故郷に恩返しする的な発想がないんですよね。

彼女にとって身の証しを立てる唯一の方法が、大義のための活動に加わることだった。苦悩に面した民族の出身の一人として、そう思うことはごく自然な成り行きだったのさ。(中略)シヘムは抵抗している民族の娘だった。(243頁、アデルの言葉)

アミーンだって「苦悩に面した民族の出身の一人」「抵抗している民族の息子」であるのに、妻が事件を起こす前は、故郷の人々に全く心を寄せていませんでした。

彼がいっそ不自然なほど故郷に無関心だった理由は、「自分の能力を自分の陣営に選んだ」からだと言えます。

私はかなり若い頃にさとった。どっちつかずでは何の意味もない、属すべき陣営を早く選ぶべきなのだ、と。私は自分の能力そのものを自分の陣営に選び、仕事への信念を味方に選んだ。(104頁)
騒乱と抑圧の支配するこの地に背を向けることで、私は自分をつなぎとめるロープを断ち切ったつもりでいた。親戚たちのようにはなりたくなかった。貧困を受け入れ、禁欲を糧とする暮らしはしたくなかった。(260頁)

アミーンはベドウィン族出身でイスラエル国籍を取得していますが、内心ではユダヤ陣営にもパレスチナ陣営にも帰属意識を持っておらず、きわめて個人主義だったと言えます。

こういう根本的な価値観の違いが、夫婦のすれ違いの原因なのかもしれませんね。

やっぱり、メロドラマだからフランスでウケたのよね。

映画化されたのもわかるわ。

レバノン出身のジアド・ドゥエイリ監督による映画が、2012年に公開されています。
メロドラマはたしかに物語を進める原動力になっていますが……
結局、アミーンにとって最も重要で、いちばん真相を知りたかったことは、妻が不貞をしていたかどうかですからね。
その瞬間に限っては、戦争も大義も天も地も、殉教もその記念碑も、私にとってどうでもいいことだった。(中略)今の私が何よりも知りたくて、世界でいちばん重要に思えること、それはシヘムが夫の私を裏切っていたかどうかだった。(237-238頁)
読者は男と女のあり方に関心があるものだから、物語を進める作者の手腕は見事です。
つづく
引用:ヤスミナ・カドラ『テロル』(藤本優子訳、早川書房)より
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登場人物紹介

枳(からたち)さん


読書クラブの取りまとめ役。

今読んでいる本は、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』。

弓絃葉(ゆづるは)ちゃん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、『やし酒飲み』、『密林の語り部』。

真弓(まゆみ)さん


韓国ドラマファン。

樒(しきみ)先生


昨年は9カ月間、大江健三郎の著作に熱中していた。

堅香子(かたかご)さん


『アンナ・カレーニナ』が好き。

栂(つが) くん


好きな作家は安部公房。『砂の女』と『壁』がおすすめ。

梧桐(あをぎり)さん

榊(さかき) さん


アジアンドキュメンタリーズのサブスク会員で、アジア各国の番組を見るのが好き。

山菅(やますげ) さん


BS12の東映任侠映画「日本侠客伝」シリーズを見るのが、毎週水曜日の楽しみ。

檜(ひのき) さん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、三兄弟のなかではアリョーシャが推し。

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