第140話 虹を見た
文字数 4,008文字
その後、女皇帝により下賜されて、今では鵟が私邸として使用する事を許されていた。
かつての宮城よりも孔雀の面影の残る離宮を天河は知らぬ他人に手渡すのは忍びなかったので、鵟が住まいとすると知りとても喜んだ。
鵟は、レース編みで装飾された日記帳を閉じて、ペンを置いた。
まだ若い時に初めて自分で編んだものを貼り付けたものだから、今見てみると稚拙な出来のような気がするが、それでも特別愛着がある。
金糸雀と孔雀に教えて貰って編んだものだ。隣では集中型の孔雀と双子がボビンレースを一心不乱に編んでいた。放っておくと寝ないで何メートルも編んでしまうと翡翠が心配し、天河はショールどころか底引き網でも編むつもりかと慄いていた。
今はもう昔の、神の使いの名前を持つ船での日々を懐かしく思い出す。
北の地にしては驚くほど大きく設えられた窓を見上げた。
窓の外で
北の離宮を譲渡するに当たって天河がつけた条件は二つ。
一つは鵟の私室はかつての天河が使っていた広い部屋にする事。
恐れ多いことでことでこざいます、と恐縮したが、天河は特に念を押した。
当初は何故なのかはよくわからなかったが、部屋が不思議と暖かく、体が冷えないのだ。
どうやら孔雀が、古傷を持つ天河の為にと設えた天然の琥珀貼りの壁の効果らしい。
そして、床は厚いコルク張り。
呆れるほどの贅沢さと、その過保護っぷりに改めて驚くと、天河は愛されていた証拠だと満足そうであった。
それから、もう一つは離宮の前の並木は伐採しない事。
これは実をつける木で、冬場の野鳥の大切な食料だから。
先だっての声の主の
天河という人物も不思議で。
いや、家令も王族もやはり自分から見たら普通ではないが、孔雀も変わってはいたが。
天河は孔雀へ
なぜ兄や妹のように王権を求めないのかと訊ねたら、向いていないし理由がない、と断言していたけれど。
大いにありますのに。
そうね、確かに理由も動機もない。
孔雀お姉様が、天河様に異心を囁かなかったから。
それどころか、「そのままでいい。あなたが大好きよ」一番近くでそう言われ続けた天河は何と幸せであった事か。
翡翠もその点では、努力したからこそ愛されたのだろうが、まあ、死因も含めて、幸せであった事であろう。
何せ、今では翡翠が無血で執権移譲を果たし動乱期に突入するまでの期間は、"王様の幸福なお引越時代"なんて呼ばれているのだから。
鵟は立ち上がるとデスクの引き出しから小さなエピペンを取り出した。
年を経てから心臓に疾患が見つかり、何度か発作を起こしていた。対処療法としては簡単なもので、毎日定期的に自分で処置をしていたのだが。
眺めてから、もう一度そのまま引き出しにしまい込んだ。
もう半月程そんな事を繰り返していた。
総家令が仕える皇帝より先に死ぬのは昔は不名誉であるとされた様だけれど。
今では、好都合という所だろう。
つまりは、宮廷から自分は遠ざけられたのだ。
次代の妹弟子や弟弟子も順調に育っていた。
紅碧石の産んだ皇子や皇女達も健やかに成長した。
亡国の王女が国を簒奪したと言われたのは昔。今では、彼女はまさに国母だ。
かつて皇帝には複数の妃が仕えたが、今では一夫一妻で、女皇帝は夫との間に五人も子供を産んだのだ。
今、彼女は幸福であると言う。
だから鵟はもう必要ないのよ、と言うだけの話。
異国に育った彼女にとって、結局のところは自分の存在は妾にも満たぬ存在でしかないと言う着地点に至ったのだろう。
何と伝わらないものだ。
鵟は無念と滑稽なのとで複雑に苦笑した。
孔雀が心配そうに言った事を覚えている。
「鵟ちゃん、あなたが命を削って愛しても、相手の常識とかセンスの範囲でしか伝わらないものよ。ええと、だからね・・・ちょっとアナタ愛が重くない?」
相変わらずの様子に笑ってしまったものだ。
天河は姉弟子のそういうとこがダメなんだと呆れていたが。
彼もまた種類が違えど愛が重い選手権では上位であろうから。
確かに姉弟子は正しい。
紅碧石女帝の家令というものの存在の認識は今までの皇帝とは違うという事は姉弟子や兄弟子が危惧していた事だ。
そもそも翡翠の三妃という方は、家令の事も孔雀の事も嫌悪していたようだ。
その娘も積極的に嫌う事はないし、むしろ好意的ではあったが、やはり家令というのは慣れあってはならぬ備品という理解の仕方だったようだ。
孔雀は父王を篭絡し、母親を宮廷から追い出し、国を下々の俗間に引き渡した国賊という存在。
彼女からしたら、それがうまくいっていたのが更に不愉快だったのだろう。
鵟としては苦しく悲しい誤解だと非難したい気持ちであったが、兄弟子も姉弟子ももそりゃそうだ、そうなるわな、と納得の様子で。
廃妃だの廃嫡だのきちんとやってこなかった孔雀が悪いわな、とすら言う。
彼女が嫁ぎ、その国で産まれた紅碧石もまた、家令の性質をすんなりは受け入れられないようだ。
彼女の中では、家令と王族の関係というのは、良くて利用し合い共依存するという位置づけである。
では、この関係を何と思われるかとは、悲しくて情けなくて聞くこと等できない。
まあしかし、共依存という関係であれば欠かせない存在という事には変わりはない。
それでいいとも思っていたが。
何より現在、自分が満足してしまった。
彼女がそれで幸福ならば、もう、いいだろう。
疲れてしまったのではない。
孔雀の生きた時間を思ったとき、自分は、この先が怖くなった。
彼女がその腕に抱く幸福の中に自分がもう存在しないと悟った時に、こういう着地点を薄々望んでいたような気がする。
今自分は幸福だと紅碧石が言い、ならば、このままその幸福を祈ったままでいたい。
私もですと伝えられた事が何より幸せ。
何と贅沢な事。
私、幸せから先は、もういらなくなってしまった。
孔雀のように、幸福も不幸も飲み込んでそれが自分の世界の風景の一部と思って生きていく事は出来そうもないのだ。
だってあの姉弟子のようにその心象風景の中に、一緒に眺めてくれる人間が自分には残念ながら居ないのだ。
不思議なもので。
こんな死に様を待っている身の上だと云うのに、我ながら家令として人生を終えるのがこれほどしっくり来ているとは。
家令はなっていくものと言うから、自分はすっかりそうなったと言うことか。
「家令になったらもう何も気にしなくていいのよ、思い悩まないで、好きにすればいいのよ」と姉弟子がそう言った様に。
あの時、二十歳にもなっていない自分は、何といい加減な生き方だろうと呆れたものなのに。
そうね、本当。あまり気にならないものだ。
鵟はちょっと笑って、額に滲む冷や汗にため息をついて、琥珀貼りの壁の前に設えたデイベッドにそっと体を横たえた。
心臓を病むというのは苦しんでいきなり倒れるものだとばかり思っていたが、実は、違和感がある程度。
ただ冷や汗が出て、体が冷えるのはこたえた。
かじかむ指の先の爪の色が、青黒く変色していた。
孔雀お姉様の日記によると、晩年、床について後のお姉様は何度も
けれど最後を知る天河様のお話では最後は、ああやっぱりね、と笑い転げて、それからそれはご機嫌な様子で亡くなったそう。
ああ、そろそろ・・・ほらね。
空に高く響く
あらまあ、意外な方まで。
「相変わらずお前ったら呑気だ事。早くしな。一人で待たせたら可哀想じゃないのよ」
「だって緋連雀お姉様、見てこのカーテン。赤と黒のアーガイルチェック柄よ。目がチカチカする。私は鵟にはもっと可愛い花柄がいいと思っていたのに」
「だから、趣味が悪いのよこの子」
「ねえ、鵟。緋連雀お姉様、こんな事言っているけどあなたを心配して大変だったのよ」
唐突に、当然の様に紫色の目に覗き込まれた。
ああ、何て懐かしい菫色。
かつてのように彼女は妹弟子を抱きしめた。
あの不思議な香り。
昔、尋ねたらそう教えてくれた。
「ごめんなさいね。私、あなたにまた苦労をさせてしまったわね」
鵟は姉弟子を抱きしめ返した。
「いいえ。お姉様の描いた通りになりました。けれど、もう私は必要ない。孔雀お姉様が仰ったように、新しい物語には新しい配役が必要なのでしょう」
孔雀と緋連雀が妹弟子の手を取った。
「聞いた?さっき
「ああ、全く。この後に及んで虹だ鳥だってんだから」
緋連雀が呆れたように言った。元来せっかちなのだ。
早く早く、と、まるで早くしなくては損をするかの様に急きたてられる。
末期とはこんな風にせっかちに慌ただしく急かされるものなのか、と鵟はなんだかおかしかった。
でも。この姉弟子達がそう言うのだから、きっとその虹の見える場所は良い場所なのだろう。
鵟は灼かれる様な最後の息の緒を長いため息の様に吐き出そうとした。
「あら、それじゃ苦しいわ。ねえ、歌う様によ」と孔雀が微笑んだ。
「お姉様ったらこんな時に何と呑気な」
と鵟は吹き出した。
「だって。ねえ、ほら、あれ見て」
全ては事切れる寸前の幻覚だったのかもしれないけれど、最後に女家令は優しい雨に輝く虹を見た気がした。