4 <物語的自己>
文字数 2,655文字
ところで、勘の鋭い人ならすぐに気づいてしまうのだろうが、ぼくが<わたし>という言葉を使うとき、具体的に何を指しているのか、が問われなければならない。
ちなみに永井均さんの名著ともいえる『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書、1996)の前半は、「なぜぼくは存在するのか?」を探求テーマに掲げているけれど、<ぼく(わたし)>が何を意味するのかについて、理解が食い違い、友だちと議論が噛み合わなかった、なんていう苦い体験談を語っている。
<わたし>という概念でイメージするものが、わりと十人十色・・・・・・
<わたし>という概念はとても複雑な成り立ちをしてるし、多様な側面がある。
だから何度も言うけど、一足飛びに話を進めるのではなく、身近なところから順番に一つ一つ理解を深めていこうと思う。
つまり、その質問は保留とする(笑)
そうすると、<わたし>って孤立した「個」というよりは、社会的なもの、って感じかな?
というのも、わたしはB型だけど、それはAやOやABの人がいてはじめて区別されるわけだし、わたしはパン派だけど、それは白米好きの人がいた上で、わたしの場合は違うって思うのだから・・・・・・
そうだね、いいコメントだね。
「わたしって〇〇な人なの」と、つまり、ソレが<わたし>なんだと思う前に、まずは社会的な文脈が在るんだ。
とても当たり前のことなんだけど、ヒトは社会の中に生れ落ちる。
<わたし>が存在する以前に社会がある。
で、その社会には、パン派がいて、ご飯派がいて、あ、自分はこっちだな、と遅れて後で区別することになる
もちろん。
ただ、学歴を尊重しようが否定しようが、学歴という価値基準を<わたし>の中に<外部>から注入されてしまった、という点については変わらない。
たとえば、もし昔の時代に生まれていたら、そうはならなかっただろうし。そんな価値観と関わることはなかったんだからね
まぁ、ね。
つまり、<わたし>とはまず、物語られるものなんだよ。
相手に対して、<わたし>とは何者かと伝える、物語る。
あるいは、伝えることのできる、語ることのできる<わたし>という物語をもっている。
これを、さしあたり物語的自己と呼んでおこう
ぼくが言いたいのはね、進化の過程で、どこかで、ぼくらは物語的自己を手に入れているんだよ。
<わたし>という物語を紡げるようになり、それを語れるようになったんだよ。
<わたし>というものの一側面が物語的自己であるとするなら、それは、ヒトが長い長い進化の過程で、どこかで、自己を物語として描き、かつ語れるようになった、ってことなんだよ。
まずは、そこを考えてみたいけど、それは明日へまわすとして・・・・・・
2つ目。
ぼくらは、おぎゃあ! と生まれたときから物語的自己をもってたわけじゃないよね。
それは、わかるよね?
だってそうでしょ。0歳児が「オレって、あいつらと違ってさぁ、〇〇な赤ちゃんなの~」とか言ったりしないでしょ。というか、そもそも言葉をマスターしてない・・・・・・
だとするなら、これも進化の話とパラレルになるんだけどね、赤ちゃんから成長していく過程で、そのどこかで、ぼくらは自己を物語として語れるようになっていった、と言える。
そこを、考えてみたい。
これは、明後日のテーマかなぁ・・・・・・