第14談 和解に向かう道はあるのか?
文字数 4,042文字
真実を探求する旅を終えて、アミーンは妻の自爆テロをどう受けとめて最後を迎えたのでしょうか?
処刑寸前という強烈な恐怖体験によって、アミーンが「自尊心」を奪われ、「唯々諾々と相手の言いなり」になったことを恥じる場面がある。(227-228頁)
ここを読むに、彼も妻の気持ちを少しは理解できたのではないか。
アミーンの立ち位置が、最初は妻が自爆テロ犯ではないと頑なに否定する立場から、事実を受け入れて、その動機を知るために行動する立場に変化していきます。
物語としては自然な流れですが、主人公の描き方に希望がないという不満が残りますね。
アミーンは最後まで変わらないように見えるけど、冒頭の死の場面と最後の死の場面は描写のトーンが違っているから、ビフォーアフターがあると思う。
【物語の構成】
物語の冒頭、第1章の前に章題が付けられていないプロローグがあり、老師(シャイフ)を狙った爆弾に「私」が巻き込まれて、死ぬ様子が語られている。この「私」が誰かを明かさないまま作者は物語を進めるが、第16章の最後でもう一度同じ描写を繰り返し、冒頭で死んだ男は主人公アミーンであったと読者に明かす仕掛けとなっている。
身体が地面に触れた瞬間、すべてが凍りついた。大破した車両から上がっている火柱、空中の破片、煙、混沌、臭気、時間。例外は一つ。神々しい歌声が底知れぬ死の静寂を押しのけて、朗々と響いている。
――いつの日か、私たちは戻っていくだろう、もと来た場所へ。
(中略)
次々と伸びてくる腕によって私は車内へと引き入れられ、幾つもの死体が並んでいるところに無造作に寝かされた。最期の痙攣とともに、自分の嗚咽が聞こえる……「神よ、もしこれが悪夢なら、どうか目を覚まさせてください、お願いですから今すぐ……」
(ヤスミナ・カドラ『テロル』4-7頁、冒頭の死の場面)
私は理解した。つまり、そういうことか。おしまいなのだ、私はもう……。(中略)祖父の家がこの上なく美しい姿で太陽の光を浴びて建っている。男の子が走っていく。苦痛よりも速く、運命よりも速く、時よりも速く……。”そして夢を見なさい”と芸術家の父親が励ましてくる。”自分が美しく、幸福で、不死である夢を……”と。不安や恐れから解き放たれたかのように、男の子は両腕を羽根みたいに広げて塀の上を渡っていく。輝く笑顔、歓喜の瞳、そして父親の声に持っていかれるように、ひらりと空へ向かって身を躍らせる。”すべてを奪いとられることもあるだろう。大切にしているもの、一生で特に素晴らしいはずの歳月、人生の喜び、功績、全財産――たとえそういうすべてを失おうと、あらたに世界を築くための夢だけは、誰もおまえから奪うことができないんだよ”。(272-273頁、最後の死の場面)
最後に語られた五行が、アミーンが「通過儀礼の旅」(250頁)を経て最終的に気づいたもので、全財産よりも大事なものだと言えます。
いや、むしろ理想を語るべきで、もっと語ってほしかったですね。安易に主人公を殺す結末はだめだと思います。
安易だとしても、作者はこうするしかなかったのでしょう。
なぜ作者は主人公アミーンが死ぬ結末にしたのでしょうか?
そう、主人公がイスラエル軍の攻撃で殺される結末では、作家の立場が「イスラエル批判でパレスチナ擁護」として解釈されかねないです。中立的とは言えなくなるのに、作家はなぜ主人公を殺したのでしょうか。
作者自身が、テロを終わらせる解決策を持っていないからだと思いますね。
イスラエルとパレスチナの対立をどのようにすれば解決するのか、という政治展望を作者が持っていなかったからでしょう。
自爆テロは「命よりも大事なことがある」という考え方だけど、アミーンは「命が一番大事」という考え方だ。
「命が一番大事」という考え方は、画家である父親ラドワンからアミーンが受け継いだものですね。
父はよく言ったものだ。「おまえを動かす息吹よりも大いなる調和があると言う者がいたら、それは嘘つきだ。(中略)それと、おぼえておくんだ。”おまえの命以上のもの”など何一つ存在しないということをな。おまえの命にしても、他の者の命以上のものではない」私がそのことを忘れたことはなかった。(106頁)
宗教のため国のため、誰しもがテロリストになるしかない。こういう状況下でも、「命が大事」ということを訴えるためにアミーンの存在があると思います。
祖国と尊厳を取り戻すために「ためらうことなくみずから命を捧げる」(170頁)という生き方とは、アミーンは対極の位置にあります。アデルや抵抗運動の男たちと根本的に価値観が違うので、互いに理解し合えないわけです。
「人の命を国のために」となるのは、どうしてなのでしょうか?私もそうですが、そのようなことを考えないで生きている人間もいます。
社会の常識とは何なのか、自分で考えることをしないと、と改めて思いました。
アデルのような男に、本当に何かを期待していいのか。いや、おそらく無理だろう。何を相手に期待するかについて、私たちには根本的な考え方の相違がある。彼にとって天国は人の一生の果てにあるものであり、私にとってそれは本人の手の先にあるものだ。(239-240頁)
人間の幸福のために宗教があるはずなのに、対立があります。
宗教は必要なものだが、怖いものでもあると今一度考えさせてくれた作品でした。
もしアミーンが死ななかったら、この後の生き方はどうなったと思いますか?
アデルや司令のように、生きる意義が「死ぬこと」になると思うわ。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という精神性と、どこか似たものがありますね。
イスラエル国内に留まるなら、抵抗運動の支援者となると思います。アメリカに移住しようと考えている場面もありましたね。
むしろ病院を退職して、ゼエブのような世捨て人になるのではないでしょうか。
パレスチナとイスラエルの和解のための第三の道を模索し、ゼエブや父親の夢を継承すると思います。
ゼエブは魅力的な人物だ。少々風変わりだが、思慮深く、社会の拘束を受けない聖人のように、物事はすべてあるがまま、いちいち選りわけたりせず、まず全体で受け入れることをよしとしていた。(中略)「人の一生は犠牲などよりも遥かに価値がある。どれほど至高の犠牲であろうとも、な」私の目をとらえながら、彼は言う。「そもそも、この世で何よりも偉大で、何よりも正しく、何よりも貴い大義とは、生きる権利なのだからな……」(261-262頁、アミーンとゼエブの対話)
アミーンの父親とゼエブは友人だったので、二人の思想は共通していますね。
テロリズムはいつまでも続くのでしょうか?回避の方法はありえるのでしょうか?
抵抗運動の司令は「自分の狂気を正面から受け入れるか、耐え忍ぶかしかない」(234頁)と言っています。
「自由か墓か、尊厳か死か」(172頁)という二項対立では、イスラエルとパレスチナの対立は解決しないでしょう。
抵抗運動の男たちは、死ぬことによって、社会の中での自分のアイデンティティを証明しようとしています。
明らかに、アデルはもはや生者に属してはいなかった。将来への落胆を忌み嫌ってか、アデルは未来に背を向け、生き延びることを拒絶している。彼は自分で自分の肩書を選びとった。殉教者というその肩書は、本人にしてみれば、自分の素性にいちばんしっくりくるのだという。どうせなら信じている大義に殉じて死にたい、と。(249頁)
「死」しかない社会で、アミーンの生き方は「生」を代表しています。
アミーンの存在は、閉塞した社会から抜け出す出口に通じるヒントとして重要なのだと思います。
ゼエブの存在は、パレスチナ人とユダヤ人が一緒に暮らしていた時代の名残をとどめるもので、両民族が共存する社会の理想像を示しているのだと思います。
「”主は言われる、あなたがたが捧げる多くの犠牲は、わたしに何の益があるか。わたしは飽いている。”」
「イザヤ書の第一章第十一節ですね」私は言った。
(中略)
「まったく驚いたものだ」老人が言った。「イザヤ書なんぞを、いったいどこでおぼえたのかね」
「パレスチナのユダヤ人は多少ともアラブ化しているし、イスラエルのアラブ人にしても、自分がまったくユダヤ化していないなどとは言えないでしょうね」
「まったくそのとおりだ。だが、お互いに交わりあっているというのに、どうしてあれほど激しい憎しみが生まれるのかね」(258-259頁、アミーンとゼエブの対話)
「物事はすべてあるがまま、いちいち選りわけたりぜず、まず全体で受け入れることをよしとする」(262頁)というゼエブの生き方は、仏教の「空」の思想と同じです。イスラエル、パレスチナと選り分けず、曖昧にした方がいいこともあると思います。
アミーンの父親の存在も、「族長としてではなく、自由人としての生き方がある」と提示しているのではないでしょうか。
アモス・オズも
「自分の立場を絶対としないこと」と言っています。
これは、デリダの脱構築の考え方とも共通しています。
つまり、自分の立場を絶対としないこと。もしかしたら、別の立場、別の見方もあって、それも正しいかもしれない、とある種の曖昧さを残しておくべきだということだ。(アモス・オズ『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』より)
対立する中から第三の立場が出てくるはずです。
パレスチナとイスラエルの対立を解決できる第三の道が出てくることを願いたいですね。
引用:ヤスミナ・カドラ『テロル』(藤本優子訳、早川書房)より
参考:アモス・オズ『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』(村田靖子訳、大月書店)
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