第79話 明けの明星
文字数 6,004文字
日差しが明るく海風がよく入る学園都市は、開放感があり落ち着いていて、確かに心地いい。
天河がこの街から離れたがらないのも頷ける。
猩々朱鷺の計画で、孔雀は半期づつ無期限で修学すればよいという事になった。
敵の多い宮廷からの避難場所として用意してくれた姉弟子達の心遣いだ。
アカデミーは卒業がなく、入学してしまえばいつでも出入り出来る。
国籍、身分、何者か等関係なく学問を志す者に最高で自由な環境を、というのが信条。
孔雀が専攻したのは、公衆衛生、疫学、毒性学、環境学。
その中でも、動物学者のタシオニという女教授の研究室に惹かれて出入りしていた。
自分の気に入った教授が、いわゆる担任になるらしい。自分が専攻するしない関係なく。
鸚鵡と茉莉、黄鶲と瑠璃鶲のような師弟関係だ。
タシオニにはエマという十歳の娘がいて、彼女はすでにアカデミーに在籍を許されたという天才少女だ。何より嬉しいのは孔雀の友達にもなってくれた。
孔雀は資料から目を離し、立ち上がって伸びをした。
デスクの上の山のような資料が雪崩を起こして慌てて片付けた。
やらねばならない宿題がかなりあるのだ。
階下でガタガタという物音がして、孔雀は立ち上がった。
大嘴が戻ってきたらしい。
「おかえり、大嘴お兄様・・・」
帰りコンビニでアイス買ってきて、と頼んでいたのだ。
リビングには、天河とソファに転がされた兄弟子の姿があった。
兄弟子が酔いつぶれたらしいのに孔雀は唖然とした。
天河は疲れた様子でバケツのように大きなアイスクリームを孔雀に渡した。
「・・・まあ、天河様、申し訳ありません。・・・ちょっと、大嘴お兄様・・・」
お気に入りのラグに吐かれたら大変と慌てて孔雀は大嘴の手を引っ張った。
しかし、起きる様子もない。
「いつもの左岸の店で潰れた。あまり怒ってやるな」
と、天河が慣れた様子で言った。
今やオーナーが雉鳩の件の店だ。
孔雀は深々とお辞儀をした。
「明日、お店にお詫びに伺います」
本当にこの人、侍従の自覚あるんだろうか。
孔雀は、気合を入れて大嘴を担ぎ上げた。
他の家令もそうであるように孔雀もまた小柄な方ではないが、どちらかと言ったら屈強な部類に入る大嘴を持ち上げるのだから、やはり軍で鍛えられたのだろう。
緋連雀程ではないが、孔雀も馬鹿力だ。
孔雀は大嘴を部屋のベッドに落として、ペンで顔をパンダにするいたずら書きをすると、リビングに戻った。
「天河様、本当にご面倒おかけしました」
いつもこの調子だったのでは、天河を監視する事なんて不可能だったわけだ。
「・・・大嘴お兄様、昔っから天河様といると楽しくて、仕事忘れちゃうんだもの。付き合いいいタイプってあれだから」
しょうがないんだから。と孔雀はため息をついた。
「大嘴を待ってたのか?」
「いえ。宿題が終わらなくて・・・」
やってもやっても課題が終わらない。
しかし、課題を出して初めて試験を受ける許可が出るのだからして、とりあえずそこに漕ぎ着けなければならないのだが。
「・•・天河様、お腹空きませんか?」
キッチンから、カレーパンを持ってくる。
「さっき揚げたんです。・・・現実逃避で手間かかるもの作りたくなって」
大分追い詰められているのか。
天河はやたらうまいカレーパンを齧って、スパイスの香りのするミルクティーを飲んだ。
長年、翡翠と夜食を食べていたので夜中に腹が減るのもあるのだろう。
常にベタベタしているあの翡翠がよく孔雀のアカデミーへの入学を許したものだ。
それだけ、現在の宮城での彼女の立場の風向きが悪いと言う事だろう。
確かに、小学校中退という学歴に愕然としていたが、女官試験はパスしているし、殿試もそこそこであったらしいし、アカデミーの入学試験もパスしたのだから、白鷹と鸚鵡がしっかりと教育したと言う事なのだろう。
あの白鷹が教職を持っていたというのがもう信じがたいが、「白鷹お姉様、私が出来ないと物差しで叩くんです。ご飯抜きで物置に閉じ込められるからこっちも必死です」と孔雀が言ったのにやっぱりなあと思わざるを得ない。
「でも、お腹空いて物置で泣いてると、誰かしら食べ物持って来てくれるから、大丈夫だったんですよ」
白鷹もそれは知っていたが、放っておいてくれた。
孔雀が懐かしそうに言った。
天河がもう一個、とカレーパンに手を伸ばした。
「48個出来たからまだまだあります、どうぞ」
工場か、と引いたが、まあ、大嘴が起きたら一瞬で無くなるだろう。
あの大喰らいの食費を抑える為に、せめて一食は外食させるな、と雉鳩に言われているらしい。
なので、天河の侍従でもある大嘴は、天河の所有する
相変わらず落ちつかないひとだけど、腹が減ったら食べには帰って来るでしょう。嘴が長いから、と食い意地が張っていると
天河もここで食事を取る事が増えていた。
「天河様もいかがですか。お米一升炊いたんですよ」とか「3.5斤のパンを10本焼いたんですよ」等のパンチのある誘いを天河は首を傾げながらも断れなかった。
間違いなく大嘴の食費は抑制出来ているだろうが、遊興費は怪しい。
「お願い、出前なんて頼まないでそんなに腹が減るならお弁当持ってって!いい格好したいなら、私がオードブルセット届けるから」と孔雀が泣きつく程ボラれていた。
信じがたいが、あの店は今やオーナーが雉鳩らしい。
大嘴にポイントカードを渡された時は愕然としたが。来店ごとに苺や林檎のスタンプが押されるらしい。孔雀に消しゴムで作らせたからと言われてまたもがっかり。
孔雀は「おまけとか記念品のグッズを作るのが大好きなので、楽しく作りました。天河様、あと、あのう、今後しっかりと保健衛生局も入りますし、福利厚生も力を入れましたので。サービスを提供する側もされる側もご安心くださいまし。あ、プライバシーは守りますので、はい」と笑顔で言ってきたのには、久しぶりにショックを受けた。
つまり、管理は孔雀と言う事だ。つつ抜けではないか。
「・・・家令業に、軍に、神殿に、アカデミー。兄弟子の副業の
心配そうな天河に孔雀が吹き出した。
「また、そんな」
いや、冗談ではない。
「天河様こそ。
心配そうに孔雀が言った。
「今更もういいよ。せっかく慣れたのに」
再来月からまた軍に出向だ。
孔雀が負傷した一件で自分の立場を半公表せざるを得なかったが、それでもなお、海兵隊の面々と少しづつ打ち解けつつある今、今からまた別の場所でゼロから積み上げるのは面倒だし勿体無い気がする。
青鷺からも「ご身分を明らかにしてしまった以上、他に移籍という選択もありますし、実務から離れるというのも一案」と提案されたが、同じように意向を返すと、青鷺は、複雑な表情をした。
「天河様が貧乏性で良かったような、なんというか」と言い、他に言いようはないのかと、返す言葉もなかった。
「でも、
「
翡翠と孔雀の所属した
「
天河がつらつらと述べた。
「スパークリングは翡翠様のアイディアですよ。お優しいから」
天河としてはたまったものではない。
孔雀と翡翠発案の記念スパークリングワインの事だろう。
いちいちラベルに、皇帝即位と総家令の就任の記念に・・と紹介文まで付いているのだ。
気に触る。勘に触る。癪に触る。
「あの、では。せめて仏法僧を同じ時期に派遣します。どうぞ、何かありましたらお申し付けくださいね」
仏法僧、と言われて、天河はまた複雑な表情をした。
孔雀がスカウトした議員上がりの異色の家令だ。
孔雀が殊の外可愛がり、皇帝すら嫉妬しているらしいと耳に入っていた。
何がそんなに気に入ったのかと翡翠に問われて、天然パーマが、と孔雀は答えたと、家令達は大笑い。
家令にはいないタイプの清潔感のある好青年ぶりが受けて、女官や官吏にも大人気らしい。
それをまた総家令が喜び連れ歩くので、城の人間は仏法僧に触れ合える機会が増えて楽しみにしているらしい。
ああ、明るくなってきちゃった、と孔雀がカーテンを開けた。
「明けの明星ですね。ほら、ルシフェル」
東の空に、明るく輝く星が見えて、天河も空を仰いだ。
「金星か。ヴィーナスだろ」
唐突にどうしたのだろうと天河は訝しんだ。悪魔の王の名前ではないか。
「明けの明星をルシフェルと言うんですよ。光り輝くもの、という意味で。元は神様の次に輝かしい天使だったそうです」
「ああ。ルシファーは元は天使だったからか」
堕天して悪魔の王になったのだ。
「天河様、天体物理学研究してらっしゃるんですよね?」
なぜ知らないの、と不思議そうに見上げられて天河は首を振った。
「・・・宇宙と神話は別だ。神話は本当にあったわけじゃないんだぞ。わかってるのか。大丈夫か。だいぶ偏った教育受けたのは知ってるけど。・・・地球が丸いのと、我々がホモサピエンスなのは知ってるのか」
半分冗談半分本気で尋ねると、孔雀は真剣な顔で頷いた。
兄弟子姉弟子に子供の頃からからかわれてきたので、たまに変な事を信じているのを指摘されて驚くのだ。
「・・・まことに勉強不足でお恥ずかしい話ですけど。私、お城に上がるまで山羊の毛が伸びると羊になると思っていたし。オタマジャクシがカエルになるのは目で見たから知ってたんですけど・・・」
それは知っていたのか、と天河はほっとした。
「昔。私、ガーデンで大嘴お兄様とオタマジャクシ捕まえに言って。水槽なんてないから、大きなジャムの瓶で飼ってたんです」
可愛くて、いつも眺めていた。
「一番日当たりがいい場所に置いておいたんです。で、しばらくしたら、全部カエルになってて、ぴょんぴょん出ていっちゃったんです。本当にカエルになった!って私びっくりして、全部飼おうと思って集めてたら、見つかって・・・。白鷹お姉様、カエル大嫌いだから、玄関まで走って逃げて。私、すごく怒られて。ものさしでお尻ぶたれたんです」
天河が吹き出した。
あの女家令が悲鳴を上げて逃げ回って当たり散らしている様子が目に浮かぶようだ。
孔雀もつられて微笑んだ。
「あとですね、大嘴お兄様と毎年秋になると今年の雪はどのくらい降るのか調べに行くんですけど」
「どうやって?なんか観測機飛ばすのか?」
「そんなこと出来ませんよ、子供だもの。カマキリって不思議で。豪雪の年は、高い所に卵産むんですよ。で、毎年、カマキリの卵を取ってくるんです。卵狩りっていう遊びです。ほら、桃狩りみたいな」
そんな遊び聞いた事はないからきっと勝手に作ったのだろう。
なんとなく話が見えてきて天河はおかしくて仕方がない。
「おかきの缶に入れておいて、私ころっと忘れたんです。・・・で、軍から戻ってきた白鴎お兄様がお風呂上がりにビール飲むって時、なんかつまみないのって言って、おかきの缶見つけて。・・・・時期が良かったらしくて全部孵化してて」
千を超える小さなカマキリに白鴎は絶叫して、雉鳩が手っ取り早く殺虫剤撒こうとするのを、かわいそうだからやめてと孔雀が泣いて止めたのだ。雉鳩がしょうがないな、と言って掃除機で全部吸ってくれた。その間、白鴎は気絶寸前で身動き出来なかった。その後、孔雀は小さなカマキリを全部山に放したのだ。
「そしたら白鴎お兄様、集合体恐怖症になっちゃって・・・。トライポフォビアというんですか。蓮の実とか、水玉模様がびっしり並んでる手拭い壁材とか。イクラとかタラコとか、しらすの目とかもダメなんです」
「和食の料理人じゃなくて良かったな」
「粒マスタードとキャビアの瓶開けられないですよ。あの粒々がダメって」
血圧が一気に下がって貧血になるそうだ。気の毒すぎる。
しかし、と天河は三つ目のカレーパンを食んでいる孔雀を見た。
家令になって。こちらとしては複雑な感情でいたのだが、孔雀は辛くはなかったのか。
「そうですね。小さい時は怒られて泣いてばかりでしたけど。姉弟子や兄弟子がいつもいて。私、寂しかったりはしなかったですよ。まあ、一時期育児放棄された時は、お腹すいて大変でしたけど」
しかし、孔雀と大嘴は驚くべき生活力で持って見事自活したというのだからたいしたものだ。
「あの、天河様は・・・僭越でございますし、失礼とも存じますけれど、大変な事もあったと思います」
孔雀に改めて言われて、天河はうーんと考え込んだ。
なんとも寄る辺なきような気分だった時期、というのは思うほど長くはない。
母の死というのは、その亡くなり方も含めて幼い自分は確かに衝撃であったが、亡くなってそう時間をおかず、海外の祖父母の元に移り生活していたのだ。
宮廷に上げた娘を亡くし、後悔の日々の祖父母ではあったが不思議とあまり恨み言は言わなかった。やはり廷臣であったのだろうと思う。
大嘴が度々派遣され、年が近いという事もあり、親友のように過ごしてきた。
宮廷での生活が遠いものに感じるほど、新鮮で穏やかだった。
そして、ある日突然、金糸雀が迎えに来たのだ。
瑪瑙帝が逝去、しかるのち数日のうちに宮城に戻られたし、と言う書類と共に。
祖母は宮城が用意した特別専用機を丁重に断り、ギルド所有の航空機を用意した。
そこでまたテロ事件に巻き込まれ散々ではあったが、金糸雀と大嘴という家令が2人同乗していたのが犯人の運の尽きであった。
「・・・私、お祖母様の鹿乃呼様にお写真見せてもらった事があります。お祖父様と、どこかの湖で飛行艇に乗っているところ」
まだ少年の天河が、大嘴と大きな犬と写っていた。
とても楽しそうだった。
「他人が思うほど、子どもの頃お互い不幸じゃありませんね」
ほっとしたように孔雀が明るい星を見上げながら言った。
空がもう明るいのに、星がこんなに輝いて見えるのか、と思うほどきらめいていた。
「そうだな」
天河もまた、不思議と胸のつかえが溶けていくような気分で。
それから孔雀は、兄弟子や姉弟子の散々な素行の話や、子どもの頃に読んだ絵本の話をした。
天河が知る絵本の知識に、兄弟子も姉弟子も知らないのに、あの人達桃太郎すら怪しいのに、と孔雀はとても喜んだ。
気づくと、天河はソファで寝てしまっていた。
天河を担ぐのは不敬だろうかとさすがに躊躇われ、孔雀は毛布を山のように持ってくると、天河の上に掛けた。