15 <対他的自己>

文字数 3,286文字

さて、今日は浜田寿美男さんの『「私」とは何か ことばと身体の出会い』(講談社、1999)を取り上げたい
発達心理学者さん、って言ったよね?

うん、そう。

発達心理学は、赤ちゃんから大人になるまでの心身の発達段階を追っていく学問だね。

ちなみに近年では、研究対象が人生の前半に偏ってたことを反省し、発達は大人になってからも続く、死ぬまで続くとし、生涯発達心理学なんて呼び方もでてきた(『生涯発達心理学』有斐閣アルマ、2016

さてと、話を戻そう。

浜田さんはね、<わたし>というのは、オギャア! と生まれたときには無かったんだが、発達の過程でね、後から遅れて立ち上がってくるものだとした。

その上で、<わたし>が、どうやって立ち上がってくるかを考察しているんだ

その<わたし>ってのは、さしあたりアイデンティティのことだと思っていい?

それとも違うもの?

うん、それでもいいよ

それなら確かに、<わたし>=アイデンティティは、0歳の時点では不在だよね。

<わたし>はどこかのタイミングで<わたし>になってるわけで・・・・・・

ちなみに、わたしの中にある最も古い記憶は5歳くらいのもの。

そう思うと、それ以前のわたしっていったい誰だったんだろうね?

・・・・・・ま、いっか。

はい、続き続き

まず、浜田さんはね、ぼくとあなたとの間にある相補的な<能動-受動>の関係に着眼するんだ。

たとえば、ぼくが話し、あなたが聞く、

あるいは逆に、ぼくが聞き、あなたが話す、という関係があるとき、

当たり前だが、ぼくは話すと同時に、ぼく自身の発言があなたにとってどのように聞かれているか(受け止められているか)、あなたの立場に立って考えているよね

「わたし料理のできる男のコが好き~」って、料理ができる男のコの前で言っちゃったら、あ、勘違いされちゃうな~、とか、逆に料理ができない男のコの前で言っちゃうと、暗に「あなたはタイプじゃない」って言ってるのと同じだな~、とか、発言がどう受け止められちゃうか、意識してるってことね?

うん。

でね、一方で、きみが話すとき、ぼくは聞く立場にあるわけだが、同時に、聞きながらね、きみがどんな意図で(どんなつもりで)そんなことを言ってるのかと、きみの立場に立って考えてもいる。

ちなみに、余談だが、神経科学者マイケル・S・ガザニガによれば、聞き手の脳内では話し手の脳活動が再現されているという[『<わたし>はどこにあるか』藤井留美訳、紀伊国屋書店、2014:P185]

うん、そうだね

このシンプルな二重性(ぼくはぼくの立ち位置にいながら、かつ同時に、きみの立ち位置からも眺め返している)を、浜田さんは重視する。

そんなの当たり前じゃん! と思うかもしれないが、この視点の交換(相手の立場から眺めてみること)を自閉症の子が苦手としている事例など示しながら、浜田さんは丁寧に議論を進めていくんだ

で、人形を使ったママゴト遊びなんかが典型だが、発達の過程でね、リアル他者=相手がいなくても

話しながら(相手の立場に立って)聞き、

聞きながら(相手の立場に立って)話す、

という視点交換を駆使した対話(遊び)ができるようになる。

さらには、べつに人形遊びなんかしなくても、具体的なモノがなくなっても、それが自分の頭の中だけでできるようになる。

そのとき、内なる他者が立ち上がる、と浜田さんは言う

そういえば初恋してた頃って、勝手に相手のコ、頭の中で立ち上げちゃってさ、妄想してたなぁ、妄想シミュレーション?
そう、その妄想相手こそ、内なる他者だね

おさらいしておこうか。

発達の過程でね、

①視点交換を駆使しながら相手と対話することができるようになる⇒

②リアル他者=相手がいなくても、人形とかモノを相手に想像上の視点交換ができるようになる⇒

③人形とかモノがなくなっても、頭の中だけで自己内対話ができるようになる、

と浜田さんは示した。

で、③の段階でね、内なる他者の立ち上がり、を見たわけだ

で、それからどうなるの?
今までの話とつなげて論じるなら、他者たちの眼差しが内なる他者として主体の内側に入り込んでくるんだよ
ふぁい?

たとえばね、先生から「ちゃんと勉強しなさい!」と言われたとする。

ここには、<先生-生徒>との間に、<話す(教える)-聞く(学ぶ)>の関係性があるよね。

と同時に、さっきの二重性と視点交換の話になるけどね、生徒は先生の立場から眺めてもいる。

つまり、「ちゃんと勉強すれば褒められる(ぼくは良い生徒と思われる)」という含み、

あるいは、「ちゃんと勉強しないと怒られる(ぼくは悪い生徒と思われる)」という含みも受け取っているんだ。

まぁ、当たり前のことだけどね

で、それが?

つまり他者たちとの視点交換を通じた交わりの中で

こう応じれば褒められる(良く思われる)、

こう応じれば怒られる(悪く思われる)、

といったことが予測できるようになるが故に、ある方向、ある方向へと主体の振る舞いが誘われていくわけだ

たとえば高野悦子さんは、(気づいたときにはもう)「成績のよい可愛いこちゃん」の役割を演じ続けていた、と言っていたね
要するに、<わたし>が、自分が自覚的に何者かである前に、それ以前の問題としてね、視点交換を通じた交わりの中で、褒められたり怒られたりしながら、それこそ高野悦子さんのワードを用いるなら、ある役割を担う、演じるように誘導されてく、ってわけね?

そういう意味では、<わたし>とは、何よりもまずは対他的なものとして立ち上がってくるんだよ。

これをぼくは対他的自己と名づけることにする

対他的自己?
たとえば「成績のよい可愛いこちゃん」がそれだ

もし人間にね、視点交換の能力がなかったとしたら、たとえば<先生-生徒>の関係は、<教える-学ぶ>、もっと違う言い方をするなら<命令-実行>という、機械的な、まるでロボット同士のような上っ面の関係に終始するだろう。

しかし人間には視点交換の能力が備わっているからね、相手が望む方向へ自分をカタチづくることができるんだ。

相手の気持ちがわからないロボットはただ実行していくだけだろうが、ぼくらは実行しながら、同時に実行することで自分自身が変異していく。

この変異が、対他的自己をつくりあげていく

しかし対他的自己は、なにも「成績のよい可愛いこちゃん」のようなプラス評価のものばかりじゃない。

たとえば、テストの残念な点数を見た親からね、「なんてダメなんだ!(おまえはバカか!)」とか言われつづけるとね、「ダメな子だ」とかいう親の眼差しがさ、内面化されてね、ダメな<わたし>という自己評価をつくりあげてしまう。

これはマイナス評価の対他的自己だ。

これを便宜上、対他的自己(-)と表記することにしよう

(1)他者たちとの視点交換を通じた交わりの中で、相手の気持ち(期待)がわかるがゆえに、

(2)ある方向、ある方向へと誘われていく、

(3)つまりは、対他的自己(-)ではなく、対他的自己(+)のほうへ誘われていく

まぁ、そうだね。

それを対他的自己(-↗+)と表記することとしよう

ところで、今さっき、ぼくはつい先走っちゃったんだけどさ、対他的自己がね、次のステップとして、内面化されていく

簡単に言うと、親「成績が良ければ褒めてあげる(良いコを期待)」⇒子「良い成績をとって褒めてもらう(良いコになる)」という関係性を実行することによって、対他的自己(+)=「成績のよい可愛いこちゃん」が、まさに自己像として内面化されていく。

それが<わたし>だ! と

ちょっと話が長くなってきたので続きはまた次回とするが、要するに、浜田さんの立論を受けてね、ぼくが言いたかったことはさ、<わたし>は発達過程で、まずは対他的自己として、<わたし>の外部からやってくる、ってことだよ
先生、わたしって心理学畑じゃん
うん、知ってるよ

なんかふと、フロイトの超自我とか、ユングのペルソナとか、そういうの思い出した。

ちょっとは関係するんかな~とか?

そうだね、せっかくだから精神分析系の話からも入ってみようか?

うん、ぜひ。

それならわたし、多少はついていけるから

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登場人物紹介

デンケン先生(49)・・・・・・仙人のごとく在野に生きる(自称)哲学者。かつては大学院にいたり教壇に立ったりしていたが、先輩方から「きみが考えてるテーマ(<私>とは何か?とか)じゃ論文書けないでしょ=研究者にはなれないよ」と諭された結果、むしろアカデミズムを捨てて在野に生きることを決断。これには『老子』の(悪)影響もある。べつに大学教授になりたいとは思わない。有名になりたいとも思わない。ただ、考えたいと思うことを考えていたいだけ、の男。ゆえに本業(生活手段)はサラリーマンである(薄給のため未だ独身、おそらく生涯未婚)。

哲学ガール(18)・・・・・・槙野マキ。哲学すること大好きっコ。デンケン先生が大学院で学んでいた頃の友人の一人娘である。哲学好きには親の影響があるだろう。近所に引っ越して来たため、ときどき遊びに来る。独身のオッサンと美少女という組み合わせだが、恋愛関係に発展してしまうのかどうかは、今後のお楽しみである(たぶんならない)。

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