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文字数 3,442文字
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いろいろと残念な結果に終わってしまった強請りではあったが、私は今こそ自分の使命を全うするときだと決意を新たにした。
犯人を告発する文章として生まれた私にとって、これはある意味、好機と言えた。あるじが無事に強請りを行い続ける限り、私は永遠に陽の目を見ない立場だったのだから。私も文章として生まれた以上、人に読んでもらいたいのだ。人に読まれ、私の身体に刻まれたこの文面を、皆と分かち合いたい。あるじには悪いと思うけれども、私は期待にわくわくとしていた。行間から熱気が滲んだ。
私は部屋の中の文章である。あるじの部屋の中の各所に散らばり、読み手を待っている。
控えめに一回、チャイムが響くのが聞こえた。お客様である。はじめての読み手の出現に、私は高揚した。
少し間をあけてもう一回鳴った。さらにしばらく待ってから、がちゃがちゃといろんな鍵を差し込んでは外す音がし、やがてかちゃりと鍵が回った。おそるおそるといった体で玄関から中を覗き込む顔。
犯人である。
私はがっかりした。
私はこれでも、幅広い読者層を考慮していると自負している。メインターゲットこそ大人であるが、小さな子供であっても、ある程度の国語力があれば、私が特異な文面を有していることを感じ取れるような内容であるはずだ。「轢き逃げ」の「轢」が読めれば、まず大丈夫だろう。私の文面が子供の胸に正義感を育む手助けになれば、望外の喜びである。読み手にとって忘れられない読文体験となれれば、私も書かれた甲斐があるというものだ。
だが当の犯人だけは、読者層として考慮していない。私の文面は、彼と通じ合えないだろう。
そう思いつつも私は、犯人が私の文面を読み、胸を詰まらせて自らの罪を悔いる様を夢想した。
犯人は靴脱ぎへ侵入すると、目深にかぶった帽子を脱いだ。伸びた廊下の向こうを覗き込みながら、後ろ手にドアをぱたんと閉めた。
鍵をかけようと後ろを向いたところで、ドアに貼られた私と目が合った。びく、と半ば仰け反って、まじまじと私の文面を目で追った。
私は緊張で強張った。自分を読んでいる人間をじっと待つのは、なんとも居心地が悪いものだった。身体に刻まれた一文字一文字が、視線に晒されて疼く気がする。
読み終えると犯人は、苦々しげに顔を歪めた。私を掴み、力任せにびりびりと剥がした。ドアに残ったセロテープと四隅の紙片も剥がし、一緒に手の中で丸めると、コートのポケットに突っ込んだ。
それで私の初めての被読体験は終わりだった。
もっと甘やかなものかと夢想していたが、大した感慨もない。
口の中で悪態をつく犯人に、私も悪態をついた。所詮、犯人なんかに私の文面の崇高さを理解してもらおうなどと思うのが間違いなのだろう。大事な初体験は、もっと別の読者に読んでもらいたかった。
「全部処分してしまわないと」
玄関に鍵とチェーンをかけると、犯人は部屋に侵入した。
すぐにテーブルの上の私を見つけた。犯人の名前にピンクとオレンジのマーカーで丸と波線が引かれて、目立つようにしてある。犯人は無言で私を手に取り、くしゃくしゃと丸めた。
パソコンとテレビの画面に貼られた私をぴっと剥ぎ取る。ポケットがいっぱいになってくると、キッチンに入って上部の開き戸をあけ、灰皿を一つ取り出した。コンロの下の抽斗からライターを取り出し、ついでに戸棚に貼られた私を剥がした。シンクの上に灰皿を置くと、ポケットから丸めた私を摘み取り、灰皿に置いた。
なにげない様子で天井を見上げた。住宅用火災警報器と一緒に、天井に貼りついて犯人の頭頂を見下ろしていた私と目が合った。
椅子を踏み台に、つま先立ちになって私を剥がした。棚という棚、抽斗という抽斗を開け、私をみつけては丸めてビニル袋に放り込む。散らばった雑誌を上下に振って、ページの隙間に挟まれた私を落とす。キッチンの排水口の中から、ラップに包まれた私をつまみ出す。パソコンの筐体を開け、隙間に収められた私を引っ張り出す。『よく見つけたな!』と紙の裏に赤ペンで書かれているのを見て、深く吐息をついた。
クロゼットの中には絵画のキャンバスがいくつか。キャンバスの裏地に貼られた私を剥がすと、ひっくり返して絵を眺めた。しばらくじっと見つめた後、「うまいじゃねえかよ」と呟いた。押し黙っていた冷たい顔がそのときだけ崩れ、微笑を浮かべる。静かに呟く。「うまいじゃねえかよ」
あるじが聞いたら喜んだろう。
あらかた紙の私を見つけ出してしまうと、机の上に置かれた携帯電話を手に取った。メールとメモアプリの中に潜んだ私をみつけ、消去する。
パソコンの電源を入れた。OSが起動するのと同時に、常駐していたソフトの一つが、ダイアログボックスを表示した。
『パスワードを入力してください(数字四桁)』
簡素なメッセージと入力ボックスの脇に、残り三十秒、と表示されている。その秒数が二十九、二十八、とカウントダウンを開始する。
「なんだよ、これ」
犯人はウィンドウを閉じようとするが、うまくいかない。かちっ、かちっとマウスをクリックする。焦った様子でキーを操作し、常駐ソフトの一覧を呼び出した。並んだソフトの名前の中に『Kokuhatsu.exe』がある。制限時間内にパスワードを入力できなければ、私をメール送信するプログラムである。宛先は警視庁やテレビ局など、選りすぐりのものを百個ほど。折角だから記念にということで、二十五ヶ国語に機械翻訳された私を、世界各国の警察へ。Guten Tag!!
残り十秒。閉じるボタンは反応なし。強制終了も反応なし。電源ボタンを押す。反応なし。コンセントはガムテープでぐるぐる巻き。残り三秒。
犯人が素早くテンキーを叩いた。四回叩いてエンターを押した。ダイアログボックスの文字が消え失せた。
『正解!』と表示が現れたあとも、犯人はしばらく脱力したように固まっていた。やがて長い吐息をついて、小さく首を振った。どうやら無事解除されたらしい。誕生日でも入力したのだろうか。悪運の強いことである。
犯人は通信ケーブルに巻きつけられたガムテープを乱暴に剥がし、パソコンから引き抜いた。これでは私は外に出られない。
再びパソコンを操作し、ディスク上の私を検索した。気付いた様子で、デスクトップに置かれた動画ファイルを開いた。『強請ってみた。』とタイトルが現れ、サングラス姿で現れたあるじが、ホワイトボード片手に今回の経緯の説明をはじめた。ノリノリである。陽の目を見ないまま、ぽちりと削除された。
犯人がぽつりと呟いた。
――おまえは何がしたかったんだよ。
それは誰にもわからない。
あるじは本当は何がしたかったんだろう。お金が欲しかったのか、刺激に飢えていたのか、誰かとコミュニケーションをとりたかったのか、すべてなのかどれも違うのか。
たぶんあるじ自身、わかっていなかったのだろう。だってあるじの身体には文面が刻まれていないから、きっと自分が何をしに生まれてきたのかわからなかったのだ。
私は違う。私は文章だ。読む人に、この憎き犯人の存在を、伝えるために生まれてきた。強い想いと、目的がある。
私を消してみろ犯人。この熱い志を消せる者など、この世に一人といるものか。
「これで最後。いや、取りこぼしが残ってると考えておくべきか。しばらくは気を付ける必要がありそうだな」
犯人がディスクに残った最後の私をごみ箱に送った。丁寧に完全消去をかける。それでもすべての私が消えたわけではない。私は既に紙や電荷の上にのって、外の世界へ旅立っている。魔の手を逃れた私の誰かが、いつかおまえを討つだろう。必ず憎きおまえの存在を、私の読み手に伝えてやるのだ。
消えゆく瞬間、私は気付いた。あるじのパソコンの隅に佇んでいる、その文章の存在に。
彼は黙ったまま、私をじっと見下ろしていた。たった一文の文面を抱えこみ、道標ででもあるかのように、私に掲げて見せながら。
何故そんな哀しい文面を持っているんだ?
尋ねる前に私は消えてしまい、もうあるじのパソコンの中を覗くことはできない。けれどもその文面は私の視界に、消えることなくとどまり続けた。
――人はわかりあえない、と。
いろいろと残念な結果に終わってしまった強請りではあったが、私は今こそ自分の使命を全うするときだと決意を新たにした。
犯人を告発する文章として生まれた私にとって、これはある意味、好機と言えた。あるじが無事に強請りを行い続ける限り、私は永遠に陽の目を見ない立場だったのだから。私も文章として生まれた以上、人に読んでもらいたいのだ。人に読まれ、私の身体に刻まれたこの文面を、皆と分かち合いたい。あるじには悪いと思うけれども、私は期待にわくわくとしていた。行間から熱気が滲んだ。
私は部屋の中の文章である。あるじの部屋の中の各所に散らばり、読み手を待っている。
控えめに一回、チャイムが響くのが聞こえた。お客様である。はじめての読み手の出現に、私は高揚した。
少し間をあけてもう一回鳴った。さらにしばらく待ってから、がちゃがちゃといろんな鍵を差し込んでは外す音がし、やがてかちゃりと鍵が回った。おそるおそるといった体で玄関から中を覗き込む顔。
犯人である。
私はがっかりした。
私はこれでも、幅広い読者層を考慮していると自負している。メインターゲットこそ大人であるが、小さな子供であっても、ある程度の国語力があれば、私が特異な文面を有していることを感じ取れるような内容であるはずだ。「轢き逃げ」の「轢」が読めれば、まず大丈夫だろう。私の文面が子供の胸に正義感を育む手助けになれば、望外の喜びである。読み手にとって忘れられない読文体験となれれば、私も書かれた甲斐があるというものだ。
だが当の犯人だけは、読者層として考慮していない。私の文面は、彼と通じ合えないだろう。
そう思いつつも私は、犯人が私の文面を読み、胸を詰まらせて自らの罪を悔いる様を夢想した。
犯人は靴脱ぎへ侵入すると、目深にかぶった帽子を脱いだ。伸びた廊下の向こうを覗き込みながら、後ろ手にドアをぱたんと閉めた。
鍵をかけようと後ろを向いたところで、ドアに貼られた私と目が合った。びく、と半ば仰け反って、まじまじと私の文面を目で追った。
私は緊張で強張った。自分を読んでいる人間をじっと待つのは、なんとも居心地が悪いものだった。身体に刻まれた一文字一文字が、視線に晒されて疼く気がする。
読み終えると犯人は、苦々しげに顔を歪めた。私を掴み、力任せにびりびりと剥がした。ドアに残ったセロテープと四隅の紙片も剥がし、一緒に手の中で丸めると、コートのポケットに突っ込んだ。
それで私の初めての被読体験は終わりだった。
もっと甘やかなものかと夢想していたが、大した感慨もない。
口の中で悪態をつく犯人に、私も悪態をついた。所詮、犯人なんかに私の文面の崇高さを理解してもらおうなどと思うのが間違いなのだろう。大事な初体験は、もっと別の読者に読んでもらいたかった。
「全部処分してしまわないと」
玄関に鍵とチェーンをかけると、犯人は部屋に侵入した。
すぐにテーブルの上の私を見つけた。犯人の名前にピンクとオレンジのマーカーで丸と波線が引かれて、目立つようにしてある。犯人は無言で私を手に取り、くしゃくしゃと丸めた。
パソコンとテレビの画面に貼られた私をぴっと剥ぎ取る。ポケットがいっぱいになってくると、キッチンに入って上部の開き戸をあけ、灰皿を一つ取り出した。コンロの下の抽斗からライターを取り出し、ついでに戸棚に貼られた私を剥がした。シンクの上に灰皿を置くと、ポケットから丸めた私を摘み取り、灰皿に置いた。
なにげない様子で天井を見上げた。住宅用火災警報器と一緒に、天井に貼りついて犯人の頭頂を見下ろしていた私と目が合った。
椅子を踏み台に、つま先立ちになって私を剥がした。棚という棚、抽斗という抽斗を開け、私をみつけては丸めてビニル袋に放り込む。散らばった雑誌を上下に振って、ページの隙間に挟まれた私を落とす。キッチンの排水口の中から、ラップに包まれた私をつまみ出す。パソコンの筐体を開け、隙間に収められた私を引っ張り出す。『よく見つけたな!』と紙の裏に赤ペンで書かれているのを見て、深く吐息をついた。
クロゼットの中には絵画のキャンバスがいくつか。キャンバスの裏地に貼られた私を剥がすと、ひっくり返して絵を眺めた。しばらくじっと見つめた後、「うまいじゃねえかよ」と呟いた。押し黙っていた冷たい顔がそのときだけ崩れ、微笑を浮かべる。静かに呟く。「うまいじゃねえかよ」
あるじが聞いたら喜んだろう。
あらかた紙の私を見つけ出してしまうと、机の上に置かれた携帯電話を手に取った。メールとメモアプリの中に潜んだ私をみつけ、消去する。
パソコンの電源を入れた。OSが起動するのと同時に、常駐していたソフトの一つが、ダイアログボックスを表示した。
『パスワードを入力してください(数字四桁)』
簡素なメッセージと入力ボックスの脇に、残り三十秒、と表示されている。その秒数が二十九、二十八、とカウントダウンを開始する。
「なんだよ、これ」
犯人はウィンドウを閉じようとするが、うまくいかない。かちっ、かちっとマウスをクリックする。焦った様子でキーを操作し、常駐ソフトの一覧を呼び出した。並んだソフトの名前の中に『Kokuhatsu.exe』がある。制限時間内にパスワードを入力できなければ、私をメール送信するプログラムである。宛先は警視庁やテレビ局など、選りすぐりのものを百個ほど。折角だから記念にということで、二十五ヶ国語に機械翻訳された私を、世界各国の警察へ。Guten Tag!!
残り十秒。閉じるボタンは反応なし。強制終了も反応なし。電源ボタンを押す。反応なし。コンセントはガムテープでぐるぐる巻き。残り三秒。
犯人が素早くテンキーを叩いた。四回叩いてエンターを押した。ダイアログボックスの文字が消え失せた。
『正解!』と表示が現れたあとも、犯人はしばらく脱力したように固まっていた。やがて長い吐息をついて、小さく首を振った。どうやら無事解除されたらしい。誕生日でも入力したのだろうか。悪運の強いことである。
犯人は通信ケーブルに巻きつけられたガムテープを乱暴に剥がし、パソコンから引き抜いた。これでは私は外に出られない。
再びパソコンを操作し、ディスク上の私を検索した。気付いた様子で、デスクトップに置かれた動画ファイルを開いた。『強請ってみた。』とタイトルが現れ、サングラス姿で現れたあるじが、ホワイトボード片手に今回の経緯の説明をはじめた。ノリノリである。陽の目を見ないまま、ぽちりと削除された。
犯人がぽつりと呟いた。
――おまえは何がしたかったんだよ。
それは誰にもわからない。
あるじは本当は何がしたかったんだろう。お金が欲しかったのか、刺激に飢えていたのか、誰かとコミュニケーションをとりたかったのか、すべてなのかどれも違うのか。
たぶんあるじ自身、わかっていなかったのだろう。だってあるじの身体には文面が刻まれていないから、きっと自分が何をしに生まれてきたのかわからなかったのだ。
私は違う。私は文章だ。読む人に、この憎き犯人の存在を、伝えるために生まれてきた。強い想いと、目的がある。
私を消してみろ犯人。この熱い志を消せる者など、この世に一人といるものか。
「これで最後。いや、取りこぼしが残ってると考えておくべきか。しばらくは気を付ける必要がありそうだな」
犯人がディスクに残った最後の私をごみ箱に送った。丁寧に完全消去をかける。それでもすべての私が消えたわけではない。私は既に紙や電荷の上にのって、外の世界へ旅立っている。魔の手を逃れた私の誰かが、いつかおまえを討つだろう。必ず憎きおまえの存在を、私の読み手に伝えてやるのだ。
消えゆく瞬間、私は気付いた。あるじのパソコンの隅に佇んでいる、その文章の存在に。
彼は黙ったまま、私をじっと見下ろしていた。たった一文の文面を抱えこみ、道標ででもあるかのように、私に掲げて見せながら。
何故そんな哀しい文面を持っているんだ?
尋ねる前に私は消えてしまい、もうあるじのパソコンの中を覗くことはできない。けれどもその文面は私の視界に、消えることなくとどまり続けた。
――人はわかりあえない、と。