9 世界史の哲学
文字数 4,967文字
無茶ぶりだが、いいだろう。
サルトルはフランスの哲学者で、戦後哲学史における巨人だよ。
しかも小説を書いたり、戯曲を書いたりと、マルチな才能を発揮している。
とりわけ小説『嘔吐』(邦訳アリ)なんか世界的に有名だし、戯曲だってね、つい数年前に東京の新国立劇場で上演されるなど、今も生き残っているんだ
しかも、だ。その思想や言動は政治的な影響を世界に与えた。
もちろん、日本にも。
たとえば、ぼくの恩師は全共闘の人だったが、当時はね、マルクスとサルトルを読んでると「オシャレでモテた」らしい、そう言ってた。
恩師もサルトルをむさぼるように読んでたってさ
ヘーゲルの『歴史哲学講義(1840)』が岩波文庫(長谷川宏訳、1994)で読めるから、もし余力があれば目を通してみるといいんだけど、簡単に超訳してしまうと、世界史には【意味】があり、その意味とは【自由】を実現することだ、という。
つまり世界史とは、ぼくたち一人一人が【自由】を実現していく運動だ、ということ
それは、どうだろうね。
まぁ、自由については、また改めて議論するとして、もう一度繰り返すよ、当時のね、社会的信念は、ヘーゲルに顕著なように、世界史はデタラメに進行しているのではなく、ある方向、矢印、ベクトルをもっている、といったものだったんだ。
これを、たった一言で【進歩】と呼んでもいいだろう
超訳してしまおう。
まず、暗黙の前提として、人間をつくったのは神様だ、とする信念がある。
人間は神の似姿だ、なんて言ったりするけれども、どこが、似ているのか?
肉体ではない。そもそも神は描かれない(肉体をもたない)しね。
【理性】なんだよ
カントの『啓蒙とは何か』という小論もまた岩波文庫で読めるから、目を通しておくのも悪くないと思うけど、簡単に言うと、ここでカントは「自分の足で立て!」って言ってるんだよね。
たとえばぼくらだって、議論をすると、声のデカイ人や、権威のある人、あるいは空気、なんてものにまるめこまれてしまうけれども、カントは言う、ぼくらは平等に(神様から)理性を分け与えられているんだぞ! だからその理性を信頼し、自分の頭で考えよ! まるめこまれるな、と
そう、それなんだよ、それがカント的な回答でもあり、理性的な回答だ。
警察に捕まるから、とか、●●が●●だから、とかいうのではなしに、端的に「理性がダメだと訴えてくるからダメ」というわけ。
これが、【自由】というものの一側面でもある
●●が●●だから、●●する、というのは、なにかに依存した判断ってことだよね。
端的にダメなものは、ダメ! とするのは、なにものにも依存していない。
つまり理性は理性それ自身を根拠としている、自律している、これが自由ってことなんだよ
せっかくだから、ここを踏み台にし、ヘーゲルの歴史哲学を超訳してしまおう。
(1)人殺しは理性によって、ダメなものはダメなものとして整理がついている。
(2)だから理性を正しく用いるなら、誰も人殺しはしない。
(3)しかるに、世界史は人殺しで満ちている。なぜか?
(4)それは、一人一人の理性がまだまだ充分に開花されてないからだ、となるでも、それこそ雑草がコンクリートを割ってでも生えてくるように、理性の運動は誰も止められないんだ。
世界史の進行過程で、理性がね、少しづつ花開いていく。
で、詰まるところ最終的には、たとえば人殺しのない世の中へと至る。
ん~、理性が全面開花した世界って、まさに神の国だね。
というか、理性を人間に与えたのはそもそも神様で、その理性こそ人間が神の似姿である証拠なんだからさ、論理的帰結として、理性が全面開花すれば神の国へ近づく、というのは当然だね
ところが、だ。
第一次世界大戦、そして第二次世界大戦が勃発する。
しかも、だ。ナチスのホロコーストなんて、とんでもない事実も明るみになる。
そこで、センシティブな人たちはね、【理性の自己実現=世界史の進歩】を、ヘーゲルのように無邪気には信じられなくなったんだ
ドイツの哲学者、アドルノ(1903-1969)とホルクハイマー(1895-1973)の2人は、大戦中に共著を準備し、戦後それが正式に『啓蒙の弁証法(1947)』(徳永恂訳、岩波文庫、2007)として出版されるんだけど、その序文に印象的な一文がある。
「われわれが胸に抱いていたのは、ほかでもない。何故に人類は、真に人間的な状態へ踏み入っていく代わりに、一種の野蛮状態へ落ち込んでいくのか、という認識であった」
ちなみに、理性とはいったい何だったのか? ということについての強烈な問いが、さっき挙げた『啓蒙の弁証法』には満ちている。
理性は(計算的な)合理性となり、たとえばユダヤ人を効率よく殺していくのに用いられる、一方で、そういうことをしちゃダメだ、という絶対的なストッパーにはならなかった。
一文を引用しよう。「理性は計算と計画の道具であり、目的に対しては中立的であり、その基本原理は均等化である」
つまり、理性=合理性は、目的に対して適切な手段を用いるよう計算してくれるが、その目的それ自体が正しいか間違ってるかを判断することは留保してしまう。
たとえば理性=合理性は原子爆弾をつくるが、それをどう用いるのかについては棚上げする
平たく言ってしまえば、神の似姿だった「人殺しはダメだからダメ!」とかいう倫理的理性は、「え? ダメだからダメ、じゃなくてさ~、その根拠は?」と冷徹に問う科学的理性(合理性)へと変異した、ということ。
もっと言うと、この科学的理性=合理性は、数理的に判断・証明できないものは、ぜんぶひっくるめて迷信・妄言・信仰・信念の類にしてしまう。
つまり、たとえば価値観の問題にはノータッチ。科学的理性は「原爆はつくります。でも、それをどうするかんて、(あなたの価値観だから)知りましぇ~ん」となる
さらに付け加えると、「理性は計算と計画の道具であり、目的に対しては中立的であり、その基本原理は均等化である」という一文にある基本原理=均等化というのは、超訳するなら、科学的に計算できないものは全部除外するってこと。あるいは逆に、何もかも科学的(数学的)に計算できるようにしてしまう、ってこと。
たとえば、学力って何だと思う? いろんな答え方があるんだろうけど、それを理性=(計算的)合理性は【偏差値】に還元してしまう。
学力が高い=偏差値が高い、とね
多彩であってしかるべき学力の定義を、偏差値に一元化することで、なにが都合よいかというと、何かと管理しやすくなるよね。
長くなるから、これ以上は言わないけど、アドルノとホルクハイマーは、理性⇒計算的合理性という変異の帰結として、個々の人間が数量的に管理(把握)されていく管理社会、あるいは全体主義、を見ている
さて、話を元に戻そう。
神の似姿、その根拠だと信じていた輝かしい理性が、じつは価値中立的な、単なる計算的合理性にすぎないものだったとしたら・・・・・・
つまり理性が、じつは根っこから腐ったものだったとするなら・・・・・・
ぼくら人間とは、本当に(神様に近い)美しい存在であるのか?
もっというと、神様=理性=人間、という接続を見失うということは、ぼくら人間も、所詮は動物の延長線上でしかない、と認めるようなものだ。
あるいは、動物より、ぼくらはもっと残虐なことをする。動物以下かもしれない
輝かしい理性を喪失し、残虐な動物でしかなくなった人間に、存在価値はあるんだろうか?
たとえば、さっき名前を挙げたアドルノの本に『否定弁証法(1966)』(木田元ほか訳、作品社、1996)というのがあるけど、そこでアドルノは「アウシュヴィッツ以降は、このわれわれの生存が肯定的なものであるといういかなる主張も単なるおしゃべりに見える」と、痛烈な発言をしている
そう。重いよ。
世界史に【意味】なんてあるのか?
もっと言うと、【意味】のない世界史を生きるぼくら人類に、あるいは個々の人生に、【意味】なんてあるのか?
つまり、世界=社会=人類=ぼくたちが、こうして在ることに、【意味】はあるのか?
ないかもしれない、と答えが返ってくる