3 心身二元論
文字数 1,931文字
おぎゃあ! と生まれたときには、この<わたし>はまだ<わたし>ではなかった、と言えるだろう。
簡単にいうと、コレが自分だっていう明確な感情をもってなかった。
世界(外界)の中に没入していた、とも言える。
だとするなら、この<わたし>は、いつから<わたし>になったんだろう?
それはさておき、もし心身二元論を採るなら、この<わたし>とは何か? という問いについては簡単に答えがでてしまう。
<わたし>とは、すなわち魂だ、精神だ、という話になるからね。
この身体の中に<わたし>=魂(精神)が入っている、ということになる。
それはもう、おぎゃあ! と生まれたときから、最初から入ってることになるんだ
輪廻なんてヘンだよね。死んで魂だけが残る。たとえば、ぼくの魂が残る。
このとき、ある人は言う、すべての過去を思い出す、と。
であれば、ぼくはぼくであり、かつ同時に、過去の記憶、Aさんだった頃、Bさんだった頃、Cさんだった頃を思い出すわけだろう。それはね、ありえないんだよ
たとえば、この前に話をした解離、交代人格(いわゆる多重人格)の場合も、人格が交代交代に順番に現れるから成立するんだよ。
同時多発的にAさんBさんCさん・・・・・・が出現してみなよ、それはもう、ぼく、という存在ではなしに、カオス、多頭のバケモノだろう
あるいは、こう言う人がいる。死んで魂になったぼくは、あくまでぼくなんだけど、生まれ変わったときにね、ぼくであることを忘れてしまい、完全にべつの誰かになってしまう、と。
だとしたら、それ、輪廻と言える? ぼくは完全に消滅してしまうわけだからね。
で、死んだときにさ、また、ぼくであった頃を思い出す、とするなら、再び多頭のバケモノが出現してしまうことになる
けれども今度は逆にね、心身二元論が間違いだとするなら、身体は物理的(物質的)であるのに、なぜ<こころ>なんてものを感じるのだろう、という問題がでてくるわけだ。
これはこれで頭を抱えてしまうよね。
いっそ心身二元論を認めてしまったほうがラクになれるくらいだ。
身体は物質的にできているのに、なぜ非物質的な<こころ>を感じるのか、と。
もっと言うと、<わたし>の存在を感じるのはなぜか、と
ただ、一足飛びにそこまでいかないで、おぎゃあ! と生まれたときに、心身二元論のように、あらかじめ<わたし>なる本体がそこに、身体の中にプリセットされているわけではないとするなら、
つまり、おぎゃあ! と生まれた後で、成長のどこかで、<こころ>なり<わたし>なりを明確に感じるようになるとするなら、その過程はどのように進行していくのか、と、問うことはできるんだ