12 高野悦子『二十歳の原点』
文字数 2,975文字
それは読者が判断することだから、何とも言えないけれど、意味不明な箇所や、分かりづらいところ、あるいは率直にぼくが間違っているところなんか、お気軽に指摘・コメントしてただければ、と思う。
というのも、ぼくは集合知という考え方が好きで、三人寄れば文殊の知恵、ではないけれど、書斎にこもってね、独り悶々と哲学するのもいいだろうけど、WEBがある時代なんだからさ、なんていうの、ワイワイ・ガヤガヤと、集合知的に哲学してもいいんじゃないかな?
ちなみに現代アートの世界を眺めていると、チームラボやライゾマティクスの集団制作なんかが象徴的なんだけど、「あぁ、作家個人で作品創造する時代から、チームで活動する時代へシフトしてきたんだなぁ。新しいなぁ」なんて思うよ。
詳しくは『美術手帖 アート・コレクティブが時代を拓く』(2018年4・5月合併号)へ譲るとして、哲学もね、なんていうの、哲学コレクティブ? わかんないけど、みんなで哲学するのも悪くない
『二十歳の原点』は、高野悦子さんが鉄道自殺(1969年)する直前まで綴られていた日記だ。
高野さんがいたのは立命館大学(文学部史学科)で、年号から察しがつくように、キャンパスは全共闘運動の真っ只中だった。
日記にでてくるフレーズ「『独りであること』、『未熟であること』、これが私の二十歳の原点である」は知る人の間ではけっこう有名なものだ
う~ん、軽はずみな発言は控えることにするよ。
ただ、ぼくらの探求課題、<わたし>とは何か? そしてサルトル的主体の限界について考えていく上で、高野さんの日記は興味深く、示唆に富む。
だから、まずは気になる箇所をね、ちょっと長くなるけど引用するところからはじめたい。
ちなみに、とくに気になるところは太ゴシックにしておく
1969年1月17日の日記から・・・・・・
私は昭和24年1月2日から、この世界に存在していた。と同時に私は存在していなかった。
家庭で幼年時代を過し、やがて学校という世界に仲間入りした。ここで言いたいのは学校における私の役割である。学校という集団に始めて入り、私はそこで「いい子」「すなおな子」「明るい子」「やさしい子」という役割を与えられた。ある役割は私にとり妥当なものであった。しかし、私は見知らぬ世界、人間に対しては恐れをもち、人一倍臆病であったので、私に期待される「成績のよい可愛いこちゃん」の役割を演じ続けてきた。集団から要請されたその役割を演じることによってのみ私は存在していた。その役割を拒否するだけの「私」は存在しなかった。その集団からの要請(期待)を絶対なものとし、問題の解決をすべて演技者のやり方のまずさに起因するものとし、演技者である自分自身を変化させて順応してきた。中学、高校と、私は集団の要請を基調として自らを変化させながら過ごしてきた。
この頃、私は演技者であったという意識が起った。集団からの要請は以前のように絶対なものではないと思い始めた。その役割が絶対なものではなくなり、演技者はとまどい始めた。演技者は恐ろしくなった。集団からの要請が絶対のものでないからには、演技者は自らの役割をしかも独りで決定しなければならないのだから。
さてと、順番に考察していくよ。
まず、まさに実存は本質に先立つだが、ぼくらは物心ついたときにはもう、すでに社会の中に生きている。
たとえば、気づいたときにはもう、名前がつけられている。
生まれたときにはもう、どこの家の誰ちゃん、というのが確定している。
所属が、社会における位置が、定まっている。
また、世の中のルール、「〇〇しちゃダメでしょ」「〇〇でありなさい」を家庭の中で学ぶことになる。
仮に、赤ちゃんを何も入ってない端末だとするなら、まさに次から次へといろんなものがダウンロードされていく
さて、高野さんはここで役割って言葉を使ってるね。
高野さんのいう役割は、社会学で用いられる「役割」概念とも重なるところがある。
それはまぁいいとして・・・・・・高野さんは、まずは役割をマスターすることで、私は私になったと自覚してるね
あくまで一般論としてだけどね、こどもは親から「〇〇しちゃダメでしょ(禁止)」「〇〇でありなさい(指針)」とか様々な言葉を日々浴びせられる中で育っていくわけでしょ。
こどもという可塑的な存在に、なんていうの、親が鋳型をはめていく、とも言えるよね。
実存は本質に先立つ、たしかにそれはそうだが、この世に生まれてみれば、神様が造った本質ではない本質、親が事前に用意してる、<親⇒本質>みたいなものが、あるわけ。
実存は本質に先立つ、けれど、<親⇒本質>は実存に先立つ、みたいな
そう。
「成績のよい可愛いこちゃん」という役割(服)を、まさにそれが自分だ! って思って着込んで生きること、それをぼくは存在憑依というんだよ。
「〇〇な存在」というイメージに、憑りつかれているんだ。
もっと言うと、ぼくらはまず存在憑依として誕生することになる
で、憑依されてることに気づかなきゃ、ある意味「幸せ」なのかもしれないが、高野さんは気づいてしまう。
100%憑依されてしまい、憑依と一体化してれば疑問も生じないのだが、高野さんは違和感を覚える。
中学、高校と長じるにつれて、存在憑依が一つの仮面でしかないことに、気づく。
演技って言葉を高野さんは使ってるね