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文字数 2,636文字

 残暑が過ぎ、図書館の窓から見える木々の葉が紅く染まり始める頃、秋は借りられることになった。

 借り主は、小学校高学年くらいの女の子だ。植物についての本を探しているらしく、並んだ背表紙の群れから本を引っ張り出しては戻しを繰り返していた。

 秋を書架から抜き出して、表紙と裏表紙をさっと見た。ページを開いてぱらりとめくり、並んだ文面に視線を落とした。すぐに彼女の意識が文字の群れの中に、すうっと吸い寄せられるのがわかった。
 秋は慣れた様子で、自分の文面の朗読をはじめた。読み手が文字を追うスピードに合わせて文面を読み上げてやるのが、秋のやり方なのだそうだ。そうすると、文面が読み手の頭に染み込みやすくなるのだと言う。

(読み手に合わせて、調子は変えるけどね。うまく息が合うと、とっても楽しいんだぜ)

 秋は朗読する。女の子は秋のページを広げたまま、うっとりと文面を読み込んでいる。

 読み手に合わせる――その発想に私は感心した。偉いと思う反面、それは秋が恵まれた文章だからだ、と私の中のいじけた部分は考えずにおれない。秋は書籍化されるような文面を持って生まれたエリートだ。図書館の中に収められ、皆に求められて読まれてきた。だからそんな余裕を持っていられるのだ。

 女の子はぱらぱらとページを繰った。差し挟まれた私の重みで、金木犀の章でページが止まった。
 女の子は小首をかしげて、私の印字された紙片を手に取った。それは私の文面を求めて手を伸ばすわけではなく、反射的な動作にすぎない。
 私の文面に視線を落とすと、大きな瞳をさらに大きく見開いた。なにこれ、と口元に手をやる。さっきまでのうっとりした表情が消えてしまった。

 私は不意に申し訳なさを覚えた。
 彼女は花の文を読みたいのに、せっかく秋と楽しんでいたのに、私は不意打ちで彼女たちの時間を台無しにしている。

(読み上げて!)

 鋭く、秋が言った。

(ぼうっとしない! ちゃんと読み手の目を見て! 読むペースとテンションを測って、うまく相手に呼吸を合わせるんだ!)
(でも秋)
 私は力なく返した。
(彼女が読みたいのはきみの文面なんだ。私を読みたいわけじゃないんだよ)
(でも事実、彼女はいま君を読んでるんだぜ。彼女の顔をよく見ろってば)
(見てるよ)

 女の子は口元に手をやったまま、小さな眉根を寄せている。文面の上を走る視線が、何度も同じところをぐるぐると回るのを感じる。

(不甲斐ないよ。きみを読んでいるときはあんなに楽しそうだったのに、見ろ。すっかり困らせてしまってる)
(わかってるじゃないか)
 じれったそうに秋が言った。
(困ってるんだぜ! 困るのは、きみの文面が伝わってる証拠だろ!)

 はっとした。
 何も伝わらなければ、なんの表情も浮かべない。犯人のように。間違って伝わってしまったら、きっと苦笑の表情を浮かべる。マンションの女性のように。

 女の子は、困ってくれているのだ。

(意識を集中させて。彼女はいま迷ってるんだ。本気にしていいのか、いたずらだと考えるのか。正念場だぜ!)

 突然、恐怖が襲ってきて、文字ががくがくと震えそうになった。それで私は、伝わる相手と向き合うのは、伝わらない相手と向き合うよりも、ずっと恐ろしいことなのだと知った。

(目をそらすな! きみの中に迷いがあったら、信じてくれないぜ!)

 励ます秋の声が、徐々に遠くなりはじめる。見つめる彼女の瞳の中に、私は吸い込まれていくような気がした。

 身体に刻まれた文字のいくつかが、微かに熱を帯びはじめた。熱は文字の上をゆっくりと移動していき、あとには文が浮かび上がった。
 熱の移動に合わせるように、私は文字に力をこめ、そっと前へと押し出した。早すぎず、遅すぎず、彼女のペースのままに。ちょっと勢いをつけた。彼女はついてきた。熱に合わせて、わずかに文字を揺らしてみせる。
 いつの間にか、私は彼女に、彼女は私になって、二人でダンスを踊っているのだった。彼女は困った顔から真剣な表情になり、何度も私とステップを踏む。拍を刻むたび、私の中で文字が跳ねる。跳ねる文字を追いかけ、彼女の視線が舞った。

 彼女の視線が冒頭に戻った。

 私は憎き犯人の名前を、そっと彼女に差し出した。

 ふたりのダンスは、それでお開きとなった。彼女は私を丁寧に折りたたむと、その場に立ったまま、じっと考え込んでいる。

(自信はついたかい?)

 秋が声をかけた。余韻に浸っていた私は、ぼうっとしていて、返事もできなかった。

 これが、読まれるということなのだ。

 女の子はしばらく立ち尽くしていたが、やがて周囲を窺い窺い、私を折り畳んで手提げ鞄の奥へ押し込んだ。カウンターで貸し出し手続きを済ませられた秋も、すぐに入ってきた。

(ひさしぶりに興奮したなあ。ぼくも、告発状とか果たし状とか、そういうギリギリな生き方をしてみたかった)

 鞄の中で揺られながら、秋がしみじみ言った。こちらの苦労も知らないで呑気なものである。

(してみればいいじゃないか。秋の文面の中でも、犯人の名前を伝えてくれればいいのに)
(犯人が秋の植物だったらねえ)

 冗談めかしてそう言ってから、私の思いを感じ取ったのか、言い足した。

(文章が自分の文面を変えることなんてできないよ。文面はぼくらの魂、存在価値そのものなんだぜ。魂を弄った時点でぼくらは死ぬんだ。ぼくはぼくの文面のまま生きるさ)

 きっぱりと言った。なんだかんだ言って、秋は自分の秋の花の文面に、誇りを持っているのだ。私は、秋の文面を下に見ていた自分を恥ずかしく思った。

(それより彼女だ。いくら心を動かされた様子とはいえ、他人を指弾するっていうのは、人間にとって結構難しいことなんだぜ)
(わかってる)
(特にこんな小さな女の子だ。通報なんて勇気がいる行為だ。もし彼女が行動を起こせなくても、責めちゃいけないぜ)
(わかってる)

 はじめて私の想いを受け止めてくれた読み手なのだ。感謝こそすれ、責めるわけがない。

 彼女は家へ帰ると、二階の自室に篭もり、また私の文面をじっと覗いて考え込んだ。家族に見られぬよう、鍵のついた机の抽斗に私を仕舞いこみ、引き出しては見返し、考え込む。そうやって数日が過ぎていった。

 彼女は通報をしてくれるだろうか。
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