10 サルトル、あるいは実存主義

文字数 2,841文字

まず、サルトル入門として、1冊だけ本を紹介するとするなら、ぼくは迷わず『実存主義とは何か』(伊吹武彦ほか訳、人文書院、増補新装版1996)をオススメしたい。

ここには、戦後すぐ1945年の10月にサルトルがおこなった伝説的な講演が収められている。

コレはね、一読の価値があると思う。とりわけ高校生か大学生に読んでほしいな、槙野さんくらいの年頃のコに

ふ~ん、なんで?

ぼくがサルトルを読んだのは大学生のときで、なんというか、カラダにね、背中に、ビビッと電気が走ったよ。妙に心が躍ったもんだ。

有名どころでいうとニーチェなんかもそうだが、若いうちに読んでおいたほうがいいね。

40過ぎたぼくのようなオッサンが、いまさらニーチェを読んでもさほど感動しない。

読むべきときに、読むべき本を読んでおく、というのは、読書体験を豊かにするよ

ニーチェなら少し読んだことがあるよ。『ツァラトゥストラ』の最初のほうで、すぐに挫折したけど
『ツァラトゥストラ』はニーチェの中でもとくに有名な本だが、そこから入らないほうがいいよ。というか、むしろ『ツァラトゥストラ』は無理して読まなくていいだろう
じゃ、なにから読めばいい?

ニーチェは、ぼくは学生時代の夏休みに部屋にこもってね、全部読破にトライし、実際に読破した思い出があるから、思い入れのある思想家だ。

うーん、なにがオススメかというと、すぐには浮かばないが、解説書・入門書の類としては、清水真木さんの『知の教科書 ニーチェ』(講談社、2003)を絶賛オススメしたいな。

ぼくはニーチェの解説本もたくさん読んだけれど、清水さんのは、もうこれ凄いな! の一言に尽きたよ。ここまで分かり易く、かつ本質を突いた解説書を、いまのところぼくは他に知らない

ふ~ん、先生がそこまで言うなら、読んでみる。貸して~

うん、いいよ。

さて、サルトルの話だったね

うん

サルトルはこの講演の中で、のち、あまりにも有名になってしまうセリフ、「実存は本質に先立つ」と発言したんだ。

【実存】というのは、つまり、今ここにいる、ぼくらのことなんだけど、わざわざ実存と呼ぶからには深い意味合いが込められている。

説明しよう

たとえばエアコンは、部屋を暖めたり冷やしたりするために作られてるよね?
当たり前じゃん。そのために作ったんだから

そう、そのために、目的を達成するために作ったんだよね、エアコンは。

それじゃ、ハサミはどうだろう?

あるいは、この机とか、椅子は?

ハサミは切るために。机や椅子は、たとえば勉強したり仕事したりするためにあるんじゃない。

ていうか、そのために作ったんだから

そうだね。

だから、この場合は「本質が実存に先立つ」と言える。

つまり、ハサミや椅子や机に、もしぼくらと同じ意識(心)があったなら、「オレって何のために存在してんだろう?」なんて悩む必要はないわけ。

本質、あるいは存在意義って言い換えてもいいかもしれないけど、それは存在する前から、あらかじめ定まってたんだから。そのために、作られたんだから

だから、そんなの当たり前じゃん
それじゃあ、ぼくら人間の場合はどうだろう?
・・・・・・
ぼくらの本質、存在意義、生きてる価値、あるいは意味って何だろう?
う~ん

もし神様がいて、ぼくらを作ったんだとしたら、ちょうどぼくらが椅子や机を、ある目的を達成するために、意図をもって作るのと同じように、ぼくらの存在意義もまたあらかじめ神様によって設けられているのかもしれない。

ぼくら人間の本質とは何か? あるいは「ぼくは何のために生きているのか?」という問いの答えは神様があらかじめもっているのであり、それに気づくのがぼくらの使命、となるだろう。

しかし、サルトルはあいにく無神論者だ

だからサルトルは言う。

本質がどうのと問う前に、ぼくらは先に、この世界に生まれちゃってる、世界に生まれて、すでに世界に巻き込まれている、とね

あ、なんとなく分かった。

「実存は本質に先立つ」って、本質は事前にあるわけじゃない、生まれた後から見つけろ、ってな感じ?

お、鋭いね。

簡単に先取りすると、生きる意味なんて、ない。

むしろ自らが生きていくなかで実現していくもの、それが、生きる意味だ、となる

たとえば、ぼくは大工職人の息子で、少年期はけっこう貧しかった。「あぁ、カネもちの家に生まれたら、どうなってたんだろーなー」と夢想したこともある。

それは、いってしまえば現実逃避だ。

サルトルの場合、逃げるのではなく、それを【主体的に】受けとめよ、という

ぼくらは様々な状況の中で生きているよね。

その状況から目を逸らしたり、逃げるのではなく、その状況を受けとめる。

で、受けとめるとどうなるか? 次のステップとして、何が待っているのか。

「じゃ、オレはどうするのか(どうしていくのか)」という具体的行動、どう状況に関わっていくのかという、決断が迫られてくるわけだ

状況を真摯に受けとめ、決断し、実行すること。

そして、その決断=実行が、まさに他でもない自分自身の意思にもとづいたものであるがゆえに、責任を負うこと。

これが、サルトルのいう【主体性】だ

ちなみに、サルトル的主体は、孤独と不安に包まれている。

なぜなら、自分の運命は、神様によって与えらえるものではなく、親が決めるものでもなく、自分自身で見出すものであり、自分の道は自分で選んでかなきゃならないからだ。

一方では、逆に、そうであるからこそ、サルトル的主体は【自由】である、とも言える。

あなたを束縛するものは何もない。

あなたに許されていないものは、何もないのだから

つまり、サルトル的主体は不安に包まれて孤独だが、かつ同時に、そうであるからこそ、何ものにも依存しないがゆえに、自由がある。

ぼくらは自らを取り囲む状況を、むしろ自ら進んで受けとめ、決断し、実行し、自らの運命を自ら切り開き、自分が何者であるべきかは、自分で定めていく。

生きている価値、意味は、他でもない自分自身で見出す。

どう? サルトルは若いうちに読んでおくものだよ、って言った意味、分からない?

うん、なるほど、分かる気がする~

ところが、だ。

このサルトル的主体ってやつが、のちに続くフランス現代哲学、構造主義とかポスト構造主義とか呼称される思想運動の中で、コテンパンにやっつけられることになる

え? そうなの?

なんていうか、とても常識的な、当たり前のことを聞かされてた気がするんだけど、間違ってるの?

いろいろと脱線してて申し訳ないが、この『哲学探究Ⅰ』のテーマは、<わたし>とは何か? だったよね
うん、そうだよ

サルトル的主体は、いわば一つの幻想に基づいている。

で、はからずもサルトル自身が、そこにある意味気づいてたと見るべきで・・・・・・それをね、たとえばサルトルの戯曲『出口なし』の中に見つけてみたいと思う。

ちなみにサルトル的主体の限界(難点)を知るとき、ぼくらのテーマである<わたし>について、ある一つの側面が綺麗に浮かび上がってくると思う

うん、わかったよ


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登場人物紹介

デンケン先生(49)・・・・・・仙人のごとく在野に生きる(自称)哲学者。かつては大学院にいたり教壇に立ったりしていたが、先輩方から「きみが考えてるテーマ(<私>とは何か?とか)じゃ論文書けないでしょ=研究者にはなれないよ」と諭された結果、むしろアカデミズムを捨てて在野に生きることを決断。これには『老子』の(悪)影響もある。べつに大学教授になりたいとは思わない。有名になりたいとも思わない。ただ、考えたいと思うことを考えていたいだけ、の男。ゆえに本業(生活手段)はサラリーマンである(薄給のため未だ独身、おそらく生涯未婚)。

哲学ガール(18)・・・・・・槙野マキ。哲学すること大好きっコ。デンケン先生が大学院で学んでいた頃の友人の一人娘である。哲学好きには親の影響があるだろう。近所に引っ越して来たため、ときどき遊びに来る。独身のオッサンと美少女という組み合わせだが、恋愛関係に発展してしまうのかどうかは、今後のお楽しみである(たぶんならない)。

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