第1話:嵯峨勝一の誕生と時代背景

文字数 2,075文字

 嵯峨勝一は、千葉県市川市の南端、中山競馬場の迄、徒歩15分足らずの家で生まれた。船橋高校を卒業し千葉大経済学部に合格した。その後、1972年4月からT銀行に勤めて真面目に働いていた。4月16日、川端康成が逗子市でガス自殺したとラジオのニュースで流された。5月13日、大阪の千日前の千日デパートで火災が起こり、死者8人、負傷者81人の惨事となった。

 6月11日、田中角栄通産相が「日本列島改造論」発表し日本のバブルのきっかけとなった。1972年7月12日、あの名馬、ハイセイコーが大井競馬場でデビューした。8月3日、カシオ計算機が世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」を新発売し日本の小型電算機の先駆けとなった。9月25日、田中首相訪中し、周恩来と会談した。その後、9月29日、歴史的な日中国交正常化の共同声明に調印した、

「田中角栄と周恩来が、全力で握手している姿を見て、わけもわからず、感動した」
「やがて、万感の思いがこみ上げ、徐々に涙がこみ上げてきた」
「その後、涙を拭いても拭いても、後から、後から、湧き上がってきた」
「ラジオで日中戦争後、生き別れになった日本の子供達の放送を聞いたせいかもしれない」

 10月28日、日中国交正常化を記念して上野動物園にジャイアントパンダのランラン、カンカンが来園した。ところが、12月10日の第33回衆議院銀選挙で自民党は284議席「前回比-16議席」と安定多数を維持したが、日中国交正常化という実績を引っさげ「日中解散」、角栄人気の中で臨んだ中、事前の予測に比べ、やや不振とされた。

 自民党の得票率そのものが大きく下がったわけではないが「-0.78%」、大勝した前回衆院選を11人上回る候補者を擁立する強気の姿勢が裏目に出た形となった。また、保守系無所属を加えても得票率では初めて半分を割るなど、前回参院選に続き、保革伯仲時代の到来を予感させる結果となった。社会党は候補を減らす安全策で118席「+28議席」と3桁を回復した

 ちなみに、この選挙で小泉純一郎、加藤紘一、山崎拓、三塚博、村山富市などが初当選した。やがて1973年が明けた。1973年3月20日、熊本地方裁判所、水俣病訴訟で、チッソ水俣工場の廃液が原因であったことを認める判決が下された。
「この実況放送を聞いていた時、以前、本屋で見た水俣病患者の写真を思い出した」
「何て、理不尽なんだろう、たまたま、水俣で生を受けただけなのに・・・」
「そんな事を考えていると、また、涙が止まらなくなってしまった」

 この頃、嵯峨勝一は、勤務している銀行の命令で千葉、幕張、船橋の商店街を回り新規融資先の新規開拓の仕事をしていた。夏は暑く、冬は、海からの寒い風を感じながら、業績アップのため、汗をかいていた。この頃、銀行の融資先争いの競争は、激しさを増していた。1973年10月23日、江崎玲於奈のノーベル物理学賞受賞が決定する。

 11月1日、巨人がパ・リーグの覇者・南海を4勝1敗で下し日本シリーズ9連覇を達成した。11月20日、イトーヨーカ堂によりセブン-イレブン「当初の社名はヨークセブン」を設立した。1973年は、日本国内での出生数209万人とピークを迎えた。しかし、日本全国で、同時多発的にコインロッカーに乳幼児を遺棄する捨て子事件が43件も発生した。

 この捨て子をコインロッカーベイビーと呼ばれ社会問題化した。やがて1974年が明けた。1974年3月10日、フィリピン・ルバング島で陸軍中野学校出身の小野田寛郎元少尉が発見された。

 小野田の日本帰国は日本人に衝撃を持って受け止められ、日本の主要テレビ各局が、特別番組を編成し、大勢の日本人がテレビに釘付けになった。3月12日1時間余りNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」は45.4%%の視聴率を記録した。新聞主要紙の社説の論調は小野田を戦争の犠牲者と位置付ける傾向があった。

 その一方で直後に新聞投書欄に寄せられた市民の意見の中には小野田の任務への忠実さを賞賛し英雄視するものが多く見られた。帰国の際に「天皇陛下万歳」と叫んだことや現地軍との銃撃戦によって多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになった。しかし、フィリピン政府当局の政治判断により小野田への訴追は行われなかった。

 また本当に日本の敗戦を知らなかったのか、という疑問が高まるに連れて、マスコミからは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判も受けた。小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否した。しかし、見舞金を渡されたので小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを靖国神社に寄付。

 昭和天皇への謁見も断り「万が一、天皇が謝罪するようなことを避けるため」、新宿区の国立病院医療センターに入院後、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を墓参した。小野田さんの騒動を見て嵯峨勝一は、素晴らしいと思ったが何か心の中にトゲが刺さっている様な奇妙な気持ちになった。こうして1975年が明けた。
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