第16話 『道はいつもひらかれている』

文字数 2,768文字

 ネットで調べものをしているときに、たまたま目に入ってきた「古谷綱武(ふるやつなたけ)」という名前。
 あっ、と思い、次の瞬間、記憶の扉がバーン! と開く音が聞こえました。

 わたしが毎日のようにラジオを聴いていた頃。
 声優の山寺宏一さんがパーソナリティを務められていた番組内で朗読された、とある詩が、とても印象に残っていて。
 当時、ガラケーを使っていたわたしはすぐさまネットで検索し、メモ帳に貼り付けていたのですが、そのガラケーは急に電源が入らなくなり、当然メモ帳も見られなくなってそのままで。
 月日が過ぎて、詩の作者の名前もすでにうろ覚えとなり、頭の片隅になんとなく微かに残っていた記憶の欠片が、今日、ふいに形を取り戻したのでした。

 ものすごく長い詩なのですが、自分用への覚え書きとして、また忘れてしまう前に、こちらに書き記しておきます。
 ご興味のある方は最後までご覧くださるとうれしいです。

 ***

『道はいつもひらかれている』古谷綱武

道は、すべての人の前にひらかれている。
その人に、やる気があるかないかだけである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、道がとざされていると思う人の前には道はとざされている。
自分はだめだと思う人はだめになっていく。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、自分が生きていくべき人生は、自分で発見していくよりほかにはないのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、生きがいとしあわせとをつかみあてるその鍵は、自分の心の姿勢の中にだけしかない。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、個性のない人生は真実の人生ではない。
たとえ優れた人のまねをしても、まねをすることでつかみあてられる「自分の人生」というものは、この世にはないのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、人生を暗く生きようとする人には、明るい人生も暗くしか生きられない。
人生を明るく生きようとする人だけが、暗い人生さえも、明るく生きていくことができるのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、自分からあきらめてしまうことは、もはや生きることではない。
その人の前では道もとざされる。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、人が一度でやり遂げられることが自分には、一度でやり遂げられないこともある。
一度でやり遂げられないことは、十度やってみよう。
十度やってもやり遂げられないことは、百度やってみよう。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、やり遂げるまではけっしてあきらめないこと、そしてそのやり遂げようとするその心をけっして失わないこと。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、見栄や虚栄心、にくしみやうらみ、欲の深さや身勝手な自分本位、そうしたものに心をしばられていると、その心の束縛の不自由さによって、その人は、自分から自分の道をとざしてしまうことがある。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、求める心があるならば、恥をかくことはけっしておそれまい。軽薄な虚栄心などに心を縛られまい。
また、人をにくむことから得られるものは何もないことも、良く知っていよう。欲の深さは、かえって失うことが多いことも知っていよう。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、自分から道をとざしてしまうような、そういう自分の中のいっさいのものを、自分から捨て去っていくことが大切である。
それを捨て去ってしまったとき、ほんとうの自分が生まれてくる。道がひらけてくる。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、すぐに、かんたんに、分かった気持ちになってしまうのは、危険である。
一だけを考えて一がわかったと思うのは、ほんとうに分かったことではない。百考えてやっと一が分かったというのが、ほんとうの分かったということである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、いつも、やわらかい頭をもって、早く判断する人でありたい。
一だけを考えて、けっしてあやまることなく、たちまち一の判断ができるのが、生活力とよんでよいものである。
ただそうした早い判断が、いつもあやまりなくできるのは、その人が百を考えぬいてきた蓄積を、心の中に持っているからなのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、よいことを確かによいとわかり、悪いことを確かに悪いと分かることが大切である。
しかもそれは、ほんとうは、それほどやさしいことではないのである。そのむずかしさこそをよく知った人でありたい。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、悪いことが確かにわかるためには、よいことが確かによいと分かる以上の、教養とセンスが必要である。
そのことも、よく知っていたい。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、たえず、知ろう、学ぼう、考えよう、とする意欲をもたなければ、人はその自分の人生の道を、歩き進む力を失うであろう。
知り、学び、考えていくことが、自分の人生の道を歩いていくことだからである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、人によっては、自分にとっての一番やさしい道しか、歩こうとしない人もいるが、人によっては、自分を育て続けていくために、一番むずかしい道の方を、いっしょうけんめい歩み続けている人もいる。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、そこで、権利意識ばかりをむやみにふりまわして、まったく停滞した空虚の中だけに身をおいている人もいる。
そうではあるがしかしまた、人間としての権利の意識をまったく自覚していない人は、とかく大切な責任の意識にも欠けている場合が少なくない。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、したいことだけをして、しなければならないことは、なかなかやろうとしない人もいる。
しなければならないことこそを、したくなる人になりたいものである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、この人生はまた、その別の一方では、人にその道を見失わせるほどの誘惑と失望とのくり返しにも、導いていることを忘れてはならない。
道は平坦ではないのである。それだからこそ、人生という道のあじわいは深いのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、世間に自分というものをあやまりなくわかってもらおうなどという期待は、持たない方がよい。
そうした期待に生きたいのであったら、世間の因襲に全面的に屈服して生きるよりほかにはないのである。
それは自分のない人間になることである。

わかってもらえようともらえまいと、そんなことは問題にしないで、あくまでも、自分の真実にこそ生きつらぬいていこうとする時、世間というものは、あんがい、思いがけなく、かえって自分を理解してくれるものなのである。
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