3 心身二元論

文字数 1,931文字

ぼくは小さい頃からずっと、ここにいる、こいつ、この<わたし>の存在ってなんだろう、って、ずっと思ってきたんだ
へぇ~
たとえば、いつからぼくはいる? この<わたし>はいる?
生まれたときからなんじゃないの?
そうかな? 生まれたときの記憶はある?
小学生の頃からの記憶しかないかも?

おぎゃあ! と生まれたときには、この<わたし>はまだ<わたし>ではなかった、と言えるだろう。

簡単にいうと、コレが自分だっていう明確な感情をもってなかった。

世界(外界)の中に没入していた、とも言える。

だとするなら、この<わたし>は、いつから<わたし>になったんだろう?

う~ん・・・・・・どういうこと?
前回、心身二元論の話をしかけたね
うん

心身二元論は古くからある考え方で、たとえば西洋哲学史をさかのぼると、プラトンまで辿れる。

身体と心(精神、魂)とは別モノだ、とみる

要するに、身体の中に心(精神、魂)が入っている、と考えるわけだ
わかるよ。で、死んだら魂が天国へ行くとか、地獄へ行くとか・・・・・・

まぁ、ね。

身体(肉体)は滅びる。

じゃ、魂はどうなるのか? 

魂は不滅だとするなら、それはどこか違う世界へ赴くか、あるいは輪廻するとしておかないと、理論的な辻褄が合わなくなるからね

それはさておき、もし心身二元論を採るなら、この<わたし>とは何か? という問いについては簡単に答えがでてしまう。

<わたし>とは、すなわち魂だ、精神だ、という話になるからね。

この身体の中に<わたし>=魂(精神)が入っている、ということになる。

それはもう、おぎゃあ! と生まれたときから、最初から入ってることになるんだ

しかし、だ。ぼくらはすでに「幽霊は見えない」「幽体離脱もしない」ということを確認してきた。幽霊がホントにいるなら、身体から離れた魂が存在するのかもしれないし、幽体離脱がホントに生じるなら、やはり身体とは異なる魂が存在することになるのだろうが、それは、無い
ちなみに「我思う、ゆえに我あり」で有名なルネ・デカルト(1596-1650)もまた心身二元論者だったけれど、デカルト以来、心身二元論へのもっとも有効な反論は、Q:精神と身体が異質なものとするなら、なぜその異質なものが相互作用できるのか? というものだった
しかしそこまで難しく考えなくても、心身二元論はツッコミどころが満載なんだよ
たとえば?

輪廻なんてヘンだよね。死んで魂だけが残る。たとえば、ぼくの魂が残る。

このとき、ある人は言う、すべての過去を思い出す、と。

であれば、ぼくはぼくであり、かつ同時に、過去の記憶、Aさんだった頃、Bさんだった頃、Cさんだった頃を思い出すわけだろう。それはね、ありえないんだよ

え、なんで?

たとえば、この前に話をした解離、交代人格(いわゆる多重人格)の場合も、人格が交代交代に順番に現れるから成立するんだよ。

同時多発的にAさんBさんCさん・・・・・・が出現してみなよ、それはもう、ぼく、という存在ではなしに、カオス、多頭のバケモノだろう

なるほど・・・・・・

あるいは、こう言う人がいる。死んで魂になったぼくは、あくまでぼくなんだけど、生まれ変わったときにね、ぼくであることを忘れてしまい、完全にべつの誰かになってしまう、と。

だとしたら、それ、輪廻と言える? ぼくは完全に消滅してしまうわけだからね。

で、死んだときにさ、また、ぼくであった頃を思い出す、とするなら、再び多頭のバケモノが出現してしまうことになる

まぁ、長々とは話さないよ。心身二元論を突き詰めて考えていくと、ツッコミどころが満載だ、ということだけ分かってもらえるならば、よし

けれども今度は逆にね、心身二元論が間違いだとするなら、身体は物理的(物質的)であるのに、なぜ<こころ>なんてものを感じるのだろう、という問題がでてくるわけだ。

これはこれで頭を抱えてしまうよね。

いっそ心身二元論を認めてしまったほうがラクになれるくらいだ。

身体は物質的にできているのに、なぜ非物質的な<こころ>を感じるのか、と。

もっと言うと、<わたし>の存在を感じるのはなぜか、と


う~ん、深い・・・・・・

ただ、一足飛びにそこまでいかないで、おぎゃあ! と生まれたときに、心身二元論のように、あらかじめ<わたし>なる本体がそこに、身体の中にプリセットされているわけではないとするなら、

つまり、おぎゃあ! と生まれた後で、成長のどこかで、<こころ>なり<わたし>なりを明確に感じるようになるとするなら、その過程はどのように進行していくのか、と、問うことはできるんだ

なんか発達心理学っぽい話だね
うん、発達心理学にも触れたいと思うが、とりあえず続きは次回としよう

え? ここで。なんか消化不良~。

また明日来るね

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登場人物紹介

デンケン先生(49)・・・・・・仙人のごとく在野に生きる(自称)哲学者。かつては大学院にいたり教壇に立ったりしていたが、先輩方から「きみが考えてるテーマ(<私>とは何か?とか)じゃ論文書けないでしょ=研究者にはなれないよ」と諭された結果、むしろアカデミズムを捨てて在野に生きることを決断。これには『老子』の(悪)影響もある。べつに大学教授になりたいとは思わない。有名になりたいとも思わない。ただ、考えたいと思うことを考えていたいだけ、の男。ゆえに本業(生活手段)はサラリーマンである(薄給のため未だ独身、おそらく生涯未婚)。

哲学ガール(18)・・・・・・槙野マキ。哲学すること大好きっコ。デンケン先生が大学院で学んでいた頃の友人の一人娘である。哲学好きには親の影響があるだろう。近所に引っ越して来たため、ときどき遊びに来る。独身のオッサンと美少女という組み合わせだが、恋愛関係に発展してしまうのかどうかは、今後のお楽しみである(たぶんならない)。

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