11 サルトル『出口なし』

文字数 2,203文字

さて、サルトルの戯曲『出口なし』は大変に著名なものだ。

とはいえ、知らない人も多いだろうね

知らな~い
ちなみに、1944年の初演らしいね
ふ~ん
内容だが、まず、ガルサン(男)、イネス(女)、エステル(女)の3人が地獄に落ちる

平和主義の新聞にいたガルサン(ちなみに浮気性)は、いざ戦争がはじまると、逃げ出してしまう。

結局、国境で捕まり、みじめな銃殺刑をこうむり、地獄へ・・・

イネスは、ある男と女の3人で同棲していたが、女と2人で出ていってしまう。

その結果、男は鉄道自殺。

一方、イネスは女と愛し合うが、女はイネスを巻き込んでガス自殺する。

で、イネスは地獄へ・・・

エステルは、不倫相手との間に生まれた赤ちゃんを殺した。

のち、肺炎で死に、地獄へ・・・

ところがこの地獄には、なーんにもない。

なにもない、とういうのは、いわゆる地獄の業火に焼かれるとか、そういう類の責め苦がない。

ただ単に、3人がいるだけ

それが地獄、ってオチね? 3人でいること自体が

お、鋭い。

そう、最後にガルサンは言うわけ。

「地獄とは他人のことだ!」とね

長くなるから、ガルサンだけを中心にみていく

戦争という事態に、平和主義を掲げて(信念をもって)対決することなく、スタコラサッサと逃げてしまったガルサンは「卑怯者!」とレッテルを貼られることに怯えている。

実際、卑怯者なんだからね

こんなやりとりがある。

ガルサン「エステル、僕は卑怯かい」

エステル「わからないわ。あたし、あなたじゃないんだから。それはあなたが決めることよ」

ガルサン「決められない」

ガルサンは、自分が卑怯者ではないということについて、他者から承認を受けたいのさ。

エステルは、そんなの自分で勝手に自己肯定、自己正当化すりゃいいじゃん、と言う。

が、ガルサンにそれはできない。

相手がいて、その相手が認めてくれて、はじめて自己肯定が成立するんだからね

男好きのエステルは、ガルサンに「あなたが卑怯者でも、あたしあなたを好きになるわ! それじゃいけないの?」と求めるが、当然、ガルサンは卑怯者としての自分を愛されて嬉しいわけがない

ガルサンは言う。

「僕は男になりたかったんだ。骨のある男に」

「僕は勇士であることを夢みたんじゃない。僕はそうなることを選んだんだ」

しかし「勇士」になれなかったガルサンは、「勇士」どころか「卑怯者」というレッテル貼りに怯えてしまい、そのレッテルを剥がしてくれることを、エステル、イネスに望むが、ともにその願いは叶えられない

エステルは無関心であり、無色透明な鏡ともいえるイネスはガルサン自身が抱く「オレ=卑怯者」という自己像をそっくりそのまま映し返す

「勇士」でありたいのに、そうあることを承認してくれないエステルとイネスに対し、さっきのセリフをガルサンは言う。「地獄とは他人のことだ!」と。

つまり、なるほどガルサンが劇中で言うとおり、ぼくら人間はなりたいものになることができる。

ただし、なりたいものになれているかの決定権が他者たちに握られている。

そこに救われないガルサンの苦悩がある

しかもこの場合、他人、他者とは、広く社会のことを意味している。

戯曲の(主要)登場人物が3人、ってとこがミソだ。

しかも配置が、男、女、そして3人目である女がレズビアンという、まさに巧妙な配置だ

劇中、卑怯者だと思われたくないガルサンは、男だったらなんでもいいエステルと関係をもちそうになる。

これは対幻想と呼んでいいだろう。

つまり、エステルは男だったらなんでもいいわけだから、ガルサンが「卑怯者だと思わないでくれ!」と求めるのであれば、「いいわよ、抱いてくれるなら、どういうふうでも」となる。

一方、ガルサンはガルサンで、自分のことを「勇士」扱いしてくれる相手なら、誰だっていいわけだ。

互いに虚構の上に成立している関係だが、二者関係であれば、それら幻想が幻想の中でループして閉じてしまい、虚構は暴かれることなく、対幻想が成り立つ

まぁ要するに、バカップルってことね
なるほど、そうだね

ところが、対幻想の虚構性は、第三者の眼差しによって崩されてしまう

それが、イネスであり、社会だと言える。

つまり、三者関係というのは、社会の最小ユニットなんだよ

ってことは、地獄とは社会そのもの、ってこと

だからこそ、『出口なし』の舞台は、ただの部屋、一室で、ザ・地獄的な風景は見られないんだ。

地獄とは落ちるところではなく、すでにぼくらがいるところのことだ、となる

ねぇ、話しを戻すと、要するにガルサンは「〇〇でありたい」と思ってる、けど、周りから「〇〇だよね」と言ってもらえないから、認めてもらえないから、苦しいんだよね。

承認欲望が満たされないってことだよね?

でも、たったそれだけのことで、他者が地獄とか、社会が地獄とか、言い過ぎなんじゃない?

いやいや、それがね、ここからもう一歩踏み込んでみると、なんていうの、それはもう深い話になるんだよ。

そうだね、ここでもう1冊、本を紹介しよう。

サルトルは全共闘時代のヒーローだったのだから、同じく、その時代の中から選ぼう

高野悦子(1949-1969)さんで『二十歳の原点』(新潮文庫、改版2003)

知ってる?

じつはね、知ってるよ。てか、読んだことある。

立命館大学の学生さんで、鉄道自殺しちゃった人の日記でしょ

そう。

ここに、これから話したいことのエッセンスがね、結構つまってるんだ

わかった。聞かせて
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登場人物紹介

デンケン先生(49)・・・・・・仙人のごとく在野に生きる(自称)哲学者。かつては大学院にいたり教壇に立ったりしていたが、先輩方から「きみが考えてるテーマ(<私>とは何か?とか)じゃ論文書けないでしょ=研究者にはなれないよ」と諭された結果、むしろアカデミズムを捨てて在野に生きることを決断。これには『老子』の(悪)影響もある。べつに大学教授になりたいとは思わない。有名になりたいとも思わない。ただ、考えたいと思うことを考えていたいだけ、の男。ゆえに本業(生活手段)はサラリーマンである(薄給のため未だ独身、おそらく生涯未婚)。

哲学ガール(18)・・・・・・槙野マキ。哲学すること大好きっコ。デンケン先生が大学院で学んでいた頃の友人の一人娘である。哲学好きには親の影響があるだろう。近所に引っ越して来たため、ときどき遊びに来る。独身のオッサンと美少女という組み合わせだが、恋愛関係に発展してしまうのかどうかは、今後のお楽しみである(たぶんならない)。

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