13 空虚な本来的自己
文字数 2,304文字
高野さんの日記を読んでると、メガネにこだわってるんだよね
「友達のメガネをかけたとき、『ひょっこりひょうたん島の博士みたいだ』とか、『おっちょこちょいのいたずら娘だ』とかいわれた。メガネをかけた方が、より『私』らしいと思う。二十歳の記念にメガネをかけよう」
「私の目をガラスで防衛しているということ。相手はガラスを通してしか私のオメメを見られない。真実の私は、メガネをとったところにある」とも書いている
うん。
周囲からの眼差しが、たとえば「あなたは〇〇であるべきだ」と迫ってくる。
それをスンナリ受け入れてしまうと、さっき言った存在憑依となる。
けれど高野さんはそれを拒絶する、拒もうとする。
だから、無防備な、素の自分をさらけ出すのではなしに、メガネをする。
メガネで、剥き出しの自分を防衛するんだ。
まぁ簡単に言うと、敵をあざむくため、仮面をつける、というわけ。
相手は、メガネ=仮面と戯れることになるだけで、素の高野さんは守られる
う~ん、たかがメガネに、そこまでの思い入れが・・・・・・
高野さんはね、派手に酔っぱらったり、タバコを吸ったり、パチンコ屋へ行ったりと、社会的な「女はかくあるべし」的なものに、意図して反抗したりしてる
うん、そうだね。
ところが、だ。
探せども探せども、自分が見つからないんだよ。
他者たちの眼差しから自由な、本来の自分が見つからない。
「高野悦子自身になりたい」と高野さんは日記に書きつけるが、その高野悦子自身が見つからない
高野さんは、自分で自分の首を絞めたり、手をカミソリで切ったりするようになる
引用するよ。
私には『生きよう』とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。
私の体内には血が流れている。指を切ればドクドクと血が流れだす。本当にそれは私の血なのだろうか。
なんか、自分が生きている、という実感を求めて、自傷してるような気がする
高野さんはこうも書いている。
「人間は他者を通じてしか自分を知ることができない。悲劇ではないか」
「他者によって写しだされる己れ、自分は何もないのではないか」
なんとなく分かってきたよ。
他者たちの眼差しをメガネで遮断し、先生のいう存在憑依から脱却しようともがいてみたんだけど、じゃあ本来の自分って何よ、高野悦子自身って何よ、いわゆる本来的自己って何よ、って悩んだんだね?
そう、二十歳の原点とはつまり、存在憑依から抜け出ようとするがゆえに襲われる孤独、つまり他者たち(の眼差し)を拒絶するわけだからね・・・・・・そして、不安、つまり存在憑依を捨てるがゆえに自分がいったん白紙に、何者でもなくなってしまうんだからね・・・・・・そういう、孤独と不安のことだ
でしょ。
で、結局のところ、高野さんは無意識的に気づいていたと思うんだ。
存在憑依を捨てたところで、本来的自己など在りはしない、ということに
もしかして先生は、高野さんの自死の原因を、そこに見ている?
さぁ、どうだろうね。
ただ、一つ言えることは、高野さんが抱えていた空虚感は、本来的自己の空虚さでもある、それは間違いないと思う
で、高野さんはね、この逃れられない本来的自己の空虚さを克服するために、2つのことをする。
1つは、恋愛、愛に救済を求める
他者地獄(存在憑依の地獄)を克服する一つの道が、対幻想にあることは、すでに見てきたよね、サルトル『出口なし』で
うん。
と同時に、対幻想は三者関係から叩かれてしまう、こともね
高野さんは、失恋を繰り返した。
対幻想のうちに安んずることは叶わなかったわけだ。
そこで、もう1つの選択肢を採る
全共闘運動という集合的沸騰の中で、本来的自己の空虚さを埋めようとする
全共闘運動をね、一つの信仰(俗流マルクス主義)に基づく宗教のようなものだ、と強引にくくってしまうのなら、結局ね、本来的自己の空虚さを埋めるものは、愛か宗教か、の二者択一になる
宗教は、愛の中に含めてもいいんじゃない?
神への愛、とか、あるいは、神からの愛、とかね
余談だが、キルケゴール(1813-1855)という実存主義の先駆け的な思想家がいるんだけど、最終的には神=愛へいっちゃった理由が分からなくもない
で、高野さんの全共闘運動はどうなったんだっけ?
一応読んでるんだけど、じつはそのへん、あまり覚えてなくて・・・・・・
存在憑依から脱却したのはいいが、本来的自己の空虚さに直面し、その穴を(1)恋愛=対幻想、(2)全共闘運動(機能的には宗教と等価)で埋めようとするも、挫折した
そして、自ら命を絶った。
ちなみに、高野さんの父親が文章を寄せてるんだけど、高野さんの日記(思い)に対するとんでもないミスリーディングの連発で、読んでてウンザリ、というか吐き気がした。
娘を亡くした父親にも同情するが、こんな父親をもってしまった娘にも同情する
『二十歳の原点』、私、もう一回読み直してみよっかな。
前に読んだときね、泣いちゃったよ。
とくに最後の詩、高野さん詩を書くでしょ。
最後の詩がね、とても悲しくて・・・・・・
さて、ぼくらは『二十歳の原点』から、サルトル的主体の苦悩と限界を感じ取れたんじゃないかな、少しは。
せっかくだから、もう一つ、テキストを使ってみようか
安部公房なら知ってる。
読んでないけどね・・・・・・
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