14 安部公房『箱男』
文字数 3,401文字
この『哲学探究Ⅰ ~<わたし>とは何か?~』は、下手するとぼくが死ぬまで書き続けても完成しないのかもしれないけれど、それはさておき、<わたし>とは何か? について考えていくとき、仏教哲学やインド哲学は避けて通れない、というか、大変示唆に富むから、避けて通らないほうがいいと思うんだ。
だからね、もう随分と前に一通り勉強してはいるんだけど、今回改めて書き起こすことにした
さて、ダンボール箱を被り「箱男」化することによって、主人公は他者の眼差しを回避することができるんだけど、それだけではなしに、箱には「覗き窓」がつくってあり、むしろ他者をこちら側から一方的に見つめることができるようになっている。
ちなみにこの覗き窓、凝ったつくりになっていてね、カーテンのようになっており、箱を傾けると、縦の重なった切れ目がね、少しだけ開いて▲のようになり、外が覗ける。
一方で、ホントに隙間だからね、依然として他者からこちらを覗くのは困難
うん。
ちなみに、主人公(語り手)の「箱男」が元カメラマンというのが象徴的だね。
見られることなく一方的に見る装置、それが「箱」だ。
カメラが、もし人が入れるほど大きかったなら、べつに「カメラ男」でもよかったろう
ところで、サルトル『出口なし』のガルサンは「勇士」になりたかった、しかし戦争から逃げてしまったので、みんなから「卑怯者」と思われるんじゃないか、そう想像して苦しんでいたよね。
簡単に言うと承認欲望が満たされない。承認欲望を満たしてくれるのは他者の眼差しだからね
うん、つまりそう。
また、高野悦子さんは、役割を押し付けてくる他者たちの眼差しに違和感を覚え、いわゆる本来的自己=主体性(の幻影)を求めていたよね。
しかし本来的自己はそれこそ本来的に空虚でしかない、というカベにぶち当たった
いや、「ニセ箱男」はニセ者じゃないんだよ。
物語批評的なことは長くなるから割愛するけど、「ニセ箱男」がどうのというより、純然たる匿名性を具現する「箱男」になった時点でね、すべての「箱男」は等価であり、交換可能的になっているんだ。
つまり「箱男」には本物も偽物もないんだよ。だってそもそも「箱男」は誰でもないんだから。誰かであることを止めた存在なんだから、「箱男」は。
「箱男」の入れ替わり可能性というのをキーに、読み直してみても面白いと思うよ
ちなみに、『箱男』というテキストは、「箱男」が箱の内側に書きつけたノート、落書きである、という設定になっている。
つまり、『箱男』という作品は、他者たちへ向けられたものではない、ということだ。
もし「箱男」が他者たちへ向けてメッセージを送っているのだとしたら、そもそも他者を拒絶してるのが「箱男」なんだからさ、矛盾する。
「箱男」は最初から最後まで箱の中、<内部の世界>にいるんだよ
とてもシンプルなことだよ。
サルトル『出口なし』のガルサンも、そして高野悦子さんも他者たちの眼差しに苦悩していた。
しかし一方で、その他者たちの眼差しを拒絶するとどうなってしまうのか?
「箱男」になるだけだ! ってことだよ。
他者たちの眼差しを拒絶したとき、ぼくらは何者でもなくなってしまうんだよ
主人公(語り手)である「箱男」は、物語の最後のほうでね、なーんと、「箱」を脱いで裸になるじゃん。
でね、その女性も裸になってさ、抱き合って暮らす。
しかも常時離れず、必ず身体のどこかは接触してるようにしてね
つまり、他者たちの眼差しを拒絶したとき、ぼくらは「箱男」化してしまう。
「箱男」とは、何者でもない存在だ。
もし「箱男」に救済があるとするなら、それは対幻想というゼロ距離=繭の中で暮らすことだが、自ずと限界がある
ぼくはさっき、他者たちの眼差しを拒絶したら「箱男」になるだけ、って言ったけれども、ホントはね、「箱男」には理論上、絶対になれないんだ。
なぜなら、箱の<内側>にも、他者たちの眼差しは侵入してきているからね。
実際、「箱男」が箱の<内側>に書いてる物語には、他者たちの眼差しが溢れている!