4-7
文字数 2,657文字
一階に降りると、ちょうど加奈ちゃんが向こうから歩いてくるところだった。悟は加奈ちゃんへ向けて何か言葉を発しかけた。次の瞬間、口を引き結んだ。彼女から目を反らすと、裏口へ向けて足早に一歩踏み出す。
「待て」
その肩を犯人が押し止めた。
「他に知ってるのって、あの子だな?」
返事を求めた問いかけではなかった。
「あの子は友達か? 怪我させたくなければ協力してくれ。おかしな真似はするな」
悟の身体のいろんな部分がかくかくと震えた。加奈ちゃんはこちらへゆっくりと駆けてくる。右手には郵便物の束を握りしめている。犯人を見上げ軽く会釈すると、誰? と悟に目で問いかけた。
「話はこの子から聞いたよ」
犯人が悟の肩にぽんと手を置いた。もう片方の手で私をひらひらさせながら、この文面の中で、自分が書き手と記されていること、でも実際に書いたのは自分ではないこと、悪戯だと思うということを淡々と述べた。
悟は腹話術の人形のように、犯人の言葉を肯定してかたかたと頷いた。
「そうだったんですか。てっきり、本物かと思っちゃいました」
加奈ちゃんが吐息をついた。私を信じてくれていた気持ちが、宙に消えて散っていく。私は無い目を瞑目した。
「ただ、正直気味が悪くてね。一応、警察に電話はしておいたよ。あとは警察に任せておけばいい」
加奈ちゃんはほっと息をついて、胸を撫で下ろした。小さな彼女の肩に、自分が通報しなければいけないのかという問題は、やはり、重荷だったのだろう。加奈ちゃんはもう、警察に伝えようかどうしようか、悩むことを止めるだろう。
明日から悟が学校へ来なくなったら、加奈ちゃんはどうするだろう。どうして悟が消えてしまったのか悩んでも、相談相手の悟も、証拠の私も、もういない。悟に私を読ませたことを、後悔したまま過ごすのだろうか。
私を信じてくれたはじめての読者たちは、ちいさな子供で、無力だったのだ。
「じゃあ、これで」
犯人が裏口へ足を向ける。悟の背中を押した。
「俺たちは警察に補足で話があるから。車で行ってくるよ」
「わたしも行きます」
「いや、任せておきな。子供が話すより、大人が話した方が、向こうもきちんと聞いてくれるからね」
「でも楢原くんは行くんですよね?」
「それは……俺のところに来るまでの事情を、説明してもらわなきゃいけないからな」
「ならやっぱり、わたしも行った方がいいです。その文書見つけたの、わたしだから。わたしがいた方が、きちんと説明できます」
「いや、でも……俺の車、そんなに乗れなくてな」
犯人がはじめて戸惑った。加奈ちゃんの責任感を甘くみていたのだ。子供でも、さすがに二人まとまると厳しい。言い訳も、かなり苦しい。
加奈ちゃんが不審げな顔をした。「そんなに小さい車?」
「後部座席に荷物が詰めてあって、乗れないんだよ」
「よかせませんか? 少し隙間をあけられれば、全然大丈夫です。もともと自分の問題なのに、人に任せて待ってるのはいやなんです。楢原くんに待っててもらって、私が行ってもいいし」
「来んな」
黙っていた悟が発した言葉に、加奈ちゃんがびくっとした。
「邪魔だから来んなよ」
弁明しておく。
鬱陶しそうに加奈ちゃんを睨む悟の演技が、大根だったわけではない。不自然にならないよう注意しながら加奈ちゃんを引き離そうとする、男、悟の一世一代、渾身の演技だった。
けれど加奈ちゃんの方が一枚上手だ。悟の目を見た彼女は、今度こそ、なにか変だ、と眉をひそめた。
きっとこういう態度をとるときの悟を真に受けないからこそ、二人は友達なのだ。
「邪魔ってどういうことよ」
ややあって、加奈ちゃんが声を発した。語尾に怒気を含ませ、悟を睨んだ。
「そういう言い方しちゃいけないって、さっき先生に怒られたばかりでしょ!」
悟が唾を飲み込んだ。私もすぐに理解した。悟は先生に怒られちゃいない。状況もわきまえずキレる加奈ちゃんでもない。
これは彼女の確認だ。
――いま、正直に話をできない状況?
悟が受ける。「あんな先公の言うことなんて知るかよ。邪魔だから邪魔って言っただけだ」
「また言った。いい加減にしないと本当にもう許さない。このプリントだって、勝手にポストに入れちゃって」
加奈ちゃんは半泣きだ。
「取るの、どれだけ苦労したと思ってるのよ!」
言葉は時折、煙幕になる。二人は互いにじっと相手の目をみつめていた。犯人は二人を見下ろしたまま、女の子の疳の虫が晴れるのを、はらはらしながら見ているしかない。
犯人の背が小学生くらいだったら、彼がもう少し屈んでいたら、口から出している言葉とは全く違う命懸けのやりとりが、二人の視線の間で宙をびゅんびゅん飛び交うのが見えたはずだ。
「すみません。私たち、いったん帰ります。ちょっとお母さん交えて話をつけますので。あ、これ。せっかくポストを開けたので、取っておきました。どうぞ」
興奮した調子のまま一方的に告げると、加奈ちゃんは犯人の手に郵便物の束を押し付けた。磁石に吸い付く砂鉄のように、犯人の手の中に郵便物が収まる。
ぽかんと口をあけた犯人の手が悟の肩から離れるのと入れ替わりに、加奈ちゃんが悟の手をとった。
「いくよ」
一刻も早く逃げ出そうとしている焦燥をさとられない程度には軽く、拒否するしかない悟を強制的に引っ張り出す程度には強く。加奈ちゃんが悟の手を引いた。
呆気にとられた犯人の目の中で、天秤ばかりがぐらぐら揺れた。危険を承知でまとめて消すか。それともこの場は見送るか。決断の答えを求めるように、犯人の視線は方々へ飛ぶ。
ふと、手元を見下ろした。
二人は途中から全力疾走で逃げていった。それでも大人の男が本気を出せば、表通りに辿り着く前に、捕まえることができただろう。
でもできなかった。
犯人は、握りしめた葉書を食い入るように睨みつけ、顔を青くし、身体をぶるぶる震わせて、棒立ちになっていた。
「くそっ」
葉書から目を上げると、毒づいた。通りを探すが、もう二人の姿は見えない。手の中でくしゃりと葉書を丸め、忌々しそうに地面に叩き落とした。
(やれやれ。世話のかける奴らだ)
葉書――督促状は、全身から漂わせていた気迫を消すと、床から私を見上げ、笑いを寄越した。
(久しぶりの真剣勝負であった)
「待て」
その肩を犯人が押し止めた。
「他に知ってるのって、あの子だな?」
返事を求めた問いかけではなかった。
「あの子は友達か? 怪我させたくなければ協力してくれ。おかしな真似はするな」
悟の身体のいろんな部分がかくかくと震えた。加奈ちゃんはこちらへゆっくりと駆けてくる。右手には郵便物の束を握りしめている。犯人を見上げ軽く会釈すると、誰? と悟に目で問いかけた。
「話はこの子から聞いたよ」
犯人が悟の肩にぽんと手を置いた。もう片方の手で私をひらひらさせながら、この文面の中で、自分が書き手と記されていること、でも実際に書いたのは自分ではないこと、悪戯だと思うということを淡々と述べた。
悟は腹話術の人形のように、犯人の言葉を肯定してかたかたと頷いた。
「そうだったんですか。てっきり、本物かと思っちゃいました」
加奈ちゃんが吐息をついた。私を信じてくれていた気持ちが、宙に消えて散っていく。私は無い目を瞑目した。
「ただ、正直気味が悪くてね。一応、警察に電話はしておいたよ。あとは警察に任せておけばいい」
加奈ちゃんはほっと息をついて、胸を撫で下ろした。小さな彼女の肩に、自分が通報しなければいけないのかという問題は、やはり、重荷だったのだろう。加奈ちゃんはもう、警察に伝えようかどうしようか、悩むことを止めるだろう。
明日から悟が学校へ来なくなったら、加奈ちゃんはどうするだろう。どうして悟が消えてしまったのか悩んでも、相談相手の悟も、証拠の私も、もういない。悟に私を読ませたことを、後悔したまま過ごすのだろうか。
私を信じてくれたはじめての読者たちは、ちいさな子供で、無力だったのだ。
「じゃあ、これで」
犯人が裏口へ足を向ける。悟の背中を押した。
「俺たちは警察に補足で話があるから。車で行ってくるよ」
「わたしも行きます」
「いや、任せておきな。子供が話すより、大人が話した方が、向こうもきちんと聞いてくれるからね」
「でも楢原くんは行くんですよね?」
「それは……俺のところに来るまでの事情を、説明してもらわなきゃいけないからな」
「ならやっぱり、わたしも行った方がいいです。その文書見つけたの、わたしだから。わたしがいた方が、きちんと説明できます」
「いや、でも……俺の車、そんなに乗れなくてな」
犯人がはじめて戸惑った。加奈ちゃんの責任感を甘くみていたのだ。子供でも、さすがに二人まとまると厳しい。言い訳も、かなり苦しい。
加奈ちゃんが不審げな顔をした。「そんなに小さい車?」
「後部座席に荷物が詰めてあって、乗れないんだよ」
「よかせませんか? 少し隙間をあけられれば、全然大丈夫です。もともと自分の問題なのに、人に任せて待ってるのはいやなんです。楢原くんに待っててもらって、私が行ってもいいし」
「来んな」
黙っていた悟が発した言葉に、加奈ちゃんがびくっとした。
「邪魔だから来んなよ」
弁明しておく。
鬱陶しそうに加奈ちゃんを睨む悟の演技が、大根だったわけではない。不自然にならないよう注意しながら加奈ちゃんを引き離そうとする、男、悟の一世一代、渾身の演技だった。
けれど加奈ちゃんの方が一枚上手だ。悟の目を見た彼女は、今度こそ、なにか変だ、と眉をひそめた。
きっとこういう態度をとるときの悟を真に受けないからこそ、二人は友達なのだ。
「邪魔ってどういうことよ」
ややあって、加奈ちゃんが声を発した。語尾に怒気を含ませ、悟を睨んだ。
「そういう言い方しちゃいけないって、さっき先生に怒られたばかりでしょ!」
悟が唾を飲み込んだ。私もすぐに理解した。悟は先生に怒られちゃいない。状況もわきまえずキレる加奈ちゃんでもない。
これは彼女の確認だ。
――いま、正直に話をできない状況?
悟が受ける。「あんな先公の言うことなんて知るかよ。邪魔だから邪魔って言っただけだ」
「また言った。いい加減にしないと本当にもう許さない。このプリントだって、勝手にポストに入れちゃって」
加奈ちゃんは半泣きだ。
「取るの、どれだけ苦労したと思ってるのよ!」
言葉は時折、煙幕になる。二人は互いにじっと相手の目をみつめていた。犯人は二人を見下ろしたまま、女の子の疳の虫が晴れるのを、はらはらしながら見ているしかない。
犯人の背が小学生くらいだったら、彼がもう少し屈んでいたら、口から出している言葉とは全く違う命懸けのやりとりが、二人の視線の間で宙をびゅんびゅん飛び交うのが見えたはずだ。
「すみません。私たち、いったん帰ります。ちょっとお母さん交えて話をつけますので。あ、これ。せっかくポストを開けたので、取っておきました。どうぞ」
興奮した調子のまま一方的に告げると、加奈ちゃんは犯人の手に郵便物の束を押し付けた。磁石に吸い付く砂鉄のように、犯人の手の中に郵便物が収まる。
ぽかんと口をあけた犯人の手が悟の肩から離れるのと入れ替わりに、加奈ちゃんが悟の手をとった。
「いくよ」
一刻も早く逃げ出そうとしている焦燥をさとられない程度には軽く、拒否するしかない悟を強制的に引っ張り出す程度には強く。加奈ちゃんが悟の手を引いた。
呆気にとられた犯人の目の中で、天秤ばかりがぐらぐら揺れた。危険を承知でまとめて消すか。それともこの場は見送るか。決断の答えを求めるように、犯人の視線は方々へ飛ぶ。
ふと、手元を見下ろした。
二人は途中から全力疾走で逃げていった。それでも大人の男が本気を出せば、表通りに辿り着く前に、捕まえることができただろう。
でもできなかった。
犯人は、握りしめた葉書を食い入るように睨みつけ、顔を青くし、身体をぶるぶる震わせて、棒立ちになっていた。
「くそっ」
葉書から目を上げると、毒づいた。通りを探すが、もう二人の姿は見えない。手の中でくしゃりと葉書を丸め、忌々しそうに地面に叩き落とした。
(やれやれ。世話のかける奴らだ)
葉書――督促状は、全身から漂わせていた気迫を消すと、床から私を見上げ、笑いを寄越した。
(久しぶりの真剣勝負であった)